哲学を学んだ翻訳者のエリザベト怜美さんが、イギリスでの思い出や英語、翻訳の仕事などについて語る連載「イギリス育ち翻訳者の哲学的生活」。第1回のテーマは、大人になった私たちにとってのクリスマスが持つ意味についてです。
スコットランド・エディンバラのクリスマス
「いつまで、サンタがいるって信じてた?」
つい最近、恋人にそう尋ねられ、しばらく言葉に詰まった。それから、中学生まで毎年サンタさんが来ていたこと、けれど、高校生からはサンタさんが来なくなり、きっとふびんに思った両親がサンタさんのふりをしてプレゼントを置いてくれていたことを話した。
すると、ふと、記憶が戻ってきた。子ども時代を過ごした、ヨーロッパの北の島にある中世の街。その冬の、ピリッと乾燥した淡い灰色の空気。ギリシャ風建築の美術館の横に現れる、ジャーマン・マーケットの暖かいソーセージ。そのポツポツとした黄色い明かりを見下ろす、岩上の城塞(じょうさい)。私の中に残る、クリスマスの景色。
三島由紀夫とオスカー・ワイルドを研究している父に連れられて、家族が横浜からスコットランドの首都・エディンバラへ引っ越したのは9歳のときだった。
程なくして初めての冬を迎え、街中がクリスマスの色に染まった。ショッピングモールには2000年代らしいプラチナとオーロラの人工ツリーが飾られ、アイドル歌手の歌う雪だるまの曲が流れ続けた。おもちゃコーナーは、ハロウィーンの時期に負けず劣らずハリー・ポッター一色になり、魔法使いのローブ、杖、ふくろうの縫いぐるみ、レゴで出来た魔法学校、パステルカラーのサワーキャンディーやジェリービーンズのお菓子が所狭しと並んだ。
建物を後にすると、目線の先で雪と霜の降りた城がライトアップされ、大通りにはJ・K・ローリングの通ったカフェの前まで乗せていってくれる二階建てのバスが走る。昔から、スコットランドの高地や湖には、日本でいう妖怪や物の怪のようなさまざまな言い伝えが残っているが、冬のエディンバラでは、街の中心部そのものが魔術的な場所だった。
そもそも、カトリックの家に育った私にとって、キリストの生誕祭は身近なものだった。12月になると「待降節(Advent)」が始まり、子どもにとっては毎朝、カレンダーの形をしたチョコレートの箱からその日の数字を探し出して、朝ごはんより前におやつを食べられる特別な期間になる。
学校の入り口には飼い葉おけと人形が飾られ、先生と一緒に毎週、紫色のキャンドルを一本ずつともしていく。それから、いよいよ冬休みが近づいて、クリスマスの劇をする。そうやって魔法を一つ一つかけながら、その日が近づくのを待ち望んだ。
クリスマスはキリストの誕生日ではない?
けれども、毎年そんな過ごし方をしながらも、12月25日は実際にはイエス・キリストの生まれた日ではない、ということも知っていた。
現地のカトリック系の中学校に上がると(イギリスでは、公立でミッション系の学校は珍しくはない)、週に1回、「宗教(Religious Education)」の授業がある。すると、思春期も相まって、一部のイギリスの子どもたちの間ではキリスト教への反発も同時に高まっていく。少し本を読み、勉強が好きなローティーンたちの間では、クリスマスがキリスト教よりも前の時代のケルトの祭りに由来していることがうわさになる。
すると、今まで当たり前だと思っていたことの、どこまでが真実で、どこからがうそなのか、思い巡らせずにはいられない。神はいるのか?本当に、全知全能の人格神なのか?そうだとして、教会の儀式に意味はあるのか?信じるとは何か?
十代の欺瞞(ぎまん)への敏感さや傷つきやすさは、どんどん、身に迫った疑問を生んでいく。そして、大人たちへの反発から、西洋社会の窮屈な常識を疑うところまで発展していくのだ。
事実、私たちの祝う「クリスマス」は、キリスト教だけの発明ではない。 『 クリスマスの文化史 』(若林ひとみ著)によれば、キリストの生誕が12月25日として広まったのは、4世紀後半のことで、当時ローマ帝国で有力な宗教だったミトラ教の冬至の祭りの時期に合わせたためだという。まだ新しい宗教だったキリスト教を人々になじみやすくするため、それよりも前からあった季節のお祝いに重ねて定着させたのだ。
その後もクリスマスは、さまざまな土着の習俗や信仰を取り込んでいった。例えば、クリスマスツリーとしてモミの木を飾るようになったのは、16世紀のドイツからで、その背景にはゲルマン人の樹木崇拝の思想があるという。
クリスマスがさまざまな事情で「作られたもの」だと気付いたとき、人はサンタさんを信じなくなる。それでは、なぜ、私たちはクリスマスを祝い続けるのだろう。日本のキリスト教徒の割合は1%前後だと言われているから、サンタさんを失った大人たちはクリスマスを忘れてしまう方が自然にすら思える。
けれども、クリスマスを無視することはとても難しい。クリスマスには何か、私たちの心を動かす深い魅力があるのだ。いったい、その何に引き付けられるのか。
クリスマスの再魔術化
柴田元幸氏が日本語に翻訳した、モリス・バーマン著『 デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化 (原題:The Reenchantment of the World)』という本がある。
近代科学が生まれる以前の人たちは、精霊や神々といった姿の、生き生きとした自然の力や魔法の力を信じていた。世界は「魔法にかかっていた(enchanted)」のだ。それに対し、近代科学の物の見方が主流になると、そういった考えは非科学的とされるようになった。そうして、かつての人間にとって当たり前だった、石にも草にも、山にも湖にも、月にも星にも魂があり、それが人間の魂と響き合っているという考えが置き去りにされた。そのとき、人間は何を失ったのだろうか。
現代人が孤独感や虚無感にさいなまれやすいのは、世界の魔法が解けたこと、自然との一体感を失ったことによるのではないだろうか。だからといって、近代科学を捨てて、古代人に戻ることもあまり現実的とは言えない。どうすれば、時代を逆行させるのとは違う仕方で、再び魔法を取り戻すことができるだろうか。
バーマンの問題意識を簡単に説明すると、こんなふうになる。
彼の考えになぞらえて考えると、サンタさんを信じている私たちの幼少期は、魔法が信じられていた古代から中世。それから、サンタさんを疑う思春期は、科学的な発想が支配的になった近代に当たる。バーマンは、なんらかの方法で世界の再魔術化が必要だと主張するけれど、その具体的な方法は提示されていない。世界を再魔術化することは、不可能なのだろうか。
思うに、クリスマスとは、誰しもが再魔術化された世界、バーマンが夢見る「魔法にかかった世界(enchanted world)」を生きることのできる季節なのだ。さまざまな文化の交錯の歴史によって、形づくられた喜びの祭り。
この日には、人類の英知の輝きが詰まっている。例えば、クリスマスツリー。すべてのものが枯れていく冬の季節に、生き生きとした深緑を保ち続ける常緑樹の生命力。さらに、夜を彩るキャンドルやイルミネーション。その背景には、万物を照らし養う、聖なる炎としての太陽への信仰がある。それから、プレゼント。イエス・キリストが命の糧を、サンタクロースの由来になった聖ニコラウスが金銭を、無償で与えた、という贈与を重視するキリスト教の影響。
ほかにも、聖なる火を燃やす薪をかたどったケーキ、コカ・コーラ社の赤色を着たサンタクロース、教会に響く聖歌、つるされた靴下、空を駆けるトナカイ、杖の形のキャンディー、柊(ひいらぎ)のリース、ジンジャーブレッドマン、温かなグリューワイン・・・私たちは、数え切れないほどの魔法を、とてもリアルに感じている。
そのことに気付いたとき、大人になってからのクリスマスは、いまだかつてない輝きを放つようになった。子どもの頃に見た冬のエディンバラの風景が、街の至る所に小さくあるような、穏やかで暖かい心持ち。それと、もう少し大きくなってから知りたいと願うようになった、いくつかの疑問の答えを手にしたような感覚。大人になっていくにつれ、もう失われてしまうと感じていたクリスマスのときめきが、心にそっとともされる。その内には、人類の秘密がひっそりときらめく。
冬の寒さが深まると、たとえ何歳になっても、魔術的な経験がやって来る。この季節、私たちは再び、魔法にかかるのだ。
次回は2021年1月21日に公開予定です。お楽しみに。
※記事中の写真撮影:エリザベト怜美