通訳者が顧客から信頼を勝ち取りリピートしてもらえる方法3つ

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。今回は、特に芸術関係者の通訳を務める上で重宝されるようになるコツを紹介。

アメリカ大統領選挙の行方と・・・

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者でアメリカ大統領選の結果が気になって仕方ない平野暁人です。バイデンさんが勝ちそうですが激戦州の集計がさっぱり進まない。そりゃもうこの原稿と同じくらい進まない。さすがに本稿が公開されるころには結果が出ているといいのですが。っていうかそれ以前に本稿が無事に書き上がるといいのですが(切実)。

それにしても選挙人制だとか州によって勝者総取りだったりそうじゃなかったりするとか相変わらずよくわからないシステムですよねえ。あ、うっかり「よね」という終助詞を付して同意を促してしまいましたが、よく考えたらここはEJO(ENGLISH JOURNAL ONLINE)ではないか。すなわち英語世界に所縁(ゆかり)の深い読者の方々は大統領選の仕組みくらいきちんと理解していらっしゃるに違いない。すみませんねえうっかり一緒にしちゃって。なんせぴらのはEJO(ENGLISH JANAI ORE)なもんで。

リモート稽古黎明(れいめい)期におけるニッポン

ところがそんな、英語にかすりもしない(≒メジャーな仕事に縁のない)ラテン系斜陽言語屋のぴらの氏にも先日、思いがけず英語文化圏の舞台芸術と接点が生まれました。きっかけは他でもなく、この連載です。

お読みくださった方はご存じのとおり(そして未読の不届き者どもは今すぐ読むがいい)、前々回前回と続けて海を超えたオンライン通訳やリモート稽古の最前線を可能な限り網羅的にリポートし、おかげさまで主に小劇場方面から作り手側、観客、批評家を問わず大きな反響が寄せられたのですが、それが巡り巡って、ちょうど日本で公演期間中の『ビリー・エリオット~リトルダンサー~』(演出:スティーヴン・ダルドリー)のファンの方々や、帝劇11月公演『ビューティフル』(演出:ダグラス・マクグラス)のスタッフの方などにも届いたのです。

前者はイギリス人演出家、後者はアメリカ人演出家によるミュージカルで、やはり疫禍を完全リモートで乗り切って上演に漕(こ)ぎ着けたとのこと。いずれも国の違い以上に予算規模からして私の関わっている公演とは桁違いですが、自分の書いたものがジャンルを超えてさまざまな層に読んでもらえたこと、そうして共感を得られたことにしみじみ感激しました。SNS社会には恐ろしい面も多々ありますが、こういうときはありがたみを実感しますね。

ところで、上記2作品にはともに「再演」であるという共通点があります。

他方、私が前回リポートしたSPAC(静岡県舞台芸術センター)の『みつばち共和国』は再演ではなくフランス版のリクリエーション*1でしたが、実はその前にもやはりSPACで『妖怪の国の与太郎』という作品に通訳、翻訳、ドラマターグ*2として参加しており、こちらは再演で、稽古も在フランス&スイスの演出家チームと3カ国をつないでの完全リモートで行いました。さらに、そのまた前には鳥取県が誇る「鳥の劇場」が美術家にフランス人アーティストを迎えて臨んだ新作『友達』にも通訳として関わっていました。

つまり、新作と再演とリクリエーションという異なる3種類のリモート稽古の通訳を短期間で立て続けに体験したわけですが、少なくとも私の関わった作品に限って言えば、再演であるか否かという点は、リモート稽古の可能性と限界を考えるうえで非常に重要なファクターであったように思います。

誤解を恐れず端的に言ってしまうと、稽古から公演までを完全リモートで行う場合、再演、それも初演と同じキャストやスタッフが相当数残っているチームでの再演でなければ、リモートで参加する側と現場で作業する側の双方が満足できる作品づくりを実現するのはかなり難しいのではないか、と感じました。

というのも、リモート稽古による作品づくりを成立させる上で鍵となるのはおそらく「いかに諦めるか」だからです。

ポジティブに諦めるためのヒント

前回の記事で詳しく述べたとおり、「俳優の細かい表情や動きがよく見えない」「精確(せいかく)な空間把握が行えない」「肉眼が認識するのと同じ照明は映像上では再現できない」「実際に客席で耳にするのとまったく同じバランスの音響を遠隔で体感することはできない」等々、リモート稽古は演出家にとって、ひいてはみんなにとって、毎日が数限りない「できない」との戦いであり、そのフラストレーションたるや筆舌に尽くし難いものがあります。

もちろん出演者もスタッフも総力を結集しあらん限りの知恵を絞って稽古の精度を向上させるべく取り組みますし、演出家も想像力を最大限に発揮して自分の視覚や聴覚に脳内補正をかけながら、時にはパソコンの前で叫んだり立ち上がって自ら演じてみせたりして少しでも距離を埋めようと全力を尽くします。今後、良くも悪くもリモート稽古がより一般化すれば技術環境の整備も進むでしょう。それでも、こと舞台作品の創作に際しては、同じ空間に存在していないという事実があらゆる努力や技術を圧倒してしまうもの。最終的にはどこかで線を引いて諦めながら進めてゆくしか道はありません。

そして再演ならではの強みが発揮されるのはまさにそんな、演出家が諦めを余儀なくされる局面です。

以前から折に触れて書いているとおり演出家とは作品にまつわるすべての要素を「決める」権限を有する唯一の存在ですから、自分の体感で納得していないのに諦めるのは本来なら最も苦手とする作業です。けれど再演であれば、少なくとも初演から参加しているオリジナルメンバーは出演者から技術スタッフ、マネジメントスタッフに至るまで、演出家が何を求めているのか、どんなことを大切にして演出し、最終的にどこへ向かっていこうとしているのかを身をもって熟知しています。

ですから、リモート稽古の限界により演出家自身が現場のクオリティを肌身で確認できないときでも、そうした戦友のようなメンバーに改めて丁寧に自分の演出意図を伝え、最終的なジャッジを委ねるよう心がけることで、「諦めて断念する」という後ろ向きな発想から「信頼して手を離す」という前向きな姿勢へと転換することができるのです。たとえ細部がよく見えなくても「この役者ならきっと自分のイメージどおりに演(や)ってくれているはず」。仮に照明の色味に納得がいかなくても「この照明家が大丈夫と言うんだからうつくしい仕上がりになっているに違いない」。最新技術という橋をもってしても届かないぶんの距離を埋めてくれるのは結局のところ人と人との信頼関係しかないというのが、現時点での私の実感です。

もちろん新作でも気心の知れた仲間とつくるのであればこうした信頼関係は要所要所で決定的な助けになってくれるでしょうし、初めての人ばかりの現場であっても稽古期間を十二分に確保してすこしずつお互いを信じ手を離せるようになってゆければ理想なのですが、とはいえ再演という枠組みがリモート稽古に際して平時を遥(はる)かに凌(しの)ぐアドバンテージを発揮するのは明らかだと思います。

さて、ここまでリモート稽古は諦めが肝腎(かんじん)という話をしてきましたが、思えば私の知る限り、さまざまな国を股にかけて活躍している演出家には諦めっぷりのよい人が多い気がします。それもそのはず、異国で創作活動を行う以上、劇場や稽古場の設備、機材などの環境面、稽古や仕込みにかける日数および個々の作業の進め方に象徴される文化的側面、そして何にどれだけお金をかけられるかといった予算面等々、あらゆる面で自国とは違って当たり前*3と覚悟し、割り切って臨むことが求められるからです。

では、演出家が外国で仕事をする際、最初に諦めなくてはならないことは一体なんでしょうか。

そうです、「直接の意思疎通」です。

諦めの極北としての通訳

近年はフランスの演劇界でも英語の達者な演出家が増えており、外国でも通訳を介さず英語で演出を行うケースが珍しくなくなってきていますが、日本人の俳優やスタッフには英語に堪能な人はまだまだ少ないこともあり*4、日本人と仕事をする場合には私のような仏⇄日通訳者が付くのが一般的です。従って多くの海外アーティストにとって日本での作品づくりは、「自分の言葉を他人に託す」という究極の諦めを強いられるところからスタートするわけです。思えばこの時点で(とりわけ英語の得意なアーティストにとっては)決定的なパラダイムシフトが起きていると言えます。

まして舞台芸術の通訳さんは稽古や仕込みバラシ*5だけでなく、アフタートークやプレトーク、各種メディアからの取材対応、予算やギャラや日程の交渉、滞在施設の案内や利用方法の説明(※ぴらのは特に洗濯機の使用説明がすごく上手になりました)、さらには食事の手配やお土産探しといった私的な領域まで付き合うこともありますから、長期間滞在して作品づくりやフィールドワークを行う場合などは特に、どんな通訳者に出会うかは演出家にとって、おそらく読者のみなさんが思っているよりも遥かに重要な要素であると言えるでしょうとか断言するとさすがに偉そうかな感じ悪いかなせっかくここまでがんばってきたのに好感度下げたくないからやめとこうかなでもでもとか迷ってしばらく書いたり消したりしてたけど後進のためにも我々の待遇改善のためにもやっぱり腹を括(くく)って断言しておくと通訳者はとっても大切なんです!あとバイデンさんハリスさんおめでとう!いつまでも原稿が書き上がらずにいたらついにあっちの結果が先に出ちゃったからただいまよりぴらの氏はひとり激戦州となります!締め切りまでに勝利宣言できるかどうかはまだまだ予断を許しません!余談は多いけどね!(巧[うま]い!)

ええと、なんの話だっけ。あっそうそう、ですからひとたび「安心して諦められる」相手、つまり信頼して委ねられるような関係を築ける通訳者に巡り合えた演出家はたいていそれ以降も自分の権限の及ぶ限りにおいて同じ人を指名するようになります。また、優秀な制作者やコーディネーターなら通訳者の重要性は当然心得ていますから*6、このアーティストを呼ぶなら通訳さんはこの人、というリストを有しているものです。かくして世界的に活躍するアーティストは行く先々に腹心の通訳者を置くようになるわけです。

信頼される通訳者であるために

「え、でもさ、特別に信頼のおける通訳かどうかなんて、どうやって判断するの? 向こうは日本語わかんないんでしょ(笑)」

通訳者の重要性について説明すると、こんな質問をされることがあります。なかなかどうして失礼な物言いだと思うのですが、そういう疑問をもつこと自体はもっともかもしれません。実際、私自身もこの連載の第2回で「演劇の現場においては、通訳は必ずしも正解を出すことを求められない。通訳が多少拙(まず)くても、俳優やスタッフがプロとしての経験と勘を働かせて意図を汲(く)み取り演出家の満足するパフォーマンスを実現してくれさえすれば、結果的に通訳も役目を果たしたことになる」という旨のテクストを書きましたし、それはそれで揺るぎない事実です。

だがしかし!どんな仕事でもそうだと思いますが、あらゆる人々に助けられてなんとか現場を成立させる「だけ」で許されるのはやはり駆け出しのうちだけ。他の人ではなくてあの人「が」いい、と言ってもらうためにはやはり、もう一段上の信頼を勝ち得る必要があります。そこで、リピート率99%(当社不調べ)と言われる野良通訳界の希望の星・ぴらの氏が考える、「私がアーティストに信頼される3つの理由」(あえてベストセラーっぽくいやらしいタイトルにしてみた)を挙げてみようと思います。

その1:的確、かつ必要最低限の質問をする

アーティストとは、とかく独自の言語体を操る生きものです。何気ない日常について語るに際しても絶えず詩情や修辞の横溢(おういつ)する表現を駆使するタイプもいれば、哲学や精神分析などの参照項を大量に織り込んでくる人もいます。

厄介なのは、当人には自分が特段変わった言語を発している自覚がない場合が多いこと。基本的に自分と感覚の近い人々に囲まれて活動しているので、共通言語が成立しなくてつまずく経験を日ごろあまりしていないのでしょう。あるインタビューで演出家がとつぜん呪文めいた長文を口から瀑布(ばくふ)のごとく吐き出し始めたのを見て絶望で真っ白になったところ、マゾッホ*7の小説の引用だったことがわかり今度は憤怒で(内心)真っ赤になったこともあります。そんなもん丸腰で訳せるわけねえだろうがまじで(思い出し怒り)。

さて、基本的にはわからなければ率直に質問するしかないのですが、私が心がけているのは、わからないことを片っ端から訊(き)こうとしないこと。例えば演出家が難解なコンセプトを説明する際に例を3つ挙げたとして、3つ目の例がよくわからなかったとしても、前出2つと同工異曲であると判断できればあえて質問せずに流すことが多いです。こういうケースでは、例をすべて訳出しなくてもコンセプト自体を理解してもらえればそれで目的は達成されるからです。

加えて、よくわからないものを逐一質問していると結果として発話者を苛(いら)立たせてしまうこともあります。自分の作品世界について語るときのアーティストは概して多弁であり自分なりのグルーヴに身を委ねてしゃべりたいものなので、あまり頻繁に遮られると調子が狂ってしまうのでしょう。逆に、可能な限り放任主義で気持ちよく話せるようにしてあげるとどんどん興が乗ってきて話もおもしろくなり、「この通訳者はやりやすい!」と感じてくれます。

こっちはこっちでがんばって正確に訳そうとして「これなに?」「さっきのはどういう意味?」と真面目に質問した挙句(あげく)「あーいいからそれはべつにいちいち訳さなくても」などとめんどくさそうに言われると(だったら最初っから言うんじゃねえよ!!!!!)と心の底から毎回新鮮にムカつくので、質問を最低限にするのはお互いの精神衛生のためでもあります。

ただし、「どうやらここが話の肝だ」と直感した場合には、どんなに流れを堰(せ)き止めてでもしつこく、何度でも、理解できるまで質問します。その際、「ここはあなたの美学を共有する上ですごく大切な部分だと思うから」「ここがわからないと訳が破綻するから」と率直に伝えれば、アーティストは気を悪くしないどころか「この通訳者は話の勘所を的確に掴(つか)み、厳密に理解しようとしてくれている」と感激し、信頼を深めてくれるはずです。

このように、相手の口から出るものすべてを完璧に訳そうとするのではなく、むしろ絶対に訳し落としてはいけないところを瞬時に峻別(しゅんべつ)して「質問し分ける」能力の方が、すくなくとも厳しい時間的制約のなかで大人数と作品づくりをする舞台芸術の通訳者にとっては重要なのではないかと、個人的には考えています。

その2:相手の言いたいことを「相手より上手(うま)く」言ってあげる

人間の話というものは大抵、大量のノイズを含んでおり、口から出る言葉すべてがいちばん伝えたい内容であるとは限りません。「ええと」「あのー」といったいわゆる「フィラー」はもちろんですが、一応フレーズの体を成しているものであっても、「訳すに値しない」場合があります。このことはアーティストであっても例外ではありません。って偉そうな言い方をしてすみません。あ、いつもか。じゃあいいや(※たぶんよくない)。

この傾向は、特にしゃべりながら考えるタイプの人に顕著です。「ええと、~~~だから、いや~~~なんだけど、それは言い換えれば~~~につながるっていうか・・・」と行きつ戻りつ紆余(うよ)曲折を繰り返しながら徐々に考えをまとめて核心に近づいてゆく、という手法をとる人は意外に多いものです。

しかし残念ながら時間は無限にあるわけではないし、通訳者は機械ではないので「あーでもなければこーでもない」を片っ端から訳し続けていれば無駄に消耗します。あと、だんだんムカついてきます(あっ)。アーティストがそんな風に迷子になりかけて時間ばかり過ぎていくようなときには、タイミングを見計らって「それってつまり、これこれこういうこと?」とパラフレーズを用いて相手の言いたそうなことをずばり代弁し、「あっ!そう、それ!!そういうこと!!!」と本人に快哉(かいさい)を叫ばせることができればもはや勝ったも同然です。まさに肉を切らせて骨を断つ、というやつです。ちょっと違うか。闘ってないし。いや闘ってるぞ!通訳は闘いだバカやろー!!(落ち着けオレ。あとトランプも)。

私がこういう出過ぎた真似(まね)(※いちおう自覚はある)をする理由は大筋で2つあります。

ひとつは、「自分の言いたいことがいちばん上手に言えるのは自分とは限らない」と考えているからです。生きていれば誰しも絶えずなにか感じたり考えたりしているわけですが、自分の内側で生起する現象だからといって常に自分で十全に言語化できるとは限らないのです。翻って我々通訳者は言語化のプロ。相手の話を分析しながら聞いて断片をつなぎ合わせ、本人の代わりに核心部分を成型することも、すくなくとも他業種の人よりは上手にできてしまうのであります(えへん)。

そしてもうひとつは、私が通訳者である前に翻訳家だ(と自分では思っている)からです。たまたましゃべるのもそこそこ得意なので通訳もやっていますが、その場合も常に翻訳のスキルを流用して行っており、アイデンティティはあくまでも翻訳家にあります。そして翻訳とは私にとって、著者以上にテクストを読み込み、行間に目を凝らし手を突っ込んで核を引き摺(ず)り出し言葉を着せて形を与える営為。ですから通訳にあたっても、話者がうまく表現できない部分、十分に意識化できていない深層を照射し、聞き手にとってよりわかりやすい形で取り出すことができるというわけです(たぶんねたぶん)。

なにか伝えたいのに自分でも要領を得なくてもやもやしていたら他人がずばり言い当ててくれて「そう、それ!」ってなった経験は、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。アレができるとアーティストに喜ばれ、頼られること間違いなしです。

その3:意思を持ったいち個人として振る舞う

これについてはラテン系(およびオレ様系)の特殊事情が多分に関係しているかもしれませんが、フランス人アーティストは基本的に、演者であれスタッフであれ「ひとりの人」として接します。一見当たり前のようですが、役割依存社会ニッポンと違い「通訳さん」とか「音響さん」「照明さん」などと呼ばれることも当然ありません。どんな若手スタッフでもまず名前を聞き、覚えようとする(≠覚えられる)ところから始まります。

一人ひとりを個として尊重するということは、議論したり何かを決定したりする際も、関係する全員に発言権が認められるということでもあります。例えば稽古スケジュールひとつとっても、通訳者に「9時~12時、13時~18時にしようと思うけど、Akiはそれでいい?」と確認してくれます。きちんとした通訳さんならすんなり同意して終わりかもしれませんが、わたくしは「んー。12時過ぎるとランチがどっと混むから10時~13時がいいな。あ、それか12時~13時半は?シエスタしようよ〜」など積極的にカマすよう心がけております。

また、フランス人は一般に議論が大好き。稽古中はもちろん、忙しい仕込みの最中でもなにかにつけて議論が勃発します。日本人の目には喧嘩(けんか)に映るほどの勢い(そしてたまに喧嘩している)で闊達(かったつ)にやり合うのですが、そういうときに限ってとっても生き生きしているのでよっぽど楽しいのでしょう。

一方、日本人は開かれたディスカッションがとても苦手。

「話し合い」と言いつつ発言権のある特定の人たちの話を周囲の「その他大勢」が傾聴する、というパターンに陥りがちです。また、社会全体が封建主義の年功序列なので(って好き勝手言ってるけど反省はしない)、そもそも演出家から対等に意見を求められるような状態に慣れていないという問題があります。そういう状態の人たちに議論を振っても、即座にヴィヴィッドな反応を得るのは難しい。それどころか「みんな疲れが溜(た)まってる感じだね。明日は稽古休みにしようか?どう思う?」という程度の質問ですら、日本人の最初の反応は・・・そう、まずは周囲と顔を見合わせる。そして様子を伺い、空気を読もうとする。特に年上の人たちの表情を読み解こうとする。

めんどくせえええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!

とか言っていても仕方ないので「はい、じゃあ休みたいひと手を挙げて~!」とすかさず勝手に挙手制に切り替えて暴力的に場の処理を図るのもぴらの流なのですが、そうやって演出家に「この方が早いから!」と主張することも、意志を持ったいち個人としてその場に身を置いている証左になります(と、自らの傍若無人ぶりを都合よく解釈するぴらの氏であった)。

さらに厄介なのが「打ち合わせ」の場。

フランス側が自分たちの希望を遠慮なく明確に提示するのに対して、日本側は「なるほど(≠同感です)」「わかりました(≠合意しました)」「ちょっと私の一存ではアレなんですが、持ち帰って前向きに検討してみます(≠実現へ向けて具体的に尽力します)」といった答弁(!)を多用します。

そうしてさんざん待たせた挙句「あのですね、こちらとしてもご要望を尊重したいのは山々なんですけれども、ただまあ、ちょっとですね、今回、現状ではかなり厳しいのかな~、と」とか抜かすし。えっ?なにそのポエム。それを訳せと?それ絶対フランス人に「で?結論は?」って聞かれるよ?だって「厳しいのかな~、と」ってそれ、完全に独り言じゃん。やくさなくたっていいじゃないか。ひとりごとだもの(あきを)。

まあ、特に多額の予算が関係するような局面ではなかなかはっきりと答えられないことが多くても仕方ないのかもしれませんが、ここまで見てきたようにとかく日本人は明確な意思表示をしないので、ともすればフランス側から「あの人たちはいつもにこにこして感じはいいけれど何を考えているのかよくわからない」という心象を抱かせてしまいがちです。つまり、仲良くなるのに時間がかかるんだよねオレたち。

そんな中で「疲れたからそろそろ休憩にしようよー」「速い速いもっとゆっくりしゃべって!」「は?やだよこんな長いの訳すの」「今日の賄い飯すっげーまずかった。あんなもん食べさせられたら午後は働く気しない(※この話はいつか詳しくしたい*8)」など好き放題にモノを言う、つまり常に意思を持った個人として振る舞う私のような人間は、「率直」であるとして、すくなくともフランス人アーティストからは信頼を得やすいようです。日本ではずっと顰蹙(ひんしゅく)を買ってきたのにね!まさに捨てる神あれば拾う神ありって言おうかと思ったけどフランス人が神とか癪(しゃく)に障り過ぎるからやめとくね!

ビビディ・バビディ・ブー

さてさて、リモート稽古における「信じて手を離すこと」の重要性から出発し、同テーマを通訳者という職能に引きつけてさらに掘り下げる試み、如何(いかが)だったでしょうか。最終的にはまたしても不良野良通訳ぴらの氏の傍若無人ぶりがフォーカスされてしまい若干焦っている次第ですが、お口直しに私が今まで通訳として働いてきて最高にうれしかった言葉をひとつ、ご紹介して終わろうと思います。

フランス国立リムーザン演劇センター芸術監督であり私の親友でもあるジャン・ランベール=ヴィルドを囲んで日本の制作者も一緒に食事をしていたときのことです。自分は日本が大好きだし、これからも日本でたくさん仕事がしたいけど、自分で日本語を学ぼうとは決して思わない。この先もずっとAkiと一緒に仕事をする!そうしていっぱい、いろんな作品をつくるぞ!ほろ酔い加減も手伝ってか、いつにも増して意気軒昂(けんこう)なジャンさん。それから横目で私をちらっと見ると、にっこり笑ってこう言ったのでした。

「だって、Akiが訳してくれると、僕の言葉に魔法がかかるんだ!」

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*1:すでに存在する作品を基点として新たに創作を行うこと。

*2:https://artscape.jp/artword/index.php/ドラマトゥルク

*3:ただし「違う=よくない」とは限りません。とりわけ日本人アーティストが欧州へ行くと、むしろ殆(ほとん)どの面で日本での仕事よりも遥かに厚遇され、環境の格差に愕然(がくぜん)として帰ってくることの方が多いです・・・南無阿弥陀仏。

*4:余談ですが、日本人の俳優やスタッフがこのことを恥ずかしく思う必要はまったくありません。アルファベットの国々の言語は大まかに言って親戚同士であり、まして英語はどこの国でも義務教育で学ぶのですからできて当たり前というものです。言語系統の根本的に異なる我々が比較して勝手に劣等感をもつのは百害あって一利なし。

*5:さまざまな装置や照明、音響などのセッティングを「仕込み」、公演終了後に解体する作業を「バラシ」と呼びます。なお、バラシに関しては「今回は大した装置がなかったからもうバレたよ」のように動詞的に用いることもありますが、これを初めて耳にしたときの衝撃は忘れられません・・・!

*6:と、ドサクサにまぎれてプレッシャーをかけるわたくし。特に若手の制作さん!来日アーティストへの通訳さんの手配は慎重に。先方から特段の指名がない場合でも、念のため希望を確認しましょう。特に通訳者のギャランティが日本側負担の場合は遠慮して自分からは言わないことも多いです。実際あの連中ときたら、いつも高慢ちきなようにみえてたまには遠慮することもあるというわけなのさ。実に驚くべきことだがね(唐突な翻訳口調)。

*7:レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ(1836~1895)。オーストリアの小説家。代表作に『毛皮のヴィーナス』『魂を漁る女』など。苦痛の内(うち)に快楽を見出す倒錯した美学が特徴的とされ、「マゾヒズム」の語源にもなった。

*8:偉そうなわりに決して怒らないぴらの氏にしてはめずらしく演出家にガチギレした事件。いま思い出しても腹が立つ。

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur