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国語教育と日本社会の「正解到達主義」の裏には何があるのか?

日本の国語教育と社会の「正解到達主義」の裏には何があるのか?

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。今回は、通訳するときに困る発言内容から考える日本の国語教育や芸術観についてです。

※記事の最後にイベントのお知らせがあります。

引き続き浮かれています♪

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者で前回に引き続き浮かれている平野暁人です。

え?どうしてまだ浮かれているのかって?

ふふふ。なぜならこの原稿が公開されるのは12月9日。そしてわたくしの人生初の単著『元劣等生が褒められ好きの通訳・翻訳家になって考えたこと』の発売は12月8日・・・と、いうことは?

そうです!

みなさん!ご購入どうもありがとうございます!!

なにしろ日頃から他の媒体では類を見ないほど熱心に応援の声を届けてくださるEJO読者のみなさんのこと。発売日が待ちきれない人ばかりのはずですから予約受付開始時にはSHARPの不織布マスクばりに申し込みが殺到したに決まっています。あっサーバーダウンしてたらどうしよう!みんな落ち着いて!EJ新書は抽選制じゃないし電子書籍は売り切れないからっ!焦る気持ちはわかるけど!なにしろ連載10回分+「はじめに」+「おわりに」+「書き下ろし」で合計9万字近い充実の新刊がたったの700円(+税)だもんね!ぴらの氏が日々呻吟(しんぎん)したりくるくる回ったりしながら織り上げた文章*1が1万字あたり90円もしないなんて、これを買わない理由はざっと銀河系を見渡したくらいじゃみつかりっこないよね!!

あ。

わかってます。

みなさんいま、引いていますね?

そしてリアクションに困っていますね?

というわけで新刊の宣伝を装って読者をたっぷり困らせたところで、今回はずばり、舞台芸術通訳者ぴらの氏が「訳すのに困ってしまう表現」についてあれこれ考えてみようと思います!(でも新刊はできれば困らずに買ってほしい。理由はおもしろいから。すごく)

いろんな「困る」を考える

さて、一口に「訳すのに困る」と言っても、通訳として働いていると困る局面はさまざまです。

すぐに思いつく例としてはやはり、不適切な性表現*2(いわゆる下ネタ)や政治的に複雑な問題を孕(はら)んだ発言などでしょうか。前者は主に稽古場のような「閉じた場」でなされるケースが圧倒的に多く、多様な参加者を擁する集団創作の場にそぐわない不快で不適切な発言なので訳せない(訳したくない)という良識の働きによる「困る」です*3。翻って後者は、とりわけトークイベントのような公開の席においては場を緊迫、紛糾させたり、さらにはスピーカーの評価を過度に損ねたりするリスクなどもあるので極力避けたい、という危機管理意識が前面に出た「困る」だといえます。

また、意外と厄介なのが「よろしくお願いします」「お疲れさまでした」といった挨拶(あいさつ)に象徴される、社会習俗に深く根差した表現です。挨拶に限らず、こういう非常に「日本的」な発想の表現は、例えば韓国のように共通する文化を多く持つ国の言葉に訳すのであれば比較的容易なのですが、逆に遠くなればなるほど感覚がズレてニュアンスを伝えるのが難しくなります。

そして、そんな数ある「The ニッポン」なフレーズの中でも私が特に苦手としているのが、日本でメディアの取材を通訳するときに必ずと言っていいほど訊(き)かれるコレ:

「この作品を通してどんなことを伝えたいですか?」

映画やテレビの世界ほどではありませんが、舞台の作品にも外部メディアの取材が入ることがありまして、私が関わる作品は基本的に国際プロジェクトで外国のアーティストが参加しているという話題性も手伝い、とりわけ東京以外の土地で公演を行うときなどは本番が近づくと地元の新聞、テレビ、タウン誌などが稽古場や劇場に取材に来てくれることも珍しくありません。

その際、演出家や劇作家を対象に行うインタビューの締め括(くく)りとしてこの質問が出てくると、私は決まって心の中でひそかに苦笑いを浮かべつつ、そんなことはおくびにも出さないまま涼しい顔で通訳するべきなのですが実際は思いっきり顔に出して困ってしまいます。えっダメじゃん。すみません。

いえ、これを言葉どおりに訳して伝えること自体はまったく難しくありませんし、職務ですから実際にそのようにいたします。いたしますが、伝えたところで相手、つまり演出家なり劇作家なりの反応は、私と同じく苦笑いするか、戸惑うか、下手をするとイラッとするか。いずれにせよこの質問は通訳する人間だけでなく、訊かれた当のアーティストまで困らせてしまうのです。

「作品をつくる=伝えたいことがある」?

ではいったい、一見すると模範的にすら思える定番のフレーズがどうしてそんなに厄介なのでしょうか。

それはこの質問が、「作品には作者の伝えたいことが込められている」という前提に立っているからです。

「え?伝えたいことがあるから作品をつくるんじゃないの?」

「伝えたいことがないならどうして作品なんてつくるの?」

読者のみなさんの中には、そんな風に訝(いぶか)しく思った人もいるかもしれません。

実際、日本では昔から、舞台芸術に限らず映画でも小説でも漫画でも「この映画を通していちばん伝えたいことはなんですか?」「この物語のメッセージを一言でいうと?」のような質問が作り手に向けられている様子をメディアを通してよく目にしますし、批判に際しても「何が言いたいのかよくわからない」「メッセージ性が弱い」といった「伝えたいことが明確かどうか」に重きを置いた評価がなされやすい傾向にあります。いずれも「作品には作者の伝えたいことが込められている(べきだ)」という発想から出発していることは明らかです。

けれど、フランスのアーティストは一般に「こういうことを伝えるために作品をつくる」という、いわば初めに作者のメッセージありきで作品を構想するようなことはしません。まあフランスも広いですし舞台芸術といってもジャンルも観客層もさまざまですから中にはそういう人もいるとは思いますが、すくなくとも私が今まで創作の現場を分かち合ってきた人たちにそうしたアプローチを採っていた人はいなかったように記憶しています。

そもそも芸術作品はプロパガンダでは(あってはいけ)ないですし、まして教材でもないのですから特段のメッセージが込められていなければならない理由はありません。それに、「伝えたいこと」がそんなに明確にあるのなら、わざわざ芸術作品に仮託するなどというまどろっこしい上にちゃんと伝わるかどうかもわからない方法を取らずとも文章にするなり講演会を開くなりして直(じか)に主張した方がよっぽど確実で話が早い。稀(まれ)に「言いたいこと」が極めて明示的に展開されている演劇作品を観る機会もなくはないのですが、残念ながら暑苦しくて説教臭くて詩情に欠けると言わざるを得ないものが殆(ほとん)どです(忘れたころに懐の辛口ナイフを光らせるぴらの氏)。

さてそれでは、フランスのアーティストがこの「The ニッポンの質問」にどう応じるのかというと・・・

「うーん、伝えたいというより、私は以前から〇〇についてすごく関心を持っていて、いつか〇〇を題材に演劇をつくってみたいと思っていたので」

「最近△△を知って衝撃を受けたんです。もしかしてこれって自分が踊るときの意識にすごく近いんじゃないだろうか、これをダンスで表現したらどうなるだろうって」

「たまたま日本へ行く機会があって、そのときに日本の□□にすごく惹(ひ)かれて、なんとかこれを作品にできないだろうかと考えました」

そう、「その作品を通して伝えたいこと」ではなく「その作品をつくるに至るきっかけ」にずらして答える人がとても多いのです。そうして最後はたいてい「どんな風に観てもらえるのか、日本のみなさんの反応が楽しみです」といった具合に、観客の側の解釈に託して結ぶ。こうした回答の仕方からは、伝えたいこと「の方へ向かう」よりも創作意欲を刺激するなんらかの発見、出会い、関心事それ自体「から出発する」ことにこそ創作の本質があり、自分たちに提示できるのは作品の見方ではなく作品そのものでしかない、という作り手のスタンスを窺(うかが)い知ることができます。

作者の意図、あるいは死

「初めに伝えたいことありきじゃないにしても、着想を作品化するにあたっては作り手の意図が働くはず」

「意図をもってテーマを設定し作品をつくっている張本人に作品の見方を訊くのは自然でしょ?」

作品とメッセージ(の不在)について話していると、こういう声もよく上がります。今これを読んでくださっている方の中にも同様の疑問を覚えた方がいらっしゃるかもしれません。ちょっと舞台の仕事をしているだけのいち語学屋がこれ以上あれこれ語っても信憑(しんぴょう)性とありがた味に欠ける気がするので*4、ここで「作品は作り手から切り離して読み、批評すべきである」という考え方をフランスで、そしておそらくは世界でも最初(期)に提唱したある批評家を召喚してみることにします。そうです、ロラン・バルトです!ありがた味の権化みたいな人がぴらの氏の雑なエッセイにまさかの初登場!ひゅーひゅー。

あっ・・・でもバルトとかテクスト理論とか構造主義をよく知っている人はここから先しばらく読まなくていいです。ていうか読まないでください。むしろ絶対読むな!いいか!読むなよ!理由はテキトーなこと書いてるのがバレて叱られたくないからだ!(率直を装った明らかな逆ギレ)

さて、バルトに詳しいめんどく・・・教養溢(あふ)れる方々を追い払ったところで安心して話を続けましょう。い、いいかな。いいよね(ビクビク)。

テクスト理論で有名なバルトが「作者≠神」であると宣言したのは実に今から半世紀以上も前の1968年。パリの五月革命を中心に世界中で学生闘争が吹き荒れていた時代ですね。極東の日本ですら東大紛争が起きていたほどの「政治の季節」の真っ只(ただ)中にテクストと戯れていたのか。なんて優雅なやつ。まあ見るからに優雅が服着て歩いてるみたいな顔してるもんな。あ、ご存じない方は画像検索してみてください。そりゃもうスカしたおっさんが出てくるから。

それはともかく、ずばり「作者の死(La mort de l’auteur)」というタイトル(かっこよすぎて若干ムカつく)が冠された小品の中でバルトは、作者が特権的な地位を与えられるようになったのは近代以降、実証主義(実際に経験されたことや起きたことのみに基づいて理論や仮説を構築し、超越的なものを認めない立場のこと)的な考え方が私人としての作者を重視するようになってからだ、とした上で、「世間ではボードレールの詩には私人ボードレールの挫折が、ゴッホの絵には私人ゴッホの狂気が、チャイコフスキーの音楽には私人チャイコフスキーの放埒(ほうらつ)が表現されてる、みたいな批評がいまだに幅を利かせてるけどマジなんなの?」「作品っちゅうんは作者のぶっちゃけトークちゃうねんでホンマ」という趣旨の批判を展開します*5(※個人の感想です)。

さらに「まず作者とその人生があり、それを注ぎ込んで作品が生まれる、という時系列じゃなくて、書くという行為によって書き手も同時的に生成されるわけ」「テクストは常に書かれるそのとき立ち上がり、読まれるその刹那に開かれ続けるもんなの!」みたいな指摘もしています(※個人の想像です)。

そして「だからテクストに隠された解を突き止めるみたいなの超無駄」「だいたいテクストを作者のものにしちゃったら読みが広がんないし」「せっかく書かれたものが貧しくなっちゃうじゃん」的な主張もしてるっぽいです(※個人の印象です)。

また、バルトはそうやってテクストを作者から切り離すと同時に、「テクストとは作者の意図を超越して無数の出自を持つ要素が複雑に絡み合ったり真似(まね)し合ったりいがみ合ったりしながら織り上げられたもの」*6であって「そこに織り込まれている(かもしれない)あらゆる要素を徹底的に読み込み、テクストを主体的にときほぐしてゆくのは受け手、つまり読み手の方なんだよ」という風味の文言で、最終的に読者の自由で創造的な「読み」の可能性にテクストを委ねることで、作者の死を宣告している気配なのでした(※個人の心象です)。

以上、(よく知りもしない)「作者の死」を駆け足でまとめるという暴挙に出てみました*7。これはあくまでテクスト理論ではありますが、舞台芸術作品に置き換えて考えてみても、優れた作品の創作過程には必ずと言っていいほど、ある時点から作り手の意図を離れ自律的な展開を見せ始める局面が訪れます。まして舞台の作品は生モノであり、一回一回が唯一無二。いわば作品それ自体が意志を持って自由に運動することで、作り手という一個人の思想や嗜好(しこう)や経歴や境遇に象徴される属人的特性を遥(はる)かに凌駕(りょうが)する地平へと達することができるわけです。そこに万人が等しく正統的な「伝えたいこと」や「メッセージ」を見いだす余地が残されていようはずもありませんし、作り手もまた、とうに己が意図の軛(くびき)を逃れた作品について唯一正解を示す立場にはない。その意味ですでに「死んでいる」と言ってもいいでしょう。

もちろんロラン・バルトのような知的遊戯の天才が唱えたからといって絶対的に正しいとは限りませんし、学説には流行もあれば寿命もあるので「今時テクスト理論?」「記号と戯れるとか胡散臭(うさんくせ)えww」という向きもあるかもしれませんが(そしてオレ様も若干そう思っていないわけでもないのだが)*8、前段でご紹介したフランス人アーティストたちの反応、とりわけ「どんな風に観てもらえるのか、日本のみなさんの反応が楽しみです」という問い返しには、21世紀を迎えて久しい現在もなお、バルト的な思考が息づいているのがありありと見て取れます。

日本の「メッセージ信仰」はどこで再生産されているのか

それにつけても、作品にはメッセージが込められているのであって、それを突き止めるのが作品鑑賞の目的である、という前時代的な「メッセージ信仰」が日本でいまだにこれほど広く共有されているのはどうしてなのでしょうか。

改めてそう問いを立てたとき、日本で育った人ならすぐに思い到るのはやはり日本の国語教育の影響でしょう。人生で初めて芸術作品と自覚的に対峙(たいじ)する機会を得るのはおそらく大多数の人にとって小学校の国語の時間だろうと考えられるからです。

義務教育に国語という教科があるおかげで親御さんに読書習慣のない家庭の子も、本を買う余裕のない家庭の子も、近所に図書館がない地域の子も、ネグレクトを受けている子も、学校に通えさえすればさまざまな文芸作品を通じて知らない世界の一端に触れることができる。これは本当に素晴らしいことです。誰でも教育が受けられる社会というのは歴史的にも世界的にも決して当たり前ではありません。

ただ、日本の学校で文芸に出合う際の最大の難点は、作品鑑賞に付随して「教える/教わる」「評価する/される」という図式が持ち込まれてしまうこと。算数や理科のように一定の法則性とその応用方法を学ぶ教科や、社会のように知識を増やし見聞を広めて共同体の構成員に求められるべき問題意識を培うことに主眼が置かれた教科とは異なり、国語という教科の花形ともいえる物語文や昔話、詩などをどう受け止めるかは本来なら個々人の感性に任されるべきものですから、特定の読み方を唯一の「正解」として誘導し評価につなげるのはそもそも無理があります。

かといって、正解がなければ授業も評価もできない。いや、それこそ先述のバルト的な、単一のテクストを多義的に読み込む授業が構築できれば多様な感受性を尊び伸ばすことも可能かもしれませんが、それには教師の側も相応の訓練を受ける必要があります。ことに担任が一人で多くの科目を教える公立の小学校などでは教員への負荷が高過ぎて現実的とは思えません。また、仮に感性を尊重する授業が実現したところでそれでは点数がつけられないという問題は変わらないでしょう。私のように学校教育に適応できなかった人間からすればちょうどいいからいっそ点数なんかつけなけりゃいいじゃんとか思うわけですがまあそれはまた別の話。

かくして日本の学校教育は、無難な授業と速やかな評価、ひいては受験のための機能性に鑑みて文芸作品に唯一の「正解」を制定します。教科書に収録された作品ひとつひとつに「これは戦争の恐ろしさを伝える話」「これは友情の大切さが肝」「この場面が象徴しているのは現代文明の限界と自然の脅威」「このときの主人公の心情は他人の真心を知った感動と懺悔(ざんげ)」・・・そうして単一の「正解」に閉じ込められ窒息死させられたテクストの亡骸(なきがら)を「教材」として、あるいは「試験問題」として生徒たちは、学習指導要領や担任や問題作成者が制定した正解を探り当てる訓練に身を削る。

「この作品を通してどんなことを伝えたいですか(≒この作品はどう観るのが正しいですか≒正解はなんですか)?」的発想の再生産は、このような正解到達主義を短くとも9年間にわたって過度に内面化してきたことのひとつの帰結ではないでしょうか*9

まだです

で、うまくまとめたところで大団円、て思ったでしょ?

それがね。

まだなんです。

いや、私もこれで綺麗(きれい)にオチたかなーと思ったんですよ実は。むしろ「どんな作品にも正しい見方やメッセージがある、という発想は日本の国語教育で正解到達主義を刷り込まれているからでは?」という1行で終わる極めて凡庸な話を大仰に展開し過ぎたかなと幾分反省すらしかけていたんです。まあ書きながら考えるタイプだからしょうがないんだけど。

でも、これだけだとまだ謎が残ってるんですよね。

だって、国語教育で刷り込まれた正解到達主義を舞台芸術に対しても適用してしまうからといって、どうしてよりによって稽古場取材とかインタビューとか記者発表とか、つまり本番を観る前からそういう質問をするのかって話なんですよ。観たけどさっぱりわかんなかったから作者に訊いてみたい、ならまだしも、まだ観てもいないうちからそんなこと訊くって・・・

端的に言ってネタバレじゃん!!!

しかもそれを記事に書くつもりなわけでしょ? 伊坂幸太郎の新作刊行記念インタビューで「今回の犯人は誰ですか?」って訊く記者がいるか?いやまあさすがにその喩(たと)えには無理があるにしても、「伝えたいこと(≒正解)」なんて百歩譲って仮にあったとしても観てのお楽しみであって、最初からわかっていたら観る気が失せるでしょうに。

で、また学校教育の場で捏造(ねつぞう)(言い過ぎだ。怒られるぞ誰か偉い人に)される正解についてぐるぐる考えていたら、ふと気づいたことがあります。

・・・あれ?教科書に出てくる文芸作品の「正解」って、「教訓」が多くない?

なんか「ためになる」ものばかり読まされている気がしない?

あっ。

今、「教科書なんだから当たり前じゃん」て思った人がいますね?

でも、文芸作品の読み方に正解はない、というここまでの議論を踏まえて考えれば、それは学校教育が多様な読みの可能性の中から恣意(しい)的に制定した読み方にほかならないはずです。つまり学校教育が、明確な意図のもとに文芸を「ためになる」ものとして読ませようとしていることになる。

にわかに湧き上がった疑念に突き動かされるようにしてあれこれ調べてみると、国文学者の石原千秋さんという方がたいへん興味深い指摘をなさっているのをみつけました。石原さんは「現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育」「どこかに道徳的な教訓が含まれていることが、『定番教材』の条件」とした上で「例えば、『主人公の心情』を説明しなさいと言われれば、人間の心の動きは自由だから、それこそ読者の数だけ『正解』があっていいはずだ。しかし、学校空間ではなぜか『正解』が一つに決められてしまう。それは、道徳的に『正しい』心の動き以外は『まちがい』だとされるからである」と断言されています*10。ぎゃー!やっぱりそうだったんかい!!

そ、そういえば、教科書の読解に限らず、例えば読書感想文のような課題でも、「~~~の場面に感動しました」「~~~を読んでぼくもがんばろうと思いました」「~~~なところを見習いたいです」的な、ためになるポイントを探し出す競技みたいになっていた記憶がありますし、それどころか遠足や運動会の後に書かされる作文まで「楽しかった」「たいへんだったけど挑戦してよかった」「次はこれをがんばりたい」といった躁(そう)的な感想を書くのが暗黙の了解になっていた気が・・・今考えるとヤバめの企業の自己啓発セミナーめいた新人研修みたいだな。現代の学校にもあるのかな、ああいう空気。まあぴらの氏は「運動会の徒競走とか苦手で嫌いな子にまでやらせるのはおかしいと思う。授業で走るのは身体を鍛えるためだから仕方ないとして、運動会はイベントなんだから出たい人だけ出ればよくないですか?苦手なのにみんなの前で走らせて恥をかかせてもいいなんて、運動嫌いな子どもは悪なんですか?」みたいな作文書いて担任から忌み嫌われてましたけども(だがしかし訂正要求には応じなかった)。

・・・あれ?

義務教育時代を仔細(しさい)に振り返り過ぎて怨念まで生々しく蘇(よみがえ)ってきちゃったぞ☆

恨み節はともかくとして、国語教育が広義での道徳教育と化している・・・ということは?

国語の時間に刷り込まれているのは「どこかに必ず正解がある」という意識だけではなく、「文芸作品とは等しく道徳的な、『ためになる』ものである」というテーゼなのでは?そしてそれが芸術作品一般に対しても拡大され「芸術作品とはためになるものである(べきである)」という思い込みを多くの生徒たちに植え付けているのではないでしょうか?

そう考えると、記者さんたちがああいう質問をするのも合点がゆきます。芸術作品という「ためになるもの」の取材に来ているのだから、「この作品を通していちばん伝えたいこと(≒この作品を通して学べる教訓)」を知り、「こんなに道徳的な作品なんですよ、健全でお薦めですよ」という紹介の仕方をして然(しか)るべきというわけです(実際、子ども向けの作品だとその方が集客も伸びるんだこれが)。

しかし、そうだとするとこれは由々しき事態です。

ていうか端的に言ってヤバいです。

なぜなら芸術と道徳とは元来、互いに縁もゆかりもないものだからです。芸術作品や芸術家が特定の思想や教訓を流布するために利用された/ることはありますし、作品から啓示や訓戒を受け取ったと私的に理解、確信する余地は常に開かれていて然るべきですが、いずれの場合においても創作という営みそれ自体は市民の道徳観の向上に奉仕するための道具ではありません。

さらに恐ろしいのは、このテーゼがいつの日か、何かの拍子に反転され、「道徳的でないものは芸術作品ではない」という考え方に行き着いてしまうこと。

いつの日か、と書きましたが、私たちの社会では近年、すでにそうした価値観が加速度的に勢いを増してはいないでしょうか。一見すると暴力的な文言や猥雑(わいざつ)な表現ばかりが目につきがちな作品を前にして、その複層性や多面性を一顧だにせず「下品だ」「不謹慎だ」「アレのどこが芸術なんだ」といった「道徳的」観点から否定するような物言いを見聞きすることが多くなってはいないでしょうか*11

ナチス・ドイツはモダンアートを「退廃芸術」の名のもとに弾圧しました。中国共産党が断行した文化大革命期にはプロパガンダ芸術が溢れました。近年は日本の戦争美術の研究も徐々に進みつつあります*12。芸術を道徳のように時代や地域や信仰やその他多くの要因によって変容し続ける価値観に回収することの危険性を、私たちは絶えず思い出していなければならないと思います。

肩が凝りました

さてさて、通訳していて訳しづらくて嫌だな~と思う表現についてぼやきつつあれこれ考えようと思って気楽に出発したつもりが考え過ぎてものすごく遠くまで来てしまいました。思いがけず小難しい説教じみた話に付き合わされてみなさんさぞお疲れなのではないでしょうか。言っとくけどいちばん疲れてるのはオレだから!(突然の謎マウント)

これだけは言っておきたいのですが(えーまだ続くのかよーって声が聞こえた気がする)、フランスの理論を紹介した上で日本の国語教育(≒道徳教育)の問題点を指摘したからといって、フランス人全般が日本人全般より高度な教育を受けていて高尚な生きものだとか、創作およびその受容に際立って優れた見識を備えているとかいう話がしたいわけではまったくないのでくれぐれもご理解ください(だいたいフランスの教育がそんなに優れていたら大方のフランス人の出来上がりがアレなわけが・・・あっなんでもないなんでもないなにも言ってない)

それが証拠に以前、ジゼル・ヴィエンヌという演出家があるトークイベントで、さもおかしそうにこんな話をしていました。

「フランスのお客さんでよく困るのが、終演後に私のところへ来て、自分の解釈を伝えてくれるのはいいんだけど、あそこはそういうことですよね?こう観るべきでしょう?って共感を求めてくる人。そんなのわかるわけないのにね。私は作品じゃないし、作品は私じゃないんだから(笑)」

・・・あっ!

でもここまでお付き合いくださった寛大なるEJO読者のみなさんは心おきなくぴらの氏のテクストに共感したり賛辞を贈ったりしてくださってもくるしゅうないぞ!

だってこの連載、芸術作品でもなんでもねーから!!!!!!!

 

次回は2021年1月13日に公開予定です。お楽しみに。

刊行記念イベントのお知らせ

このたび、初の単著刊行(『元劣等生が褒められ好きの通訳・翻訳家になって考えたこと』)を記念して12月13日(日)16時よりツイキャスライブを配信いたします。新刊をご購入くださった方はもちろん、現在ご検討中の方や未来永劫(えいごう)買う気のねー奴(やつ)までみなさまご視聴いただけます。詳細に関しましては平野のTwitterアカウントを随時ご確認ください。

また、番組構成の参考にさせていただきますので以下のアンケートにリプライもしくはDMにてご協力を賜れましたら幸いです(任意)。

(1) 現在学習中の言語

(2) 今後学んでみたい言語(できれば理由も)

(3) 今後の連載で取り上げてほしいテーマ

(4) ぴらのへの質問、メッセージ等(あれば)

平野暁人さんの過去連載は「EJ新書」で読めます!

人気連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」の過去記事は、電子書籍のEJ新書『元劣等生が褒められ好きの通訳・翻訳家になって考えたこと』で読めます。書き下ろしの章「高い言語能力(日本語力)を成長過程でどう獲得したのか?」も必読です。

▼詳細・購入はこちら(各界の方々の推薦コメントあり)

*1:おわかりかと思いますがここはすぐ前の「不織布」とかけているんです。つまりすごく巧(うま)いんです。褒めて。

*2:これに対し、「作品の要請に応じて導き出される性表現」、例えば性愛それ自体をテーマに据えた作品に取り組む過程で必然的に浮上する性表現、性描写は、それが真摯(しんし)な創作意図を逸脱しない限りにおいて「適切な性表現」と形容することが可能だと思います。

*3:ちなみにそういうとき、私はよく「悪いけど、そういう表現を訳すには僕はちょっとばかり育ちが良すぎるみたいなんだ(※敢[あ]えての直訳調)」と切り返しています。これでほぼ確実に笑いがとれる。そして「そうだった、僕としたことが君みたいな真の貴族になんてことを!」とか返してくれる。フランス人アーティストのああいうノリの良さは好き。

*4:このあたりが学者ではない雑文書きの哀(かな)しさである。しょぼん。

*5:Roland Barthes, Œuvres Complètes tome III, nouvelle édition revue, corrigée et présentée par Éric Marty, “La mort de l'auteur”, Seuil, 2002, pp. 40-45. ※なお、これ以後に登場するバルトの雑な引用、超解釈、誤読その他すべて同一の出典につき記載を省略します。

*6:テクスト(texte)の語源はまさにラテン語のtextus(織物)なんですねえ。珍しく勉強になる注を付けてみました!

*7:いろんな人がすごく怒っていそうな気もしますが見て見ぬふりをします。読むなって言ったし。それでも読むほうがわるいし(引き続き逆ギレを怠らないスタイル)。

*8:文学作品の解釈の作法について、作者の意図をどう位置付けるかについては英語圏にもさまざまな議論があるようです。ご関心がおありでしたら以下のリンクなぞ。http://9bit.99ing.net/Entry/34/

*9:ただし、近年は学習指導要領にも変化の兆しがあり、教員用の指導書などでも、国語科の文学教材の扱いに関して「多様な読みの可能性」を提示することが推奨される傾向にあるようです。私個人は現行の義務教育について一次情報を得られる環境にいないため、自身の認識が更新されていない可能性も危惧しています。反面、一般にそうした革新的な試みは広範に行き渡り定着するまで相当の時間を要することや、今現在私が仕事を通じて出会う方々はまだそうした新方針の恩恵に預かっていないだろうことに鑑みて、本稿の論理展開には一定の妥当性が担保されているものと考えます。

*10:石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書

*11:もちろん、芸術作品はただ自由に作って自由に鑑賞してそれで終わり、どんな表現もどんな感想も人それぞれで全部正解、という態度はそれはそれでもったいないですし、なにより深刻な弊害を孕んでいます。これについては森 功次さんが極めて丁寧かつ平明に書かれているのでぜひともお読みください。日本中の方に最低3回は音読していただきたいくらい素晴らしいテクストです。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67828

*12:池田安里『ファシズムの日本美術』(青土社)。お薦めします!

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur