「美術が好き!」「英語が好き!」という方にとって、展覧会関連の翻訳などを手掛けるアート翻訳者はとても魅力的な仕事の一つではないでしょうか。連載「『アート翻訳者』になる!」(全6回)では、アート翻訳をはじめさまざまな専門翻訳を行うトライベクトル株式会社のご担当者に、アート翻訳者になるための方法、アート翻訳の重要性や現状、将来などを教えていただきます。第3回では、アート翻訳者の働き方について解説します。
アート専門の翻訳者の割合はかなり少ない
皆さん、こんにちは。第2回では、アート翻訳者へのキャリアパスや、目指す人がまず強化すべきスキル2つ、美術の知識を深める方法などをお話ししました。
では次に、実際の「アート翻訳の現場」についてお話ししましょう。
アート翻訳の現場で働く翻訳者は、 ほとんどすべてがフリーランスの翻訳者 であると言って間違いないでしょう。さらに、その中でアートだけに特化している翻訳者は比較的少数です。
トライベクトル株式会社はアート分野をメイン部門の一つとしているため、ほかの翻訳会社とは多少事情が異なりますが、例として挙げますと、日本語から英語へのセクションの翻訳者陣のうち、 アート分野に特化している翻訳者は全体の約11%、アートをメインにしつつほかの分野も担当する翻訳者が約24% です。残り約65%は、アート分野にはタッチしていません。
アート翻訳がいかに少数精鋭部隊によって行われているかがおわかりいただけると思います。
アート翻訳者に求められるものは特に多い
ではなぜ、アート分野に関わる翻訳者は比較的少数なのでしょうか?
一言で言いますと、 アート翻訳を仕事として成立させるためのスキルを身に付けるのに、ほかの分野に比べて長い時間と勉強が必要だから です。
アートへの造詣は1日にして深まるものではありませんし、その造詣を翻訳の形で表出するにはさらなる修練が必要です。その上、比較的短い納期で上質の翻訳を仕上げるには、機動的な調査力も必要になります。
もちろん、ほかの分野でもプロとしてやっていくにはそれなりの見識や経験の積み重ねが必要ですが、アートの場合は、それがより顕著であると言えます。
ですから、 いきなりアート翻訳者を目指すよりは、翻訳者としていろいろな分野を経験しながら、アートの知識を増強し、翻訳力を増していく、というのが理想的な成長コース かもしれません。
ほかの分野の翻訳との兼業事情は?
前述のようにアート翻訳者になるためにはさまざまなキャリアパスがありますが、ほかの分野との兼業をしている方も多くいらっしゃいます。
実際どのように案件を受けているかというと、メインとしてアート分野を中心に仕事を請け、それ以外の時間はほかの分野の翻訳を請け負っています。
例えば、視覚芸術に限らず、音楽系の案件(演奏評、イベント解説、国際コンクール関連など)を得意にしている翻訳者もいます。
また、アートだけでなく、郷土博物館系(地方の歴史・文化、民俗、平和記念事業など)の案件で高評価を得ている翻訳者もいますし、同じ美術館・博物館つながりで、アート分野の翻訳と共に、自然科学系の博物館の展示解説や音声ガイドの制作に関わっている翻訳者もいます。
中には、新進気鋭アーティストのアーティストステートメント(アーティストが制作のコンセプトなどを記述したもの)を翻訳した翌週に、「シルル紀の節足動物」について翻訳している、といったようなこともあります。
これはかなりレアケースですが、特別に優秀な翻訳者の中には、「文理両刀」の強者もいて、蒔絵(まきえ)工芸の図録論文を手掛けた後、量子解析や海水淡水化についてのドキュメントを翻訳するといったこともあります。
長い翻訳者人生でキャリアを確立する途上では、「アート翻訳者」を目指していても、ほかの分野に比べて高度な専門性を求められるため、日本近代工芸作家のプロフィールを訳したりしながら、実際にはゲームやアプリの翻訳の収入の方が多い、といった事例も珍しくありません。
「アート翻訳者」として、コンスタントに仕事を得て生計を立てるには、 アートの中で得意な分野 (たとえば「日本の近世の陶磁器」、「戦後日本美術」、「コンテンポラリーアート」など) を確立した上で、「アート全般および美術館・博物館の案件は引き受けられる」くらいの「守備範囲」でいるのがよいでしょう 。
このように、登録している翻訳会社の事情、翻訳者自身のスキル、体力やスケジュールにもよりますが、おおむね自らを「アート、学術、文化系の翻訳者」とくくっている翻訳者が多いと思われます。
アート翻訳者に求められる守備範囲と調査力
ご存じの通り、文化・歴史・芸術は、単独で存在しているものではなく、長い人類の営みの中で必然性をもって登場し、普及し、深化してきました。
特定の芸術作品の一部を取り出してみても、人類の歴史と無縁ではありません。
歴史の知識の一片が欠けているために誤訳や迷訳を生むこともあれば、翻訳の対象になっている作品の存在意義そのものを翻訳者が理解できず、やむなく字面だけを訳出せざるを得ない、ということも起こるのです。
「アート全般および美術館・博物館の案件は引き受けられる」くらいの守備範囲が必要だということを述べましたが、この「守備範囲」とは、単に収入をコンスタントに得るための「営業規模」という意味ではありません。
相互に深く関係し合う文化・芸術を全体として受け止める下地というような意味での守備範囲を、しっかり涵養(かんよう)し、保っていただきたいと思います。
もう一つ肝要なのが、「機動的な調査力」 です。
例えば、江戸時代の浮世絵について翻訳することになったとしましょう。
依頼がくる前から浮世絵の豊富な知識を持っていればラッキーですが、自分の好みの分野の案件がドンピシャで舞い込む、ということはあまりありません。本当は印象派やエコール・ド・パリのほうが詳しいのに・・・というようなこともあるでしょう。
しかし、浮世絵の案件がきたからには、短期間で浮世絵のエキスパートになるくらいの気構えが必要です。
案件が来てから入門書を買ってきたのでは遅すぎます。もちろん、参考書をすぐに調達する姿勢は大切ですが、たいていは時間が足りません。そこで、 案件の翻訳のために必要な調査を効率的に行う能力が必要 になります。
やみくもに検索しても、出てくる資料にはレベルの差があるでしょうし、表記のスタイル(大文字や小文字の使い分けや、イタリックの使用法)も異なることでしょう。
そのため、機動的な調査力を発揮するには、以下の2点が必要です。
1. 翻訳に必要な基本情報を手早く入手できること (案件に対する理解を短時間で深める)
2. 実際の訳出の模範となるよう訳例や例文を、信頼できるリソースで確認できること
この2点の能力を高めるためには、日頃から、信頼できる筋の参考書、ウェブサイト、美術館・博物館のデータベースになじんでおくことです。
アート関連のサイトでも、訳は間違っていなくても表記スタイルが甘いものがあるので、模範とするには要注意です。
また、検索する場合でも単に「浮世絵」とか「広重」とか入力するのではなく、「制作年」「技法」「出自」「近江八景」「浪花名所図絵」などのキーワードを工夫すると、ヒットする資料の質がぐっと上がります。
それでも、アート翻訳者は楽しい!
アート翻訳者になるためにはさまざまな能力を磨く必要があり、決して楽なことではありません。しかしながら、それでも活躍中のアート翻訳者が口をそろえて言うのは、 「文化、歴史、芸術を陰ながら支えることができるし、何より翻訳していて楽しい」 ということです。
まさにこれがアート翻訳のやりがいなのかもしれません。
今回は、アート翻訳現場で働く翻訳者たちの現状やその守備範囲、それに付随して「機動的調査力」について述べました。
次回は、アート翻訳の実例について取り上げます。