英語愛に圧倒される!ウェブスター辞書の舞台裏【ブックレビュー】

語学者にとって、なくてはならないのが辞書。「英語力を磨きたいなら英英辞典を使うべし」という話もよく聞きますよね。本書は、アメリカを代表する辞書出版社、メリアム・ウェブスターの編纂(へんさん)者によるエッセイ。辞書づくりの舞台裏や、英語をめぐる博識ぶり。そして何より、あふれ出す「英語愛」は、英語学習者にとっても大いに刺激になります!

本書の著者はどんな人?

著者のコーリー・スタンパーは、アメリカの老舗辞書出版社、メリアム・ウェブスター社で、およそ20年に渡り辞書編纂に携わってきた人物。同社が運営するYouTubeチャンネル「 Ask the Editor Videos」にも出演し、わかりやすい解説で人気を博しました。

幼いころから、彼女はいわゆる「本の虫」。 絵本からカタログ、大人向けの月刊誌、看護師だった母の医学事典まで読み込んでいたそう。

とはいえ、実用性を重んじるブルーカラーの家庭に育った彼女は、言葉と関わる職業に就くことは考えもしませんでした。家族の中で初めて大学教育を受ける身。「医者になったら将来安泰。本を読む時間もたくさん取れるはず」と考え、大学の医学部進学課程に進みます。しかし、有機化学のクラスで落第し、医師への道を絶たれてしまいます。

ところが、やむを得ず受講した人文学のクラスが、彼女にとって大きな転機となりました。「古ノルド語」を指導する教授の勧めで、 「古英語」研究の道に進むことに

その後数年間は、英語をむさぼり食うような日々を送り、いくつかの職を経て、メリアム・ウェブスター社の採用面接に臨みます。 「わたしはただ、英語が大好きなんです」「心底愛してます」とまくしたて、見事、編集補助の職を手に入れました。

本書は、WORD BY WORD (一語一語)という原題通り、 著者が一語一語、英語と格闘した歴史の集大成 です。読み進めるうちに、彼女の「英語愛」にすっかり染まってしまいます。

take にささげた1カ月"> take にささげた1カ月

英語学習者にとっては、簡単な単語ほど難しいもの。意味がいくつもあったりして、なかなか悩ましいものです。

これが、アメリカ生まれの英語のネイティブスピーカーである、英語辞書編纂者にとっても同じだと聞いたら驚きますよね。 著者が苦戦したのは、日本人にとっても「基本のき」と言える動詞、 take でした。

辞書の編集にあたり、まずは、引用例が書かれた紙を語義ごとにどんどん仕分けていきます。

She was taken aback.

彼女は不意を打たれた

この引用例は、「特殊な状況もしくは行為に合う、もしくは出くわす」という語義の引用例の山に仕分けます。このあたりだと、辞書編纂者としてはさくさく 作業 が進むようです。

しかし、さっさと 作業 を終わらせようと、張り切る彼女の前に現れた引用例がこちら。

Reason has taken a back seat to sentiment .

理性は感情の二の次となった

これも簡単だと思った瞬間、「ちょっと待てよ」と引っかかります。 take a back seat の take の意味は、文脈によって大きく変わるのです。例えば、次の引用例にも take a back seat が出てきますが・・・。
There's no room up front, so you have to take a back seat.

前方には空席がないので、後部座席に座らねばならない

これは、Reason has taken a back seat to sentiment . の take とはちょっと違うな、というのは私たち英語学習者にもわかりますね。

後者は成句なので後回しに。前者のためには新しい語義の山がつくられます。こうして、 作業 を進めれば進めるほど、新しい語義の山が増えていくのです。

こうして引用例を分類し続けること2週間。げっそりした彼女は、夕飯の食卓で夫にこうこぼします。「もう英語を話せなくなった気がするの」

どんなに好きな仕事や 作業 でも、やり続けるうちに「私は何をしているんだっけ?」「これはなんのためだっけ?」という境地に達することがありますよね。「英語を心底愛している」と語っていた彼女も、ついにこの状態に。辞書編纂という仕事のすさまじさがうかがえます。

最終的に、彼女は take にまるまる1カ月を費やすことになりましたが、これはほんの序の口でした。ある会合で出会った編纂者は、 run に9カ月かかったそうrun には600を超える意味があるのです。

げに恐ろしいものは辞書づくりの世界。使うだけの私たちは気楽なものです。

marriage をめぐる中傷

「言葉は生き物」とよくいいますが、これは英語でも日本語でも同じこと。最近では特に、性別や家族制度に関する語やその使われ方が、目まぐるしく変化しています。

もちろん辞書に掲載される語釈も、時代の変化に合わせてアップデートされますが、場合によっては強い反発を招くことも。

ウェブスター社がmarriageの語釈を変え、「同性の相手と、従来の結婚のような関係で結ばれた状態」という新しい意味を加えたのは2003年のことでした。

それから数年後、ある動画で紹介されたのが きっかけ となり、突然ネットでこの語釈に対する抗議が拡散し始めます。著者の実名まで掲載され、1日500通もの抗議、というより誹謗中傷や脅迫に近いメールが寄せられることに。

ネットでの誹謗中傷は、今まさに日本でも問題になっていますね。危害を加えることすら匂わせられ、著者はどれほどの恐怖を感じたことか・・・。しかし、著者は打ちのめされつつも、冷静に事態を観察しています。

(彼らは)わたしたちが辞書に変更を加えれば、言語を変えたことになり、言語を変えると、その言語とりまく文化を変えることになると思い込んでいるのだ。こうした思い込みは、辞書からさまざまな差別語を排除してほしいという依頼に最も痛切に感じる。
抗議する人々は、むしろ辞書に権威を感じている のです。

それにしても、「自分が認めない言葉や概念は、辞書に載っていてはいけない」という強い思い込み。この不寛容はどこから来るのでしょうか。新型コロナ感染が広がるにつれて現れた、自粛警察やマスク警察を思い浮かべてしまいます。

結局、この騒動は2週間ほどで収まりましたが、その後もぽつぽつとmarriageの語釈への抗議メールは続きます。しかし2012年ごろからは、抗議の内容が変化してきたそう。「異性婚と同性婚を分けた語釈はジェンダーフリーでない」というのです。

10年もたたないうちに、これだけ変化するなんて。私たちの言葉の受け止め方は、どんどん変化していきます。 言葉の恐ろしさと面白さを痛感させられるエピソードです

まとめ

辞書は、言葉を学ぶ人、使う人にとって必要不可欠でありながら、語学の裏方とでもいうべき地味な存在です。さらに近年では、ネットで用が足りるケースも増えてきました。しかし、それらのネット辞書やデータベースの多くも、もともとは辞書編纂者の努力のたまものです。

本書を読んで辞書づくりの舞台裏に触れると、 辞書と、それをつくる人に対する敬意と愛着が湧いてきます 。彼らも、一語一語、楽しみかつ葛藤しながら、辞書をつくっている。そう思うと、英語学習に対するモチベーションも上がります!

日本語訳でももちろん楽しめますが、英語版で読むと「英語愛」と英語への理解がさらに増しそう。腕に覚えのある方は、ぜひ挑戦してみてください!

そして、辞書づくりに興味を持った方には(こちらは日本語かつフィクションですが)、小説『舟を編む』もおすすめです。

残念ながら、海外どころか国内旅行もままならない日々が続いています。ここはひとつ気持ちを切り替え、本を手に取って、言葉をめぐる冒険の旅にでかけませんか?

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文:尾野七青子
都内某所で働く初老のOL兼ライター。直接的に英語学習に役立つ本ではないのですが、大変刺激になりました。英語学や英文学を学ぶ人にもおすすめ。

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