1990年にドイツから来日、出家して禅修行を始め、安泰寺の住職も務めたネルケ無方さんが、「世界における日本の禅」をテーマに執筆するエッセイ連載「ネルケ無方の世界禅道場」。第2回では、日本でのホームステイの思い出や当時の日本語勉強法などを振り返ります。
目次
禅修行の下見に、いざ日本へ!
第1回では、私が禅と出合ったときのエピソードを紹介しました。
16歳のころから鈴木大拙(すずきだいせつ)の本を愛読していた私は、「高校卒業とともに日本に渡って禅僧になりたい」という夢を持つようになりました。日本のお寺に入門すれば、毎日坐禅ばかりし、悟った師匠の下で自分の問題を解決できるはずだ、と思っていたからです。
私を初めての坐禅に誘ったドイツの高校の先生にこの「人生計画」を語ると、あれだけ私の背中を押していた先生が急に責任を感じたのか、なんと「ちょっと待って!」と私の熱意に水を差したのです。
「将来、日本に渡って現場で禅を学ぶのもいいプランだが、まずは大学に進んでそこで日本学でも勉強してからはどうだ?大学を卒業してからでも、遅くはないだろう」
再びこの先生にだまされて、私は大学に進学することに決めました。ところが、ドイツの高校は卒業が6月頃のため、大学に入学できるのは早くても10月なのです。
そのため、それまでの3カ月間は観光ビザを使って、下見のつもりで日本に向かいました。時代は1987年、昭和の最後の頃でした。
当時は日本までやって来る目の青い外国人はまだほとんどおらず、日本人も今のように簡単に外国に行ける時代ではなかったので、成田空港に着くなり、知らない人々から「どこから来たの?」「どこへ向かうの?」「日本の印象は?」と質問攻めにあいました。
宇都宮でのホームステイは「お互いにがっかり」?
向かったのは栃木県の宇都宮市で、ホームステイ先は、なんと日本で数少ないクリスチャンの家族でした。彼らは、「ルターの国であるドイツから来た青年に、キリスト教の話を聞いてみたい」と思っていたらしいのです。
私はむしろ禅のことを聞きたいと思って日本に来ていたので、お互いにがっかりしていたと思います。
鈴木大拙の本には、禅は宗教というより日本人の生き方であり、日本文化そのものが禅だ、といったことが書いてあったので、私はホームステイ先のお父さんに「尺八の音を聞いてみたい」とお願いしてみることにしました。尺八を聞けば、禅の意味がより深く理解できるのではないか、と考えていたからです。
それを聞いたお父さんが、「青年よ、よく聞きなさい。これこそ本物の音楽だ!」と言いながらレコードプレーヤーで流したのは、あのベートーヴェンの「第九」(交響曲第9番)だったのです!
坐禅がしたい!ヒッチハイクで京都へ
2カ月ほど宇都宮市で過ごして、地元のお寺も観光しましたが、なかなか坐禅をさせてくれるようなお坊さんに巡り合うことはありませんでした。そこである日、思い立って段ボールにへたくそな漢字で「京都方面」と書いて、高速道路の入り口に立ちました。
そして待つことしばらく、トラックの運転士さんに「英会話の相手になってくれるなら」という条件で拾われ、京都まで助手席に乗せてもらいました。
京都には禅の名刹(めいさつ)が数多くあります。拝観料を払って、金閣寺や銀閣寺、あるいは有名な龍安寺の石庭などを見ましたが、どこのお寺でも、「坐禅がしたい!」とお願いすると門前払いをされてしまいました。
当時の私はまだ日本語もほとんど話せていない、どこの馬の骨かわからない青年でしたから、これも致し方ないと諦めました。まず大学で日本語をしっかり学んでから出直そうと思い、その年の秋にドイツに帰国し、まだ壁で囲まれていた西ベルリンのベルリン自由大学に入学しました。この大学を選んだのは、ドイツでは数の少ない、「日本学科」を設けている大学の一つだったからです。
ドイツの大学で教わった、ユニークな「日本」
当時、この学科の教授はたった2人しかいませんでした。
1人は日本経済についての専門家だった韓国のおじさん(失礼、先生!)でしたが、その授業は高い人気を誇っていました。『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』や『マンガ日本経済入門』といった書物が欧米でもベストセラーとなった当時、21世紀は日本式経営の時代になるのではと言われていました。
もう1人の教授は森鴎外や太宰治、宮沢賢治の大ファンで、漢文もすらすら読めるご年配の女史でした。ただ、戦後間もない頃に大学生活を送っていたため留学の機会に恵まれず、スピーキングという点では、日本語の日常会話にほとんど付いていけないようでした。
経済のことはもちろん、漫画やアニメに代表されるような近年の日本文化にも疎かったためか、彼女のゼミはすこぶる不人気で、私のほかに学生はほとんど来ませんでした。しかしその分、私の好きな禅の話にもよく付き合ってもらえました。
肝心な日本語指導を受け持ってくれたのは、学生運動の果てにドイツに流れ着いたらしい、40代半ばの日本人の非常勤講師でした。チェ・ゲバラを意識してか、あまりよく似合わないひげを生やしていて、髪の毛もぼさぼさでした。この先生から最初に覚えた単語は、日本でもはや仕事と化していた「春闘」でした。
こうした3人の先生のもとで学んだ私の日本学は、松下幸之助と『雨ニモマケズ』と「赤旗」を足して3で割ったような内容でした。
日本語を学んだテキストは、まさかの・・・
それだけでは日本では通用しないだろうと思い、ベルリンで日本語を教えてくれる日本人学生を探しました。当時、大学で外国語を学んでいるドイツ人や、ドイツに来ていた外国人の多くが、「ランゲージ・エクスチェンジ」を実践していたのです。
週に何度か会い、コーヒーを飲みながら1時間ほどドイツ語で会話をし、その後に1時間ほど外国語で会話をするという勉強法です。インターネットのなかった時代、これは互いの言語を学ぶためにいちばん実用的な方法だったのです。
見付かった言語交流の相手は、ドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデ著の『モモ』にあこがれてドイツにやって来た、若い日本人女性でした。2人で学びながら、ドイツ語ネイティブスピーカーとしてなんの疑問も持っていなかった自分の言語の不思議さに気付くことがたびたびありました。
例えば、ドイツ語を習うときにややこしいのは、男性名詞、女性名詞と中性名詞の正しい使い分けです。「ナイフ(das Messer)が中性名詞、スプーン(der Loffel)は男性名詞。それなのに、フォーク (die Gabel)だけ女性名詞なのはどうして?」という彼女のもっともな質問に、私は答えられませんでした。結論から申し上げますと、理由なんてありません!
続いて日本語で話す時間がきて、私がおもむろに日本で入手した道元(どうげん)著の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をカバンから出し、「これをテキストに勉強したい」と言うと、彼女はびっくり仰天して言いました。「なにそれ、人の名前?『マサノリメクラ』・・・?」
このように、私は時には楽しく、時にはあほらしく、日本での修行生活を夢見ながら辞書を引き、道元の世界をひも解いていきました。
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