「美術が好き!」「英語が好き!」という方にとって、展覧会関連の翻訳などを手掛けるアート翻訳者はとても魅力的な仕事の一つではないでしょうか。連載「『アート翻訳者』になる!」(全6回)では、アート翻訳をはじめさまざまな専門翻訳を行うトライベクトル株式会社のご担当者に、アート翻訳者になるための方法、アート翻訳の重要性や現状、将来などを教えていただきます。第1回は、アート翻訳者の需要と具体的な仕事内容です。
アート翻訳には常に一定の需要がある
読者の皆さんは、きっと長年語学に取り組んできた方々ばかりでしょう。英語であれば、幼児の頃から英会話を習ってきたかもしれませんし、さまざまな知育関連の講座やクラブで英語に初めて触れた方もいらっしゃると思います。そして、今こうして「ENGLISH JOURNAL ONLINE」のプレミアムメンバーシップに登録し本記事を読んでいるということは、単に英語を学ぶということだけでなく、「英語を『職業』にしたい」「英語を使って仕事がしたい」と考えていらっしゃるに違いありません。そして選択肢の一つとして、翻訳者になりたいとお考えかもしれません。
翻訳にも多くの分野があります。 通信講座などでは、「稼げる」翻訳として医薬分野が人気 です。また、「英文公認会計士」などの英語で 金融・会計を扱う専門職も古くから需要が高い分野 です。情報化社会への移行、そして成熟の結果、不足しているIT技術者とともに、 英語でIT関連の業務ができる人材も必要とされています 。特にセキュリティー技術やビッグデータ、クラウド関連の情報量は大変多く、翻訳の需要も高いと言えます。
一昔前、ITバブルがピークを迎えていた頃は、翻訳業界でも当然のように「ITこそ翻訳者の必須科目」と目されていました。多くの翻訳会社が「IT特化」を打ち出し、ほかの分野を縮小したり切り捨てたりしました。その後ITバブルの終息やITのいっそうの普及が進み、かつてのようなITブームは翻訳業界でも見られなくなりました。ITに特化した翻訳会社は再び戦略の立て直しを迫られています。
医薬、金融、ITといった、翻訳業界の看板分野の陰で、脈々と存続してきた分野の一つが、今回の連載のテーマである「アート」です。「アート翻訳者」という職業が広く認知されているかどうかは別として、 アート分野の翻訳は常に一定の需要があり、優秀な人材が確かに必要とされています 。
具体的にはどんな仕事?
では、 アート翻訳者は実際にどんなものを翻訳しているのでしょうか 。
美術館を訪れたときのことを考えていただくとわかりやすいと思います。入り口には、たいてい 館内案内、パンフレット が置かれています。これらを翻訳し、各国語版を作ります。
展覧会入り口に掲げられている「ごあいさつ」 も翻訳します。また、展覧会の各セクションの入り口に、その セクションの概要を説明した文章 が展示されていたりしますが、そうした展示物のための翻訳があります。 各作品の側に設置する作品名 も翻訳します。
そして、これらは展覧会の公式図録にも適用されます。公式図録には、その 展覧会の主意やコンセプト、開催の経緯 が載ります。また 美術関係者の寄稿文、論文、展示解説 なども掲載されます。これらの図録に載る資料は、単なる記念品ではなく、展覧会の質を物語る重要なアイテムです。図録は、国内外の美術館との間でやりとりされるため、公式に保存され、最近ではデータベースにも登録されます。愛好家だけでなく、研究者の目にも留まるので、極めて重要な翻訳と言えます。
プレス向けに出される プレスリリース も翻訳します。
また、 美術館や博物館の発行する紀要や研究発表 の翻訳もあります。これらはあまり多くの人の目には触れないものの、たいてい極めて専門的で国際的にも流通するため、「日本を代表して翻訳する」くらいの意気込みで翻訳しなければなりません。
また、最近では、 音声ガイド を備える施設が増えました。所蔵する主な作品の解説、建築や庭園の案内、作家や創設者に関するエピソードなどを、わかりやすく簡潔な言葉で翻訳し収録する必要があります。この音声解説の翻訳も最近非常に多くなっています。
展覧会以外では、 各館の Web サイトや作品データベース の翻訳があります。美術館以外では、 伝統工芸の団体や業界の Web サイト も翻訳しています。これらは海外に日本の伝統工芸を発信していくための重要な経路になりますので、翻訳にも万全を期します。実際に作品売買を行っているサイトもあり、下手な訳文では購入率などに影響を与えることになります。
さらに、 企業のメセナ活動(芸術文化支援)の報告や国際交流のための翻訳 もあります。
もう一つ大事なのが、日本のアーティストが海外に出展する際に必要になる 「アーティストステートメント」(作家紹介、作品解説) です。海外の芸術祭や展覧会に出品するためのドキュメントは非常に大切で、ここできちんとしたコミュニケーションができないと、後の活動がスムースに進まなくなってしまうケースも少なくありません。
これらは日本のアートを世界に発信するという大きな夢のためにも、欠かせない翻訳と言えます。
今後のアート翻訳の需要はどうなる?
言語は 圧倒的に日本語から英語への翻訳が多い と言えます。最近では、英語のほかに、中国語、韓国語へ翻訳するシーンが増えてきました。
一昔前、翻訳の業界でも、「アートはお金にならない」と言われるのが普通でした。また、もっと昔から、この分野の翻訳は、大学の先生や研究者など、美術専門家の方々が担っていました。しかし彼らはその分野の知識はありますが、翻訳のプロではありません。どうしても片手間になってしまったり、アート翻訳を正しく伝えるという点においては時間が足りなかったりということがあります。
そもそも「アート翻訳者」の立場や地位そのものがそれほど認められていなかったということも言えます。しかし、長い年月を経て、ここ10年くらいで状況は変化しており、 徐々に需要が高まってきています 。
なぜなら、まずアートを取り巻く環境が変わりつつあるからです。「金持ちの道楽」「一部の愛好家の趣味」のように見られてきたアートは、今や「お金になる」、言い換えると、 「経済と強く結び付いている」 ということが理解されるようになりました。地域芸術祭や観光と結び付いたアートフェスティバルなどが増え、地元にもたらされる経済効果には目を見張るものがあります。大規模な美術展は入場料や記念品、関連グッズ、関連イベントも含めると億単位のお金が動きます。
最近「アート志向」という言葉もよく聞かれるようになりました。「膨大なデータを分析 し、顧客や社会のニーズを正確に予測してヒット商品を生み出す」という、これまでもてはやされてきたサイエンス志向が行き渡った結果、誰でも「正解」を導きやすくなったため、もはやテクノロジーだけでは商品もサービスも差別化ができなくなっています。それに代わるのが「アート志向」です。
つまり、 直感や美的感覚を重んじ、誰にもまねできない世界観が必要とされ、その源泉になるのがアートによって培われた感性である 、という考え方です。
日本でも、「スペックや性能が高ければ売れる」という時代は終わり、商品の持つストーリー、それを持つことによってどんな自分を表現するか、ということが意識されるようになりつつあります。こうした感性を養うのにアートが肝要ということが言われるようになり、ニューヨークやロンドンのエリートの間では、MBA講座に通うのと同じかそれ以上に、有名な美術館のツアーやセミナーに参加することが流行しているとも言われています。
このように、これまで一部のコアな美術ファンの中にとどまっていたアートが、もう少し広い範囲の人々に開かれてきていると言ってよいかと思います。誰もが一定のアートの知識を教養として持つ――という時代が近づいているのかもしれません。
これに折からのインバウンドブームが加わりました。コロナ禍で海外からの観光客は一時的に減ってしまいましたが、一般的に言って、欧米人は日本人よりも美術館や博物館に親しんでいるため、観光先でも気軽に美術館や博物館を訪れます。
日本庭園などの日本らしさを感じるスポットでは、時間をかけて瞑想する外国人の姿をよく目にします。政府も、美術館や博物館を観光資源として活用する方向性を打ち出しており、施設案内などの表記を外国語で整備する施策を観光庁などが中心となって進めています。
よく言われるように、日本への旅行が「モノ消費」(商品所有型)から「コト消費」(体験重視型)に変わっていくと、日本の随所にあるユニークな国公私立美術館や博物館にさらに注目が集まるようになるかもしれません。そうなると、 アート翻訳者の出番はもっともっと増えることでしょう 。
次回は、「アート翻訳者になる方法」を解説します。
第2回記事はこちら!
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