SNSの元気がないときの使い方!Clubhouseでの超アナログ通訳・翻訳家の試みとは?

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。今回は、ラジオ好きの平野さんがClubhouseで試みている配信についてのお話です。

「三寒四温」とフランス語の関係

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。

3月に入り文字どおりの三寒四温を繰り返しながら着実に春を迎えつつある今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか。

ちなみに「三寒四温」といえばなんとなくフランス語っぽく聞こえる日本語として有名です。その筋ではかの「麻布十番」「長襦袢」(ながじゅばん)に続く次代のエースとして期待されているほどです。その筋ってどこの筋だ。まあここはひとつだまされたと思って、試しに鼻母音を思い切り利かせて発音してみてください。特に「寒」と「温」をしっかり鼻から抜いて響かせるのがコツです。いいですか、いきますよ、さん、はい!

あっ。

いま本当にやってみてくれた人がいますね。さてはおまえいい奴(やつ)だな。お礼になにか差し上げませんが私の心はとっても和みました。どうもありがとうございます。

最先端に乗ってみる

さて、和んだといえば先月のこの連載で弱った心にやさしく寄り添ってくれる「ラジオ」の存在について書いてみたところあんまり読んでもらえなくてうっかり心にトドメを刺されかけた私ですが、実は最近、ラジオに加えてもうひとつ、自粛生活を支えてくれているものがあります。Clubhouse(クラブハウス)という音声SNSです。ご存じない方のために無理やり簡潔に説明すると、携帯ひとつで誰でも手軽に*1知らない人とおしゃべりしたり、音声配信、いわばラジオ放送のようなことができたりしてしまうアプリケーションです。ラジオとの最大の違いは、聴いている人のアイコンが画面上に表示されるので誰が聴いているのか、合計何人聴いているのかを把握できる点。また、双方向の参加を促す機能、つまりスピーカーの側からリスナーを誘ったり、リスナーが自ら立候補したりして一緒におしゃべりできる点でしょうか。

このClubhouse、1月末に日本に上陸するや疫禍の自粛疲れと慢性的なコミュニケーション不足に福音をもたらす形で一部に熱狂を巻き起こすもあっという間に沈静化、すでにネット上には「若者のClubhouse離れ」なる記事まで出ている始末。しかしアレですね、年がら年中いろんなものから離れさせられて若者も大変ですね。Clubhouseに至ってはもはや「そもそもくっついてすらいなかったものから離れさせられる」という最終局面に突入している観もあります。

離れたのが本当に若者だったのかどうかはさておき、音声SNSという性質上、いかに無料の遊びとはいえおもしろい話や価値の高い情報を提供できる人でなければ間がもたず、あまり多くの人に聴きに来てもらえないのは事実。けれど不特定多数相手にそんな芸当を展開できる人は限られているわけで、老若男女を問わず意外にハードルの高い遊びなのかもしれません。

例外として、有名人であればしゃべるという行為自体に価値が発生するので内容が伴わなくても成立するのですがその一方、雑談で喜ばれるほどの有名人がClubhouseのごとき無料の場であまり活動し過ぎると対価の発生する仕事との線引きが難しくなるというジレンマに陥ってしまいがち。こうして最初期には一日中Clubhouseに「住んで」いたような芸能人や言論人たちも、程なくして潮が引くように姿を消して行ったのでした。

世界は他人で出来ている

そんな、最先端だけど旬は過ぎて早くもガラパゴス化しつつあるっぽいアプリ(ひどい言い草だな)が、私のような超アナログ人間の生活にひそかな革新をもたらすのですから世の中わからないものです。

最初のうちは専ら他人の気配を補給するための道具として活用していました。たまの外出もほとんどが自宅と目的地とを点と点で結ぶだけとなり、「縁もゆかりもない他人と空間を共有する」「知らん人の様子をなんとなく観察する」「知らん人同士の特に興味もない会話がぼんやり耳に入ってくる」といった場面が日常から削(そ)ぎ落とされて物理的にも精神的にも限界に近い閉塞感を覚えて暮らしていた私のような人間にとって、Clubhouseという無目的で雑談に特化したアプリ(ついに言い切ったぞ)は、漫然とした他人の気配をリアルタイムで供給するという、本物のラジオ番組には原理的に不可能な役割を果たしてくれたのです。

で、わあ、いろんな人がいるな、みんな知らん人だけどみんな生きてるな、と思って、なんだか安心して。まあこの世のほとんどは知らん人で出来ているわけだから、知らん人たちが知らんところでなんとか元気にやっているのが伝わってくるとほっとするじゃないですか。大袈裟(おおげさ)な言い方をすると、世界の実存に触れた気がしたんですよ。よしよし、どうやらちゃんとあるみたいだな世界、って。

ぼんやりそんなことを感じながら過ごしているうちに、だんだんと引きこもりの自分もコミュニケーションのリハビリがてらなにか発信してみたくなってきました。手始めに雑談形式のトークをいくつかやってみたところ、行き当たりばったりのわりにはまずまずの手応え。まったくの一見さんも存外多く、先日、短歌の師匠・東直子とコラボで配信した回などは大好きな村田沙耶香さんと初めてじっくりお話しできる幸運に恵まれたり。これまでにもTwitter上で思いがけない方とやりとりするようなことはありましたが、声だけを頼りにまだ見ぬ人との距離を推し量りながら疎通していると、相手の人柄や体温までうっすら伝わってくるようで、一切の演出や加工を排した音が孕(はら)む「情報」の豊かさを改めて実感したのでした。

元気じゃない人のためのSNS

ただ難しいのが、ラジオ好きの性なのか、聴いてくださる方がいらっしゃるとどうしても楽しませたい気持ちが強くなり、ともすればサービスし過ぎてしまうこと。元気とやる気に溢(あふ)れているときならもちろんそれでいいのですが、生憎(あいにく)と人間はいつも元気とは限らないわけで、そういうときに頑張ってサービスしようとすれば負荷が勝ち過ぎてしまいます。リハビリを兼ねた遊びの発信で疲れてしまっては本末転倒というほかありません。

でも、元気じゃない人だって社会のどこかで生きています。仮にもSNS(社会的ネットワーク)と呼ばれているのですから、あんまり元気じゃない人は元気じゃないなりに使ってみてもいいはず。他人を意識して無理に張り切ったりせず、ひたすら自分本位に、社会とのつながりを最低限に抑えた形で楽しめる発信って、例えばどんなものがあるだろう。

そう考えて思い至ったのが、詩の朗読でした。

日本語でも外国語でもいい。自分の読みたい詩を読みたいように読む。読みたいだけ読んで終わり。解説もしないし、感想も求めない。それでも聴こうという人だけ聴いてくれればいい。さしあたり日時は決めず平日のお昼休みにゲリラ的に敢行して、誰かの目に留まったらおなぐさみ。いわばオンライン大道芸です。うん、これなら自分のペースで楽しくリハビリできそう。善は急げだ今日やろう。

というわけで急遽(きゅうきょ)2時間後に「初日」を迎えることになった私。急いで詩の選定に入りますが、すぐさまあることに気がつきます。いざ声に出して読みたいものを探してみると、ボードレールだのアポリネールだのアルトーだの、なんだか暗い作風の詩人ばかりが目に入るのです(フランスの有名詩人なんてどーせみんな暗いだろとか言うの禁止)。でもなあ。せっかくの朗読遊びにわざわざ重苦しい詩を読んでしまってはますます気が塞(ふさ)いで逆効果なんじゃなかろうか。どうせなら明るく力強い作品を口に出して身体化し、エネルギーをもらった方がリハビリ効果も期待できるのでは?

そう思ってなるべく前向きな詩、生命力溢れる詩をみつくろい下読みしてみるものの、いまひとつしっくりきません。現在の自分の状態からあまりに乖離(かいり)した言葉を心身が拒んでいるのがわかります。身体という楽器を心で鳴らして言葉を奏でるのが朗読ですから、物憂いときには素直に物憂げな詩に耽溺(たんでき)するしかないみたい。ぎりぎりまで迷ったあげく、その日はちょうど雨が降っていたこともあってポール・ヴェルレーヌ作「巷に雨の降るごとく」をフランス語とイタリア語と日本語で読むことに決め、スマートフォンをみつめて「開演」を待ったのでした。

美の在り処

結論から言えば、昏(くら)い心身で昏い詩歌を朗読することについての懸念はまったくの杞憂(きゆう)に終わりました。

それどころか、心に澱(よど)む故知れぬ寂寞(せきばく)を町に降りそそぐ雨になぞらえるヴェルレーヌの頗(すこぶ)る高度に彫琢(ちょうたく)された詩語はいみじくも、発語するたび雫(しずく)となって読み手の心の土壌へと深く、やさしく浸み込んでゆくようで、その一滴一滴を感じながら私は、この世に気鬱(きうつ)より生み出された詩のあることの途方もない幸運を思ったのです。これほどまでに痛ましい感覚さえもうつくしく顕現しうるのならば、美とはすなわち私たちの心の営みに遍(あまね)く粛々と在り続けているものなのではないか。こうして書いてしまえば至極たわいもないようですが、自分自身の曇った心身から詩の雨を降らせてみることで改めて実感したのでした。

それから数日。

窓からにわかに初夏を思わせる陽光が差し込んできたある日、ヴェルレーヌの詩水で涵養(かんよう)された心が芽吹くようにして、明るい韻律を口にしたい欲求が湧き上がってきました。「春」をキーワードに検索すれば、長く陰鬱な冬からの解放を寿(ことほ)ぐ修辞の結晶が画面をいっぱいに彩ります。

「みんなおいで!走っておいで!森が歌い紺碧(こんぺき)は煌(きら)めいている!愛と公正さと甘やかさに満ちた心で手当たり次第に感謝を捧げたい!」*2

という欣喜雀躍(きんきじゃくやく)たるユゴーの言葉を追いながら携帯電話の前でひとり踊り出しそうになったり、

「翼で顔をかすめては 飛べ ゆきずりの小鳥たち!」*3

と燕の飛来に遠からぬ春への想いと渡鳥への憧憬を謳(うた)うラコサッドの万感をともに噛(か)み締めながら「そっちも春来そう?こっちもだよ!うれしいねえやっとだねえ」と心の中で手を取り合ったり。

気がつけば、同時代の人たちとゆるくつながることを目的としているはずのSNSを使って、ゆうに100年以上も前の、ざっと1万キロ以上も離れた国の詩人たちに心を寄せながら日々過ごしています。消去法でフランス文学科に入ってしまっただけの人間には些(いささ)か出来過ぎた話のようですが、人が心のうつろいを言葉に託し詩歌に盛ろうと挑む限り、ヴェルレーヌの懊悩(おうのう)も、ユゴーの欣幸(きんこう)も、等しく時空を超えて尚(なお)うつくしさを増してゆくに違いありません。

恥ずかしさを抱きしめて

ただ、そう言いつつも私には昔から、修辞の魅力を無条件で称揚しそうになるたび決まって思い出す詩があります。尹東柱(ユンドンジュ)の「たやすく書かれた詩」という作品です。たいへん有名なのでご存じの方も多いのではないかと思います。その詩の中に、こんな一節があります。

人生は生きがたいものだというのに

詩がこれほどもたやすく書けるのは

恥ずかしいことだ。

「たやすく書かれた詩」尹東柱(『尹東柱詩集 空と風と星と詩』金時鐘編訳、岩波文庫)

この詩を、とりわけこの3行を前にすると、いつでも胸がぎゅっとなります。口に出すと、じいん、となって、涙が溢れます。そうして止まらなくなります。

この作品は全体を通して非常に清潔で、地に足のついた、平易な語彙のみを用いて書かれています。韓国語中級の私でも辞書を片手に難なく読めるほどで、その意味では先述したフランスの詩人たちとは対照的と言ってもいいかもしれません。それでも、いえ、だからこそ、素顔の言葉しか持ち得ない射程で今も多くの人の心に届いているのだと思います。

尹東柱は詩作を試みながらも、書けてしまうことが「恥ずかしい」と言います。

世界は不穏で複雑で、自分はすべきことを見失い、人生は生きがたいのに、詩は書けてしまう。けれど、恥ずかしいから書かないのではありません。恥ずかしいと感じながらも書くのです。詩が世界を変えるわけでも、誰かを救うわけでもないと知りながら、芸術の価値を確信してそれに奉仕するのでも、快楽に陶然と身を委ねるのでもなく、詩人の悲しい天命として、ただ、書くのです。そういうふうにしか生きられないから。

詩人であるか否かに依(よ)らず、私たちが生きているこの世界には、こういうふうにしか生きられないからこう生きている、こうなりたくてなったわけじゃないけどこうなんだ、という人がたくさんいる気がします。そういう人の中には傍目(はため)には成功している、恵まれていると映っている人もいるでしょうし、またそうでない人もいるでしょうが、私には、みな往々にして一抹の恥ずかしさを拭いきれずに生きているように思えてなりません。

近ごろは「なりたい自分になろう!」「やりたいことをやって生きよう!」と喧(かまびす)しいけれど、それってほんとでしょうか。本当に、誰もがキラキラ生きなければならないのでしょうか。この世界にとつぜん、ただ産み落とされただけなのに、「なりたい自分」や「叶(かな)えたい夢」が必ずみんなにあるはずだなんて、いったい誰が決めたのでしょうか。「やりたいこと」や「やるべきこと」にまっすぐ向かってゆく人生だけが幸せだなんて、誰に言えるのでしょうか。

すくなくとも私は、今日も恥ずかしさを抱きしめながら、こうしてやむにやまれず得体の知れない言葉を書き連ねています。

書くほどに迷いながら。

決してたやすくはないけれど。

次回は2021年4月7日に公開予定です。

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こちらもおすすめ

*1:ただし現時点(2021年3月3日)ではまだiPhoneおよびiPadにしか対応していません。

*2:“Après hiver” Victor Hugo 拙訳(3分で訳したので薄目で読んでほしい)

*3:“Aux Hirondelles” Auguste Lacaussade, Poèmes et Paysages, 1897 拙訳(1分で訳したので目をつぶって読んでほしい)

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平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur