「美術が好き!」「英語が好き!」という方にとって、展覧会関連の翻訳などを手掛けるアート翻訳者はとても魅力的な仕事の一つではないでしょうか。連載「『アート翻訳者』になる!」(全6回)では、アート翻訳をはじめさまざまな専門翻訳を行うトライベクトル株式会社のご担当者に、アート翻訳者になるための方法、アート翻訳の重要性や現状、将来などを教えていただきます。第4回では、具体的なアート翻訳のこつを実例とともに紹介します。
アート翻訳で気を付けるべきポイント2つ
皆さん、こんにちは。第3回では、ほかの分野との兼業事情など、アート翻訳者の働き方を紹介しました。
第4回では、アート翻訳の現場で、 どんなところに注意して翻訳しなければならないのか 、より具体的に 、問題になることもある実例を含めてご紹介しましょう。
今回は2つのポイントをご紹介します。
ポイント1 正式呼称を正しく用いる
1つ目は、 あくまで正式英語呼称を用いる ということです。
この点は、強調してもし過ぎることはないほど現場で大切なことである一方、かなりの英語力を持つ翻訳者でも自覚が足りない点でもあります。
たとえば、翻訳対象の文章の中に、「カナダのオンタリオ美術館所蔵の~」というくだりがあったとします。多くの美術館名の例に倣えば、誰でも“The Ontario Museum of Art”とか“Ontario Art Museum”くらいの英語は思い付きます。
これで意味は通じるし、文法としても間違っていない、と思われがちです。ところが、これを訳案として出したら 完全にアウトです 。もしかすると、大きなクレームがくるかもしれません。
なぜなら、同館の正式呼称は“ The Art Gallery of Ontario ”であり、正式な略称は“AGO”だからです。
日本の施設で間違いやすい名称の代表例は、六本木の国立新美術館です。字義通りに訳出すれば、“The New National Museum of Art”となります。一見、なんの問題もありません。しかしこれもだめです。
同館の正式英語名称は“ The National Art Center, Tokyo ”です。もし、“The National New Museum of Art”などと表記して、「意味は同じです」とか「英語としては合っています」とか主張してもまったく通用しないのは、プロの翻訳者を目指す方ならおわかりいただけるかと思います。
これらは言ってみれば当然の話で、固有名詞は、よほどの例外を除いて表記も読み方も固有、つまり正解は一つしかありません。 「訳す」というよりは、「正式呼称を調査する」ことが翻訳者の務め になります。
ところが、トライアルを勝ち抜いた翻訳者でも、全般にこの認識が甘いのが現状です。何度口を酸っぱくして仕様に書いても、守られないことが少なくありません。
要因の一つはその手間です。翻訳対象原稿の中に、自分としてなじみのない美術館・博物館の名称が一つか二つであれば、調査といっても、それほど長い時間は掛かりません。
ところが、たとえば1人の作家の生涯を辿るようなドキュメントであったり、一つの大きな展覧会の全体的解説のようなドキュメントであったりすると、文中には、多数の内外の美術館・博物館の名称が出てきます。
大英博物館やメトロポリタン美術館のような有名な館であれば、公式サイトで裏を取るまでもなく、正式呼称の調べがつきます。しかし、もう少し小規模な施設や、日本人にはそれほど知られていない欧州の施設が多数挙げられている場合だと、話が違います。
一館一館公式サイトをあたり(日本語ページもないかもしれません)、正式英語呼称を特定するのはかなりの手間になります。それで、ついつい、納期も気にしながら、調査を怠り、適当な訳をあててしまうのです。
厳しい言い方ですが、こうしたいい加減な訳案は、チェッカーに大きな負担を強いることになります。
当然、商品としての価値は下がりますので、このあたりの認識が甘い翻訳者は、徐々に依頼される案件数も、結果として収入も少なくなるでしょう。また、誤った名称で納品してしまうと、どの館の方も自分の施設の名称には少なからぬ誇りを持っていますので、たいがいは心証を損ねます。ほかの部分がどれほど優れた翻訳でも、品質全体が疑われ、「全文見直し」を要求されたり、最悪の場合には取引停止になったりすることもあります。
「たかが美術館の名称一つ」と侮るなかれ 、です。このような部分に翻訳者の実力や認識が表れるのです。
ポイント2 画像を確認する
2つ目は、 可能な限り、実物やその画像をチェックして翻訳する必要がある ということです。
アート作品のタイトルや解説文を翻訳する際、個数、上下、大小、高低など、字面だけではわからない作品の形状や、描かれている事象の様子が問題になることがあります。
日本語では、名詞に冠詞が付かず、単数か複数かもいちいち明示しません。ですが英語では、名詞をそのまま放っておくことはなく、冠詞をつけるか、複数形にするかしなければなりません。そのため、 作品に出てくる対象物の個数がわからないと、正確には翻訳できない のです。
この「単・複」の使い分けは、アート分野に限らず、英訳でいつも際どいポイントになります。有名な話ですが、黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」は、ドロシー・ブリトンさんの名訳で英語版が広く頒布されていますが、後に黒柳さんが思い出として語ったところによると、翻訳中のブリトンさんからよく電話がかかってきて、「(文中に出てくる)蛙は何匹か」「(登場する)子供の数は何人か」と尋ねられたそうです。
これは別に黒柳さんがいい加減な日本語を書いた訳ではありません。日本語では、シーンごとに個数や人数を明示しなくとも、文章やイメージが成立するのに対し、英語は、逐一「単・複」を明らかにしなければならない性質であることを物語るエピソードです。
一例を挙げてみましょう。国立民俗博物館所蔵の「職人尽絵 機織師(しょくにんづくしえ はたおりし)」という作品名を英訳するとします。「職人尽絵」というのは、安土桃山時代以降、職人階級の勃興とともに流行した多種多様な職人風俗を画題にした絵のことです。
ではこれを実際に翻訳してみましょう。
まず、すでに公式作品名が英語で公表されていないかを確認します。既定の作品名がない場合でも、権威ある美術館・博物館で類似している作品の英語名があるなら、それを参考にすることができます。
前半の「職人尽」というのは、背景知識により、多様な職人の絵であることがわかるので、この「職人」というのは複数であることは明白です。しかし、「機織師」は1人の職人を描いたものなのか、複数人描かれているのかは、実物もしくは画像を確認するか、それが無理な場合、何人描かれているかの情報をもらう必要があります。
翻訳現場では、残念ながら実物を見学してから翻訳に臨む時間はまずないので、クライアントから、その案件に関係する画像一式を提供してもらわなければなりません。
画像を確認すると(この作品の場合はWebで確認可能です)、複数の機織師がせっせと働いている場面であることが確認できるため、「機織師」(複数)を“ Printers of cloth”とします。
また「職人尽絵」は意訳し“Illustrations of People of Various Occupations”とします。
さらに「職人尽絵」の中の「機織師」ですので、最終的に、作品名は“Printers of cloth, from Illustrations of People of Various Occupations”となります。
たった7文字のこの1作品名を英語にするのに、それなりの時間が掛かるのは想像に難くありません。
翻訳者の背景知識や調査能力にもよりますが、アート翻訳は、画像確認や既存英語名の有無の確認などを含めると、字面をただ英語にする以上の 作業です。
画像を確認すると、作品や展覧会に対するイメージもよりはっきりします。 その確認作業こそが、見えないところで誤解やミスを防ぎ、より正確な翻訳を生み出します 。そのため、実物・画像チェックは、どうしても欠かせない工程なのです。
今回のお話からも、アート翻訳の現場は、さらさらと英語を書いていくというよりも、調査しては書き、調査しては書き、という作業に近いものであることがおわかりいただけるのではないかと思います。
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