現役プロ通訳者が通訳現場のさまざまな話題やこぼれ話を語ります。3回目の今回は、英語医療通訳者の押味貴之さんが、「この通訳はうまいなあ」と感じるさせる通訳者が行っている、通訳者の回り道とは何かを紹介します。
通訳の基礎技術
学生時代から続けている習慣で、40歳を過ぎた今でも年甲斐なく職場である医学部のサッカー部の練習に参加している。そこには毎年新入生が入ってくるわけだが、中には少しボールを蹴っただけで「うまいなあ」と分かる選手がいる。こういう選手は皆キックやトラップといった基礎技術が高いのだ。試合となれば最初の見立て通り、高いパフォーマンスを発揮する。もちろん基礎技術が高くても試合で活躍できるとは限らないのだが、うまい選手には必ず基礎技術が高いという共通点がある。
日常にひそむ言葉に対する探求心
※イラスト:つぼいひろきでは通訳にとっての「基礎技術」とは何だろうか?語学力、記憶力、背景知識など、さまざまな技術が挙げられると思うが、私は「これってこの言葉では何て言うのだろう?」という好奇心を持ち探求することではないかと考えている。
職場でのある昼休み。いつものようにカナダ人やイギリス人のスタッフと昼食を取っているときに、「ミカンのへた(hull)」や「リンゴがぼけている *1 」という日本語を英語ではどのように表現するのかという話になった。彼らは「英語圏の一般の人はそれらに関する特別な表現を使わない」と言う。では英語圏の人にとってミカンの細かな部分やリンゴの味などにどんな表現があるのか、そんなことが気になっていろいろと調べてみた。もちろんこういったものは医療英語や医学英語を生業とする私の仕事には直接役に立つものではないのだが、「これって英語(日本語)では何て言うのだろう?」と考えることで、英語圏や日本での文化をさまざまな視点で見直すことができるのだ。
では「これって英語(日本語)では何て言うのだろう?」を考え続けるとはどのようなことなのだろう?それはズバリ辞書に載っていない表現の訳語を考えることである。
例えば日本語の「院内処方」は、「院外処方」が一般的である英語圏で、説明が必要になる表現だ。「院内処方って英語では何て言うのだろう?」と考え続けることで、英語圏での処方の 仕組み に関して より深い知識と表現の蓄積が可能になる。
また英語圏では、臨床実習で指導医が学生や研修医に細かい知識を口頭で尋ねる pimping という表現がある。これもまったく同じ表現は日本語にはないのだが、「pimping って日本語では何て言うのだろう?」と考え続けることで、日本の臨床実習で指導医や研修医がどんな表現を使っているのかを考えることができるのだ。
※水分が抜けて、鮮度が落ちた状態のリンゴ。
回り道を楽しめる余裕が言葉の蓄積に
通訳の場合、仕事の前にはたくさんの事前準備が必要になる。学会での通訳となれば、そのトピックに関する背景知識の 取得 に始まり、発表者の過去の論文を読み込み、当日のスライドを翻訳した上で、使われる 可能性 の高い語彙に関する単語帳を準備することが求められる。これらはプロとして最低限行わなければならない事前準備である。
こういったパフォーマンスに直結する事前準備とは異なり、直結しない基礎技術は軽視される 傾向 にある。しかし通訳の仕事の本質が「これってこの言葉では何て言うのだろう?」である以上、この命題を考え続けられる通訳者の通訳は、よく練られた自然な表現であふれる。そんな通訳者の通訳を聞いたときこそ、「この通訳はうまいなあ」と感じることができるのである。
この記事は『マガジンアルク』2015年1-2月号に掲載されたものです。
文:押味貴之(英語医療通訳者・翻訳者・医師)
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