恋人以外の他人が裸を見せ合う温泉文化に触れたフランス人に教えられたこと【舞台通訳者の豊岡演劇祭巡り】

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。第9回は、「豊岡演劇祭」。その初開催を見に行って、温泉で有名なこの地で改めて感じた、人の言語と身体の違いや移り変わりなどについて語ります。

目指せナンシー関&吉田兼好!

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人と申します。朝夕の涼しさに秋の深まりが実感されるこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。

わたくしはといえば、前回の記事を脱稿して以降すっかり腑(ふ)抜けとなり、さっぱり原稿が進まずにおりました。珍しく時事問題を扱って気を吐いたりして、おかげさまで驚くほど多くの方から共感や激励のお言葉を寄せていただけたのはよいものの、やはり慣れぬことをして些(いささ)か消耗してしまった模様。なんせ根が漫談家だからなあ。

だいたいですね、この連載、前回も約1万字書いてるんですよ。そして その前も約1万字です。隔週連載ですから1カ月当たり合計約2万字。2万字といえば学部の卒業論文で求められる字数です。大学生が4年間の集大成をまとめ上げる字数を毎月書いているわけです。これはもう毎月卒業しているようなものです(※違います)。

いくら話が長いことで有名なぴらの先生でもこのままいくとさすがに全身がバラバラになってしまう・・・もうすこし短くて小気味良いものも書いてみてはどうか?というかそもそも憧れはナンシー関*1(各コラム平均1200字)だったはずじゃないのか?たまには心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくればよいのではないか?教えて吉田兼好!

というわけで、今回は書き手にも読み手にもやさしいふんわりした随筆に挑戦するつもりです。これといってオチとかないぜ。主張もないぜ。なんとしても短くさらっと仕上げてやるのさ。あ、ここまででもう500字くらい書いちゃった。

豊岡演劇祭に行ってきました

実はわたくし、去る9月11日から14日にかけて、兵庫県豊岡市の城崎(きのさき)温泉に逗留(とうりゅう)してまいりました。そう、志賀直哉の『城崎にて』の舞台になったあの城崎です。

同地に城崎国際アートセンター*2がオープンした2014年以来、仕事はもちろんそれ以外でも折に触れてちょくちょく足を運んでは「7つの外湯」につかり、地ビール(うまい)をぐびぐび呑(の)み、よい心持ちで川辺を散歩しながら(あの辺をネズミが逃げ惑っていたのだろうか・・・)などと文学通ぶって遠い目をしたりして遊ぶ大好きな町なのですが、今回はその城崎を含む豊岡市全体で開催された「豊岡演劇祭*3の記念すべき第1回を遊び倒・・・視察すべく友人を連れて足を伸ばしてきたのでした。

ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、城崎といえば「The陸の孤島」。東京から行くとざっと6時間かかります。それどころか京都からでも特急で2時間半近くかかるのです。東京から京都まで新幹線で2時間15分なのに・・・。日本中どこから行っても満遍なく遠い。それが城崎温泉。

ただし、いみじくもこの距離こそが私のような人間にはなによりのご馳走(ちそう)にもなり得ます。というのもさすがにこれだけ遠くなると、外国からのお客さんを別にすればお客さんの大部分は関西人。しかも今は時節柄外国のお客さんはほとんどいらっしゃらない。

そう、つまり城崎温泉は地元および近県の人が大方を占める関西弁パラダイスなのです!

「いやいや、そんなん関西の観光地やったらどこでも一緒やろ」と思ったそこのあなた。これがですね、京都や大阪、神戸(※ここで「なぜ兵庫と言わねえんだ問題」に言及すると横浜や金沢が参戦してややこしくなるわりに大しておもしろくならないので触れない)などには非関西圏から来ている人も多く、とりわけホテル、飲食店、観光スポットなど旅行者が多く訪れる場所ではさまざまな地域の言葉が乱れ飛んでおり、加えて接客側も標準語寄り、もしくはとってつけたような「ビジネス関西弁」を使いがちなので、私のような地域語フェチの人間が満足できるほど自然なやりとりを耳にする機会は意外に少ないのです。

なにしろぴらの先生ときたら石垣島へ旅行に行ったときも本物の八重山(やえやま)語*4が聞きたい一心でかなりディープな住宅街を徘徊(はいかい)していたほど。そしたら運良くおばあ(さん)たちが玄関も窓も開けっぱなしで井戸端会議しているところに出くわしてしまいその響きのうつくしさにしばし陶然と聞き惚(ほ)れてからハッやべえこれ思いっきり立ち聞きっつうか盗聴じゃんと我に返り慌てて立ち去った前科まであります。あ、でも盗聴罪ってあれですかね?意味がまったくわからなくても成立するんですかね?教えて吉田兼好!(※兼好とばっちり)

温泉と裸の言葉たち

そこへいくと城崎は温泉。温泉の醍醐味といえばなんといっても人様の会話を堂々と盗み聞・・・合法的に共有できること。

公教育の標準語化と全国的なテレビの普及を2つの転回点として急速に失われつつあるといわれて久しい方言/地域語ですが、家族間や気の置けない友人とのやりとりではまだまだ飾らない普段着の、もとい、裸の言葉(そうです温泉だけに裸ですどうだ巧[うま]いだろ巧いと言え)が大切な機能を担っている様子が垣間見られ、「まだこおへんのか(大阪かな?)」「なんしとぉ?(神戸方面とみた!)」「そんなんできやんやん!(ここここれは三重?和歌山?)」といった具合に、のーんびり温泉につかっているようでその実、常に研鑽(さん)を怠らないのでありました。

ってかっこつけて書いてるけど要するにすごく純度の高い変人じゃん、と思った人は思ってもいいので口にしない勇気を今日から身に付けましょうね。大人の嗜(たしな)みだからね。あとSNSで知らない人にいきなり乱暴なリプライを付けるのも絶対ダメですからね(急に具体的なダメ出し)。

さらに、西の人は距離が近い!少なくとも東京の人間からすると、知らない人に話し掛けるハードルはものすごく低いように感じられます。これはここ数年、短期から長期(1カ月以上)の滞在を重ねてきての実感で、いつでもどこでもいくらでも迷子になる私のような人間にとっては、その辺の人に声を掛けても怪訝(けげん)な顔ひとつせず道を教えてくれるというのは本当にありがたく、このうえない安心感があります。それどころか、困り果ててうろうろしていると「にいちゃんどこいくん?」と向こうから声を掛けてくれる人までいて感激したことも。

で、普通に服を着て外にいてもこんなに近いのですから服を脱いで温泉なんぞ入った日にはさらにぐっと近くなる人もいるわけで、特にひとりで入っていると話し掛けられることもしばしば。先日も隣に居合わせた年配の男性から「にいちゃん、ええこと教えたるわ。あんな、温泉はな、コロナにええねんで。まいにち温泉入っとったらコロナにはかからへん。これほんまの話。あんな、コロナ菌ゆうんはな・・・」と、朝晩の温泉が感染症予防における最善策であるという耳より情報を入手しました。とりあえずコロナは菌じゃなくてウイルスだし。最後には「それと、あれは大事やで!うがいと手洗いな!」と言って出て行かれました。うんそれは知ってる。はっはーんさてはおっさんあれやな、ただの温泉好きやな(それも知ってた)。

温泉と裸の身体たち

温泉といえばもうひとつ「見ず知らずの他人の裸体をたくさん目にする場所」というのも特徴です。なにをいまさら当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、これがひとたび日本を離れると、ヨーロッパ人、とりわけフランスやイタリアをはじめとするラテンの人々にとっては意外にありふれた経験でもなかったりします。

ヨーロッパにも温泉がまったくないわけではないものの、昔ながらの湯治場、療養施設として運営されているところが多く、入浴時には水着の着用が求められるのが一般的です*5。アントニオ・タブッキ*6の代表作『供述によるとペレイラは・・・(Sostiene Pereira)』を読まれた方なら主人公ペレイラが湯治場に逗留するくだりをご記憶かと思うのですが、今も基本的にはああいう感じで、行き会った見ず知らずの他人と全裸で空間を共有するという日本式の温泉体験とはかなり異なっていると言えます。また、療養施設ですから健康な人や若い人にはそもそもあまりなじみのない場所のようです。

以前、鳥取県にある「鳥の劇場」へ公演に行き、劇場さんのご厚意で現地のたいへん素敵(すてき)な温泉旅館に宿泊したときのことです。野趣あふれる庭園風呂にはしゃぐ私をよそにフランス・イタリアの混成チームは戦々恐々。全裸を意に介さず私と連れ立って入った人、タイミングをずらして入った人、夜中に何度も浴場をのぞいて無人の時を見計らって入った人、最後までついに部屋のシャワーで済ませた人などまさに十人十色でしたが、その中のひとりが感に堪えない様子で言いました。

「僕たちフランス人はたぶん、恋人以外の裸を見ないまま一生を終える人がほとんどだと思う。まして自分の親の老いた身体なんてまず目にする機会はない。でも、それっていいことなんだろうか」

そうして最後にこう付け加えました。

「だって僕たちはみんな、年老いてゆくのに」

命を眺める

彼がなにを思ってそうつぶやいたのか、その真意がすべてくみ取れたわけもありませんが、思えばそのとき以来、温泉で他者の裸体を目にすることは私にとって、すこし特別な意味を持つようになった気がします。

人はみな、速さに多少の違いはあれど、確実に、等しく老いてゆきます。

私自身も気づけば生まれてからずいぶん長い時が経(た)ち、近ごろ自分の身体が変わってきたのを実感するようになりました。時折り、若い俳優やスタッフの前で自分ばかりがひどく老いぼれているような感覚を抱くことすらあります。若返ることはもちろん、誰かの代わりに老いてあげることもできなくて、だから老いとはすごく孤独な営みのようにも思えます。

翻って温泉には、たくさんの身体があります。幼い子からお年寄り、痩せた人に太った人、色白な人に色黒な人に刺青(いれずみ)のある人、足を引きずる人やケロイドのある人など、種々様々な身体の形があって、そのすべてに違う時間が宿っている。いま若い人もいつか必ず老いるし、いま老いている人もいつか確かに若かったのです。それぞれに異なった時間、異なった時点の刻まれた肢体が集う温泉という空間で、いろんな形の命が視界いっぱいにうごめくのをぼんやり眺めながら、つくづく思います。ああ、みんなこの身体で生きてきたんだな。生きてゆくんだな、と。

するとなんだか、若さと老いは等価のような気がして、自分は今も昔もずっと自分だったし、きっとこれからも自分でしかないということが、誇らしく晴れやかに感じられるのです。

言語と時間と環境と

ところで、それでは「言語」はどうでしょうか。

ひとりがひとつを抱き一生かけて育む「身体」とは違い言語の場合、最初からいくつもの母語を有する人もいれば、成長の過程でその中のひとつないしは複数を失う人、あるいは私のように成人してから第2言語、第3言語、第4言語と増やしてゆく人もいます。けれど、母語はもとより大人になってから獲得した言語であっても、発話主体が重ねてきた時間や身を置いている環境と無縁でいられないのは言うまでもありません。

例えばフランス語学習歴3年の日本語母語話者(30歳)とフランス語母語話者(3歳)では、対象としている言語こそ同じでも必要とする部分、触れている側面が大きく異なります。30歳の学習者にとっておもちゃの名前は(育児をする環境にない限り)優先順位が低いでしょうし、3歳の母語話者が滞在許可証の申請に必要な語彙を覚える局面もあまりなさそうです。

あるいは、学生のころに留学して集中的に語学を鍛え、それ以降はあまり積極的に更新していないという人は、自分でも無意識に当時の流行語や若者言葉を使い続け、ふとした拍子にネイティブにびっくりされたり、ちょっと笑われたり、それどころかわかってもらえなかったりすることさえあります。いわゆる「死語」というやつですが、いつの時代に青春時代を過ごしたか(≒年齢)が言語運用によって露(あら)わになるという現象は母語でなくても起こり得ます。

実を言うと私はそうした、特定の時代や環境と強く結び付いた表現は極力避けて言語を学んできました。フランス語やイタリア語、韓国語などの非母語はもちろん、母語である日本語であっても、いわゆる流行語の類いはほとんど用いずに生活しています。昔から言葉に限らず圧倒的なスケールで流通するものが苦手ということもありますが、翻訳や通訳を生業(なりわい)とする以上、あまり色の付いていない、なるべく清潔でニュートラルな言語運用を日頃から心がけるべきと考えていたからです(文体やトーンはまた別の問題なのですが)。

けれど最近、そんなに肩肘を張らなくてもいいのかも、と思うようになってきました。言語も身体と同じようにそれぞれの話者が生きてきた時間と環境を宿しているのなら、その個別性自体が豊かさを構成する要素であり、むしろ積極的に痕跡を遺していった方がおもしろい気がします。完全に「ニュートラル」な言語運用なんてあり得ないし、もしもあり得たところで、それによって29歳の訳者と92歳の訳者が似たり寄ったりの「手つき」になってしまうのでは本末転倒なのではないか・・・。

最後の最後でずいぶん大きなテーマに行き着いてしまったので、ここから先は別稿に譲ることとさせてください。ただ、いずれにせよ確かなのは、こんな風に考えられるようになってきたのも年齢(とそれに伴うプロとしての経験)を重ねてきたからだということ。我ながら、もっと「純粋」で「清潔」で「普遍的」な言語体を追求するべきだと考えていた昔の自分からは考えられないほどの進歩だなと思います。

だからやっぱり若さと老いはつながっていて、老いて衰える感性も研がれる知性もあって、身体と一緒に丸くなる思考もあったりなんかして。

歳をとるって意外にわるくない。

かも。

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*1:天才。

*2:舞台芸術に特化した「アーティスト・イン・レジデンス」。平たく言うと、「国内外で舞台芸術活動をするアーティストが滞在して作品をつくる拠点」です。温泉地にある充実した施設で熱意溢(あふ)れるスタッフに支えられながら作品づくりができるとあって、いま日本でいちばん人気の創作拠点と言っても過言ではないでしょう。とりあえずひらのはいつもいつでも行きたいです。

*3:劇団「青年団」を率いる平田オリザとその理念に共鳴した豊岡市とが中心となって立ち上げた国際演劇祭。今年が初回ながら見事な防疫とホスピタリティーでウイルス禍下にもかかわらず大成功のうちに閉幕しました。今から来年が待ち遠しいです!

*4:主に八重山列島と呼ばれる石垣島、竹富島、小浜島、黒島、新城島、波照間島、西表島、鳩間島で話されている言語。系統としては琉球語の「方言」として位置付ける見解と、独自の言語として捉える見解とがありますが、いずれにせよユネスコから消滅危機言語に指定されており、本気で語学留学に行こうかと思ったこともある平野としてはたいへん心配しています。

*5:温泉地として有名な南ドイツのバーデン・バーデンのように全裸入浴が可能なスパも一部にあります。ちなみに「バーデン・バーデン(Baden-Baden)」とは直訳すると「温泉・温泉」です。どんだけ温泉やねん。

*6:現代イタリアを代表する作家(1943〜2012)。代表作に『イタリア広場』『インド夜想曲』ほか多数。ポルトガル文学、特に詩人のフェルナンド・ペソアに心酔していたことでも知られ、ポルトガル語の著作もある。

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur