「ハリー・ポッター」に「ゲド戦記」。翻訳児童文学からわかる世界の変化とは?

1971年に創刊された『ENGLISH JOURNAL』(EJ)。創刊当時から現在まで、世の中ではどのような翻訳作品が読まれてきたのでしょうか?今回は、子どもの本の研究・翻訳を行う福本友美子さんが、翻訳児童文学の50年を振り返ります。作品の傾向から見える社会の変化、そしてこれからの翻訳児童文学を表すキーワードとは?

社会を映す翻訳児童文学

EJO読者の皆さま、初めまして。児童書の翻訳をしている福本友美子と申します。公共図書館に勤務した経験を基に、絵本を中心に翻訳してきました。これまでに訳した書籍は230冊ほどです。

その傍ら、日本で出版された児童書を長年にわたり読み続けてきました。

また 『図説 子どもの本・翻訳の歩み事典』 の編集・執筆に関わり、翻訳児童文学の歴史も研究しています。

今回は、 児童文学の翻訳の50年を振り返ってみたいと思います

英米の作品のうち、絵本、ノンフィクションを除く児童文学作品の翻訳を、EJが創刊された1971年を区切りとして見てみましょう。

日本で初めて翻訳された児童文学って?

日本で子どものために翻訳された最初の本は、『魯敏遜標行紀略(ろびんそんひょうこうきりゃく)』(ロビンソン・クルーソー)で、 なんと幕末の1857年にさかのぼります

これを皮切りに、明治時代には海外の名作が少しずつ翻訳され、大正時代になると豪華な世界名作全集が次々に出て、翻訳児童文学が教養の証しとして家庭の本棚に備えられるようになりました。

「宝島」「ガリバー旅行記」「不思議の国のアリス」「小公子」「若草物語」などのいわゆる名作は、昭和に入ってからも繰り返し翻訳され、今も読み継がれています。

なぜかというと、これらの古典的な作品は、原書の出版年がいくら古くても、翻訳者が現代の文体で翻訳すれば、現代の読者も十分楽しめるからです。

自国以外の児童文学の中に、皆が共通して知っているタイトルがこれほどたくさんあるのは世界でも珍しく 、日本の翻訳児童文学の特徴の一つと言えるでしょう。

第2次世界大戦後の 1950年に「岩波少年文庫」の刊行が始まった のは、特筆すべきことです。それまでの翻訳には翻案(原作の特徴を生かして作り変えること)や抄訳(しょうやく、原作を部分的に抜き出して翻訳すること)が多かったのですが、「岩波少年文庫」は完訳をうたったのです。また古典だけではなく、同時代作品の翻訳を積極的に行ったことも大きな進歩でした。

50年前、どんな翻訳作品が発売された?

EJが創刊された1971年前後に翻訳された注目すべき作品といえば、まず挙がるのが1972年の 『旅の仲間』 でしょう。これはホビットという種族が冒険を繰り広げる架空の世界を舞台にした長編「指輪物語」の第1巻です。

60年代に翻訳された『ライオンと魔女』に始まる「ナルニア国ものがたり」と同様、イギリスの異世界ファンタジーの代表的大作で、大人の読者も獲得しました。

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ちょっと異色なファンタジー『チョコレート工場の秘密』が翻訳されたのもこの頃です。アメリカでは、「ゲド戦記」の第1巻『影との戦い』が翻訳されています。いずれも映画化され、今も人気を保っているのは皆さんもよくご存じでしょう。

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21世紀になると「ハリー・ポッター」シリーズが世界を席巻しますが、これも伝統的な異世界ファンタジーの流れをくむ作品と言えるでしょう。 『ハリー・ポッターと賢者の石』が翻訳されるや、日本の出版界にも一大ファンタジーブームが巻き起こりました。

ファンタジーの本場であるイギリスに比べると、 アメリカでは子どもの実生活を描いたリアリズム作品に注目作が多く出ています

『光と影の序曲』や『カレンの日記』では、両親の離婚、いじめや差別といった、当時日本ではまだ扱われることの少なかったテーマを取り上げ、子どもを取り巻く環境の変化を感じさせました。

現代の翻訳作品はどのように変化した?

では50年前に比べ、 現代の翻訳児童文学の傾向はどのように変わってきたのでしょうか 。ここ数年の状況を見ながら、いくつかのトピックに分けて考えてみましょう。

アフリカ系アメリカ人の存在

60年代のアメリカでは、アフリカ系アメリカ人が登場する児童文学はごくわずかで、 「子どもの本の世界はみな白人」という論評 1 が話題になりました* 。

しかしその後、 アフリカ系アメリカ人の作家たちが自分のルーツを大切にする作品を発表する ようになり、次第に流れが変わってきます。

それをけん引したのはヴァジニア・ハミルトンで、1975年にアメリカで最も権威ある児童図書賞のニューベリー賞をアフリカ系アメリカ人として初めて受賞し、注目を集めました。受賞作『偉大なるM.C.』のほか、多くの作品が日本でも翻訳されています。

2018年の統計 2 によると、白人だけが登場する作品は半数になっています* 。

最近、アフリカ系作家として次々に力作を出しているのがジャクリーン・ウッドソンで、『レーナ』では裕福なアフリカ系の少女と貧しい白人の少女の交流を、『あなたはそっとやってくる』ではアフリカ系の少年とユダヤ系白人の少女の初恋を描いています。

ウッドソンに代表される現代のアフリカ系作家の作品には、 肌の色や外見にとらわれることなく、個々の内面を見ることが大切だという視点が表れている のが特徴でしょう。

文化の違い

人種のるつぼといわれるアメリカには、ほかにもさまざまなルーツを持つ子どもたちがいます。

『明日のランチはきみと』の主人公は、アメリカへ引っ越してきたインド人の転校生。『ジュリアが糸をつむいだ日』の主人公は、韓国系の移民家庭に育っています。

文化の違いや人種に対する偏見に悩みながら成長していく姿を描いた作品が目立ちます

さまざまな家庭環境

愛情深い両親の下、兄弟姉妹が仲良く暮らす「若草物語」的な作品は、今はもう現実味がありません。 現実社会では、過酷な家庭環境下で苦しむ子どもたちが大勢おり、児童文学にもリアルに反映されるようになりました

『ほんとうの願いがかなうとき』では、父親は拘置所、母親は育児放棄で、叔母夫婦に育てられる少女が、『ゴースト』では、酔った父親に発砲され、母親と共に命からがら逃げた過去を持つ少年が主人公です。

壮絶な体験をしながらも、新しい出会いを通して徐々に心を開いていく様子が描かれています。

性的マイノリティ

この数十年で、人権を尊重する考え方から、LGBTQへの理解は大きく進みました。性別の境目は明確ではないことを受け入れる人が増え、 児童文学にもトランスジェンダーの主人公が登場する作品が目立つようになっています

『ジョージと秘密のメリッサ』や『ぼくがスカートをはく日』の主人公は、見た目は男子ですが心は女子。『変化球男子』の主人公は、逆に体は女子だが自分は男子だと感じています。

自分の存在に違和感を持つ子どもが、本当に自分らしく生きるために模索する姿を描いた作品が非常に増えてきました。また、家族や周囲の大人にゲイやレズビアンのカップルが登場する作品も珍しくなくなりました。

身体的・精神的困難

『サイド・トラック』の主人公は、ADD(注意欠陥障害)のために集中することが苦手で、いじめの対象になっています。『レイン』は、高機能自閉症で学校にうまく適応できない少女が主人公。『ペーパーボーイ』は、吃音(きつおん)があって、世間付き合いが苦手な少年の物語です。

いずれも、困難を抱えながらも次第に自分の居場所を見つけていく姿が描かれています。

難民問題

『明日をさがす旅』は、異なる三つの時代に、家族が国を追われ難民となった、3人の子どもの困難な旅が同時進行で描かれ交錯する物語。

過酷な運命の下で希望を失わずに生きる姿が描かれ、現在も続く難民問題を考えるきっかけになる作品です。

これからの翻訳児童文学

50年間のうちに子どもたちを取り巻く環境は激しく変化し、 児童文学の世界にもそれがはっきりと反映されていることがおわかりいただけたでしょうか

長年翻訳児童文学を読んできて、 今、そしてこれからのキーワードは、「ダイバーシティ」と「ボーダーレス」ではないか と感じています。

民族的な多様性に限らず、子どもの置かれた環境や抱える困難は千差万別ですが、一人一人の個性を尊重することで、理解を深めていけるのです。

また、「ボーダー」は国境だけではなく、人間の持つさまざまな境界を意味する言葉です。 どんな相手に対しても心のバリアを張らずに、自由な考え方で接することの大切さを感じ取れる作品 を、これからの作家たちに期待したいと思います。

取り上げた本(言及順)

・『図説 子どもの本・翻訳の歩み事典』 子どもの本・翻訳の歩み研究会編 柏書房 2002

・『旅の仲間』上・下(指輪物語1・2) J・R・R・トールキン作 瀬田貞二訳 評論社 1972

・『ライオンと魔女』(ナルニア国ものがたり1) C・S・ルイス作 瀬田貞二訳 岩波書店 1966 

・『チョコレート工場の秘密』 ロアルド・ダール作 田村隆一訳 評論社 1972

・『影との戦い』(ゲド戦記1) アーシュラ・K・ル=グウィン作 清水真砂子訳 岩波書店 1976

・『ハリー・ポッターと賢者の石』(ハリー・ポッター1) J・K・ローリング作 松岡佑子 静山社 1999

・『光との序曲』 マデレイン・レングル作 猪熊葉子訳 大日本図書 1975 

・『カレンの日記』 ジュディ・ブルーム作 長田敏子訳 偕成社 1977

・『偉大なるM.C.』 ヴァジニア・ハミルトン作 橋本福夫訳 岩書店 1980

・『レーナ』 ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 理論社 1998

・『あなたはそっとやってくる』 ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房 2008

・『明日のランチはきみと』 サラ・ウィークス/ギーターヴァラダラーシャン作 久保陽子訳 フレーベル館 2018

・『ジュリアがをつむいだ日』 リンダ・スー・パーク作 ないとうふみこ訳 徳間書店 2018

・『ほんとうの願いがかなうとき』 バーバラ・オコーナー作 中野怜奈訳 偕成社 2019

・『ゴースト』 ジェイソン・レノルズ作 ないとうふみこ訳 小峰書店 2019

・『ジョージと秘密のメリッサ』 アレックス・ジーノ作 島村浩子訳 偕成社 2016

・『ぼくがスカートをはく日』 エイミ・ポロンスキー作 西田佳子訳 学研プラス 2018

・『変化球男子』 M・G・ヘネシー作 杉田七重訳 鈴木出版 2018

・『サイド・トラック』 ダイアナ・ハーモン・アシャー作 武富博子訳 評論社 2018

・『レイン―を抱きしめて』 アン・M・マーティン作 西本かおる訳 小峰書店 2016

・『ペーパーボーイ』 ヴィンス・ヴォーター作 原田勝訳 岩波書店 2016 

・『明日をさがす』 アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店 2019

*1 :1965年に読書教育の専門家ナンシー・ラリックがアメリカの書評誌『サタデー・レビュー』に掲載した論評。1962年~64年までに出版された児童文学のうち、黒人が登場する作品はわずか6.7%にすぎないという内容で注目された。

*2 :アメリカのウィスコンシン州にある児童文学研究所 Cooperative Children’s Book Centerが2018年に発表した統計。児童文学の登場人物は、白人50%、動物その他27%、アフリカ系アメリカ人10%、アジア系7%、ラテンアメリカ系5%、ネイティブアメリカン1% となっている。

福本友美子(ふくもと ゆみこ)

慶應義塾大学卒業後、調布市立図書館司書、立教大学兼任講師、国際子ども図書館非常勤調査員などを経て、現在はフリーで子どもの本の研究、翻訳をする。また各地で子どもの読書に関する講演をし、読書活動の普及につとめる。著訳書、執筆記事等は Wikipedia に詳しい。

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