文芸翻訳家、柴田元幸さんに聞く海外文学翻訳の今と未来【英語の未来】

1971 年、『ENGLISH JOURNAL』は生の英語が聞ける音声教材として誕生しました。当時はカセットテープでしたが、今やスマートフォンでブラウザやアプリを開くだけで、そこから無数の音声素材が入手できます。機械翻訳の進化によってひょっとしたら近いうちに自分で英語を話す必要がなくなるのでは?と想像してしまう時代。そんな現在、英語を使って活躍している方々は、どんな未来を思い描いているのでしょう。今回は、アメリカ文学研究者であり翻訳家、エッセイストの柴田元幸さんのお話をお伺いします。

※本記事は、ENGLISH JOURNAL2023年1月号に掲載した内容を一部抜粋したものです。

見逃せないインターネットの影響

1980年代から翻訳に携わってきた柴田さん。

長い翻訳歴の中で、仕事の進め方、翻訳する作品の探し方などに、どのような変化を感じているのだろうか。

「なんと言ってもインターネットの普及は翻訳の実作業に大きな変革をもたらしたと思います。以前は何冊も辞書を引っ張り出しては調べる必要がありました。それがなくなりましたね。少なくとも英語圏においては、ある程度の常識という事柄ならばネット上にないものはないと言っていいほどです。以前なら高価な辞書を買わないと入手できなかった情報も、誰もが入手できる時代になりました。

例えば欧米文学には聖書などから引用される語句がしばしば登場しますから引用句辞典が必須でしたが、今は大抵の情報はGoogleで探せば手に入ります。逆にネットでしか得られない情報もあります。こういう環境になると、翻訳者も調査力や情報力以外の部分で実力を示さざるを得なくなります。また、僕は好きな音楽を聴きながら仕事をしますが、これもSpotifyなどの配信サービスで済むようになり、良かれあしかれ本当に手軽になりました」

次々と流れていく細かい仕事

一方で柴田さんは、ITやデジタル技術の際限のない性能向上がもたらす課題も指摘した。

「ネットにある知識や情報がどこまで信頼できるのか。これを見分ける知識はネットでは入手できません。あと、作業効率はものすごく上がりましたが、以前なら原稿が書けたら自転車で郵便局へ行って速達で送り、帰りにちょっと一杯なんてこともできた(笑)。それが、今はクリック一つで原稿を送信できてしまいますから、一仕事終わったら、すぐ次の仕事、みたいになりますね。

また、デジタル化によってなまじ校正機能が向上したために、かつてなら気にもしなかった表記統一がやたら気になるようになった。僕自身、『MONKEY』という雑誌の編集長も務めているので、上がってきたゲラを見て、表記が統一されていないと『ここどうしますか?』なんて作家に問い合わせたりしている(笑)。とにかく校正上の細かい仕事にかなりの精力を使っている。でも、そんなの読者にとってはかなりどうでもいいことですよね。実は夏目漱石なんて表記の不統一も甚だしくて、同じ言葉にいろいろな漢字を当てていた。言い換えれば現代は、どうでもいいことにエネルギーを注げるようになったとも言えます」

文学作品の未来

では、ITやAIが作品内容に及ぼす影響はどうだろうか。

「これはまだ明確には見えていませんが、例えばカズオ・イシグロの『Klara and the Sun』などからも分かるように『人間』の輪郭が曖昧になってくるでしょうね。人間と機械の境界だけじゃなくて、『人間』とそれ以外の『動物』との違いも重要テーマになってきているのが面白い」

『Klara and the Sun』は2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが昨年発表した長編小説。
気になる方はこちらをチェック。

ブルーのインクと万年筆を傍らに

ネットの威力もあって、かつてよりずっと多くの仕事を(単位時間内に)詰め込んでいるという柴田さんだが、1日の時間配分を決めてルーティン化するようなことはしていない。

「実に行き当たりばったりな仕事のやり方をしています(笑)。能率は良くなっているけれど、その分あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、みたいになっています。翻訳作業は万年筆で手書き。書いた初稿を妻がパソコンに入力してくれます。随分前になりますが、自分で直接パソコンに打ち込むやり方に切り替えようとしたときもありました。出版社がどかっと専用の原稿用紙を送ってきてくれる時代があり、次にワープロが登場し、その後、ノートパソコンが出てきたので、もっと手軽で速いのではと思って使ってみましたが、結局、チラシの裏に手書きする方が速いことが分かって手書きに戻りました」

手書きの良さとこだわり

最近、対訳本を執筆したときは、大型モニターを搭載したパソコンで仕事をしたが、そうした特別な場合を除き、翻訳の仕事は全て手書きである。

「手書きの何がいいかと言えば、まず目が疲れないこと。そして姿勢の自由が利くことですね。パソコンは、画面と適正な距離、姿勢を保たないと作業がしづらいんですね。その不自由さがうっとうしい」

柴田さん手書きの原稿。

万年筆は愛用しているものが数本ある。インクはプラチナの顔料ブルーかセーラーの青墨。柴田さんは手に汗をかく上、クーラーが嫌いだそうで、汗の水分で文字がにじまない顔料系インクを使っている。

柴田さんが愛用する、万年筆用の顔料インク。

取材・文:織田孝一 写真:山本高裕(編集部)

続きはEJ最終号で!

文芸翻訳家、柴田元幸さんに聞く 海外文学翻訳の今と未来

ENGLISH JOURNAL 1月号(最終号)では、柴田さんをはじめとする英語関連業界の方々が「英語の未来」について語ります。インターネット、スマホアプリ、機械翻訳など、英語の学習やコミュニケーションは便利になるばかりの英語ですが、これから先も、英語を話す力は求められ続けるのか。自由な予想が広がります。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

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