時代を経て読み継がれる文学の名作には、「今」を生きるためのヒントやテーマが潜んでいます。この連載「現代的な視点で読み解く アクチュアルな英語文学」では、英文学と医学史がご専門の上智大学教授である小川公代さんが、主に18世紀以降のイギリス文学から今日的な課題を探ります。第1回は、 メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』 です。 ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが主演したナショナル・シアター・ライブの舞台 から浮かび上がる原作の主題と新たな視点とは?
クリーチャーとフランケンシュタインを交互に演じる舞台
コロナ禍のステイホーム・ムーブメントの一環として、 ナショナル・シアター・ライブ (National Theatre Live、以後NT)は今年4月から、これまでの人気作品をYouTubeで次々と期間限定配信している。
その恩恵にあずかり、日本でも2011年制作の NT版『フランケンシュタイン』 をオンラインで観劇できた人々は多いだろう。おなじみの「怪物」像はといえば、独創的な脚本と、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーの競演によって、このNT版では大きな改変が加えられた。
主人公がさまざまな体験を経て、内面的に成長するプロセスを描くジャンルを「教養小説」というが、まさに被造物クリーチャーの教養小説とも言える内容になっている。言葉を発しない愚鈍なイメージとはまったく違う。クリーチャーが言語の技術や身体能力を獲得していく過程が生き生きと表現されており、作者メアリー・シェリーが生きた啓蒙時代に書かれた原作小説の核心に迫ったアダプテーションに仕上がっていると言える。
また、このNT版は主演の2人が互いにクリーチャー役と彼を生み出したヴィクター・フランケンシュタイン役を入れ替えて演技したことでも話題だが、それによって互いに「触発し合い」、舞台の魅力を存分に引き出している。
1. 怪物からクリーチャーへ
シェリーの原作『フランケンシュタイン』(原題:Frankenstein、1818年)では、科学の力で創造された被造物は「クリーチャー」と呼ばれている。 にもかかわらず 、なかなかその呼び名は流通しない。ジェームズ・ホエール監督の映画版に登場する、言葉を話さない、首にボルトがはめられた強烈な怪物(モンスター)のイメージと「フランケンシュタイン」というタイトルが結び付き、「怪物=フランケンシュタイン」という誤解すら生じている。
そもそも 、科学の力で誕生した「クリーチャー」には名前がない。クリーチャーを誕生させたいわば「親」であるヴィクター・フランケンシュタインが、彼に名前を付ける前に逃げてしまうからだ。シェリーのクリーチャーはどちらかというと「怪物」なのではなく、知性と感受性を与えられた、人間以上に人間的な存在である。
シェリーの原作でおそらく最も雄弁に語られるのは「教育」の重要性についてである。科学者がクリーチャーの頭蓋骨に埋め込んだ「脳」は肉体の動かし方をすでに潜在的に「知って」いた。しかし、死体の部位をつなぎ合わせて創造した身体はその脳からの指令にうまく反応することがなかなかできない。
そこで、NT版『フランケンシュタイン』の主役をはる2人は、「脳」が継ぎ接ぎの肉体を再教育(リハビリテーション)しようとしても すぐに は思いどおりにならず、もがき続けるプロセスを見事に表現している。クリーチャーのこの奮闘場面を冒頭でいきなり目の当たりにするわれわれ観客は、真の意味で「創造」場面に立ち会うことになる。
カンバーバッチはNTインタビューで、脳の指令になかなか従えない「機能不全の肉体」を想像しながら演じ方を工夫したと答えている。2人のクリーチャー誕生場面の演技は真に迫っている。身体は生まれたての赤ん坊のように自由に動かないながらも、脳はそれができることを知っており、だからこそ「早く立ちたい」「歩きたい」という焦りを、手足をばたつかせながら表現するのである。
そういう意味で、NT版、つまりニック・ディア脚本の『フランケンシュタイン』は、イギリスの哲学者であるジョン・ロックの人間観に基づくシェリーの思想を強く押し出したものになっている。なぜなら、潜在的には成人の脳を持ちながらも、実際には「タビュラ・ラサ(真っ白な紙)」の状態で誕生し、感覚器官を通して少しずつ「知」を蓄積していく脳を主眼とするロックの経験主義と符合するからだ。すべての知は経験から生まれるため、キリスト教世界において人間が生まれつき宿命付けられている「原罪( original sin)」というものがない。
ジョン・ミルトンによる『楽園喪失』(原題:Paradise Lost、1667年)は、聖書の『創世記』をモチーフに書かれた壮大な叙事詩であるが、『フランケンシュタイン』の原作者であるシェリーがこのミルトンの物語を下敷きにして書いたことをニック・ディアはかなり強く意識している。神に反逆して追放された堕天使ルシファー(悪魔)が人間への嫉妬から、彼らに神の禁を破って知恵の木の実を食べるよう促し、その誘惑にあらがえなかったアダムとイヴはその罪のためにエデンの園を追放されるという物語である。
これを「原罪」というが、この考えに基づくキリスト教的な人間観とは異なり、ロックも、ひいてはシェリーも、人間は「真っ白な紙」の状態、あるいは無垢(むく)なまま生み出されるという経験主義的思想を掲げていた。ロックの『人間知性論』(1689年)は、シェリーの時代の知的階層の人なら必ず読んだであろう書物である。感覚器官を介して外界や環境からの刺激を受けた結果、新たに獲得する認識によって自己が変容していくという考え方が詳述されている。
おそらくこの舞台で最も実験的だったのは、科学者とクリーチャー役を交換することだが、それによって生じた思いがけない効果をわれわれ観客は目の当たりにすることになる。ジョニー・リー・ミラーがNTインタビューで「科学者役をしていても、クリーチャーの癖を多少引きずりながら演じた」と答えているように、互いに似てきてしまう現象が起こっていたようだ。何度もリハーサルをしているうちに、それぞれのキャラクターが近しいものになっていったのだろう。
それによって、感情の高ぶりも伝染し合い、科学者はクリーチャーを、またクリーチャーは科学者をよりよく「知る」ということを実践的に舞台で表現できていた。それは、長年シェリー研究者に 指摘 されてきたような、原作に秘められた「分身(Doppelganger)」というテーマを見事に体現する舞台にもつながった。
2. ミルトンのアダム、またはサタン
シェリーはどの登場人物を罪深い「アダム」あるいは「イヴ」に例えたのだろうか。
この問いはそのままNT版の『フランケンシュタイン』にも引き継がれており、アダムとイヴの「原罪」のモチーフはかえって濃厚さを増している。シェリーは、キリスト教的な原罪の言説にあらがう存在としてのリベラルなクリーチャーを描き、知恵の実を食べるアダムと、科学の知識に没頭するヴィクター・フランケンシュタインのイメージを重ねた。もちろん、クリーチャーが「親」であるヴィクターに捨てられて、報復のために犯す殺人の罪もこの「原罪」のテーマに連なっている。
この舞台の最大の魅力は、このミルトン的な「楽園(paradise)」を前景化するだけでなく、多層的な解釈をうまくちりばめて芸術的に表現していることであろう。
例えば、この舞台の冒頭場面は、探検隊の隊長であるウォルターが北極で出会ったヴィクターについてつづる手紙で始まる原作とは違っている。電気と有機物が合体したような装置から「生まれる」クリーチャーの誕生場面から始まり、続いてそのおぞましい姿を見た科学者がクリーチャーを置き去りにして逃げてしまう場面へと移行する。その後、クリーチャーは森の中で、庇護(ひご)者もいず、言葉も話せない状態で、一人生き残るすべを一から学んでいくのだ。そこで、彼は感動的な場面に遭遇する。太陽が昇り、小鳥がさえずり、雨が降る。
『楽園喪失』の「無垢( innocence )」と「罪(sin)」の二項対立で言うと、ロックのタビュラ・ラサはある意味で前者の世俗的な再解釈である。無垢の状態からスタートするクリーチャーは、視覚から光を、聴覚から音を、さまざまな刺激を感覚器官から感受し、認識を積み上げていき、人間のような生き物として成長していく。赤ん坊や幼児にも「初めて光を目にする瞬間」「初めて水に触れる瞬間」「初めて熱さを知る瞬間」などがあるが、クリーチャーも「太陽の光」「水」「火の熱さ」などの知覚(sensation)を一つずつ理解し、「教育」のプロセスを経る。その過程で恍惚(こうこつ)感を味わうクリーチャーを、ミラーもカンバーバッチも全身で表現し、観客に伝えた。どちらが優れているのか、甲乙付け難いほどである。
その後、クリーチャーはドレイシー家が住む小屋を見つけ、そこで盲目の老人と親交を深める。老人の息子のフィリックス、そしてその妻の美しいアガサに自分の醜い姿を見られることを避けつつ、言葉を通じて盲目の老人からさまざまな知を獲得していく。世界のこと、戦争のこと、人が憎しみ合うこと、音楽のこと、そしてミルトンの『楽園喪失』の壮大な物語についても知る。なぜルシファー(サタン)は、あるいはアダムは、神に追放されたのか。あふれんばかりの生命エネルギーや生き物に対する愛に満ちあふれていた「無垢」の段階を経て、クリーチャー自身は少しずつ知を体得し、言葉を知る。
原作にない場面として、クリーチャーの「夢」のシークエンスが挿入されるのも、知恵の実を食べるアダムとイヴがそれまでの無垢の状態ではいられなくなってしまうことの暗示なのだろう。クリーチャーは自分の将来のパートナーとなる女性クリーチャーの「夢」を見る。この場面は、幻想的で奇妙にも切ない場面に仕上がっている。この「夢」が物語後半でクリーチャーを突き動かす原動力となる。ヴィクターは、クリーチャーが夢にまで見た女性パートナーを創造するにはしたが、恐ろしくなってその被造物を破壊してしまうのだ。そこからがクリーチャーの復讐劇の始まりである。
ディアのアダプテーションは、人間に迫害され、心が疲弊していくプロセスを、「無垢」から「楽園追放」の運命をたどるプロセスになぞらえている。
クリーチャーは、それまでこっそり薪を割ったり、荒地の小石を全部取り除いたりと、ドレイシー家のために尽くしてきたのだが、それを知らないフィリックスとアガサはクリーチャーの姿を一目見ただけで、罵倒し、追い払ってしまう。老人が奏でた美しい音楽、美しい詩の言葉の響き、自分を人間と変わらず大切にしてくれた老人との日々が「楽園」だったならば、フィリックスとアガサによる仕打ちは、クリーチャーの「楽園追放」に等しい行為であった。原作でもやはりこの同じ場面で、クリーチャーの心は深く傷つけられる。
3. #MeToo――アダプテーションの創造性
この舞台が原作の小説と大きく異なる点は、ヴィクターの婚約者エリザベス・ラヴェンザが放つ存在感であろう。
ヴィクターの弟ウィリアムがクリーチャーによって殺害される場面は、原作では「すでに行われた行為として」語られるが、舞台では、クリーチャーとウィリアムの間で交わされたであろう会話が再現されている。そして、ウィリアム誘拐時に彼とかくれんぼをして遊んでいたエリザベスは、ヴィクターの弟がいなくなった経緯を自分の口で説明している。
また、ヴィクターが自室にこもって行う科学実験に彼女自身も関心を示すのだが、彼が「それは女性の範疇(はんちゅう)を超えている」と女性差別的な言葉を発するとき、「私があなたよりも知性が低いとおっしゃるの?」と挑戦的な態度を取る。さらに、ヴィクターがスコットランドに科学の研究に出発する前に彼が「ボルタの電堆(でんたい)」について言及すると、エリザベスも一緒に連れていってほしいと懇願する。
エリザベス役を好演するのは、ジェームズ・ボンド・シリーズでイギリス情報局秘密情報部(MI6)の長官の秘書イヴ役を演じているナオミ・ハリスである。母親がジャマイカ出身の移民であるハリスは、人種、セクシュアリティーがテーマの映画『ムーンライト』でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされている。また、彼女はケンブリッジ大学出身で、この好奇心あふれるエリザベスのキャラクーがはまり役だ。
エリザベスの「世界をもっと知りたい」という知的好奇心に対して、ヴィクターが「君は美しい」と答えるときも、女性は男性の性的欲望の対象であるという先入観が浮かび上がる。エリザベスはそれに対して怒りをあらわにする。「ヴィクター!あなたは私をいったいなんだと思っているの?標本か何か?」と詰め寄るのだ。原作では一貫して受動的で、最後にはクリーチャーの餌食になってしまうエリザベスとはまるで違う。
NT版の新しい解釈では、「性被害」にも切り込んでいる。
クリーチャーが犯す罪の一つにエリザベス殺害があるのだが、NT版ではそれにレイプが加わっている。ある意味では、「#MeToo」をほうふつとさせる場面が盛り込まれる。クリーチャーに哀れみの気持ちを示すエリザベスが非道にもレイプされ、殺害されるのだ。しかも、舞台上でその行為の一部始終を見せている。ディアが#MeTooを意識したのか、しなかったのかは議論の余地があるとしても、くしくもアクチュアルな問題を浮かび上がらせる演出になっている。
もちろん、「怪物」=ハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力の問題が全世界の人々を震撼(しんかん)させるのは2017年だが、性暴力被害者支援の草の根活動としての#MeTooの活動は2007年から始まっていた。2006年に若年黒人女性を支援する非営利団体「Just Be Inc.」を設立したアメリカの市民活動家タラナ・バークが、家庭内で性虐待を受ける少女から相談されたことが きっかけ で活動を開始している。このことを踏まえても、ディアが脚本を書いていた頃、社会の底流になっていた性被害の問題を意識的に演出に加えたとしても不思議ではない。
クリーチャーがヴィクターと 取引 する場面はかなり原作に忠実だが、ここでもやはりクリーチャーのセリフに『楽園喪失』からの引用を挿入するなどして、観客にミルトン、あるいは『創世記』の系譜を印象付ける。
「私はアダムであるべきだ。神はアダムを誇りに思っていた」と言うクリーチャーは、エリザベスをレイプする加害者でもあり、創造主であるヴィクターに見捨てられた被害者でもある。この両義性こそ、シェリーが小説に描き出した人間の本性でもあるのだ。アダムとイヴの「原罪」、フランケンシュタインの科学の力による神への冒涜(ぼうとく)的行為、クリーチャーによる性暴力や殺人という3つの罪深い行為がパラレルになっている。
また、原作でも主題化される「教育」の再 強化 も重要なポイントである。アルプスの山でフランケンシュタインがクリーチャーに再会して最も驚いたのが、言葉を雄弁に話せるようになっていたことだ。フランケンシュタインは思わず「おまえは教育を受けている(You are educated !)」 と声を上げている。
結び
NT版において、「教育」によって得られるのは言葉だけではない。クリーチャーは『楽園喪失』でミルトンが強調する「自由」という概念も学び、創造主の奴隷であることを自由意志によってやめることを宣言する(I am not a slave. I am free!)。このようにクリーチャーはミルトン的な「自由」と「愛」のテーマを語ることで、ヴィクターに、クリーチャーの生涯のパートナーになり得る女性クリーチャーを創造することを約束させる。最終的にその約束は破られてしまうが、それがクリーチャーの復讐魂に火を付けることになる。
「罪」というテーマに最も結び付いているのがクリーチャーであることを考えても、彼は「アダム」――あるいは最初にサタンの誘惑に屈服した「イヴ」――に近い存在だ。あるいは、サタンそのものを表象しているの かもしれない 。先述したように、ウィリアムが殺害され、エリザベスがレイプされて殺されたために、今度はヴィクターがクリーチャーに復讐するという 展開 は、罪の起源(原罪)を決定論的に考えることを、意識的に回避しているとも受け取れる。ロック的な環境決定論が、原作でも、またこの舞台でも、比較的支配的な思想としてあるのだ。
最後の場面で、クリーチャーほどの強靭(きょうじん)な肉体を持たないヴィクターは、北極で力尽きてしまう。彼の命が尽きようとしているそのとき、クリーチャーは初めて、本当に愛していたのは自分を創造した父であり母でもあるヴィクターであったことに気付く。こうして観客は、クリーチャーが「無垢」の状態から「経験」を経ることで、「罪」や「怨恨(えんこん)」が生まれてしまう、そういう人間の悲劇の映し鏡になっているという気付きに至る。
だからこそ、この新たなフランケンシュタイン物語からは「教養小説」を模しているという印象を受ける。 ただし 、人間の闇の部分をあらわにするという意味で、「ゴシック」な教養小説である。ちょうどメアリ・シェリーの父、ウィリアム・ゴドウィンが書いたゴシック小説『ケイレブ・ウィリアムズ』がそうであるように。
NT版の舞台の結末は観客にどのような感情をかき立てるのだろうか――この舞台自体がまるで壮大な実験のようになっているようにも感じる。
参考文献
■Nick Dear, Frankenstein based on the novel by Mary Shelley (London: Faber and Faber, 2011)
小川公代(おがわ きみよ) 上智大学外国語学部教授。英国ケンブリッジ大学卒業(政治社会学専攻)。英国グラスゴー大学博士号取得(英文学専攻)。専門は、イギリスを中心とする近代小説。共(編)著に『 幻想と怪奇の英文学IV 』(春風社、2020年)、『 Johnson in Japan 』(Bucknell University Press, 2020)、『 文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容 』(春風社、2017年)、『 ジェイン・オースティン研究の今 』(彩流社、2017年)、『 文学理論をひらく 』(北樹出版、2014年)、『 イギリス文学入門 』(三修社、2014年)など。
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