ENGLISH JOURNAL ONLINE

翻訳は創造する──異質さを肯定する翻訳の力【翻訳を哲学する】

翻訳を哲学する

翻訳は原作に対して二次的で付随的なものだとみなされることも多いですが、実際にはそれは単なる模倣ではなく、新しい言語を生み出す創造的な営みでもあります。この連載では、哲学がご専門の柿木伸之さんと一緒に、「翻訳」について深く考えていきましょう。

▼第1回の記事はこちら

ej.alc.co.jp

翻訳の一次性

人は他者たちのあいだに生まれ落ちる。その後、別の他者たちに遭遇することによって、その人の生が形づくられていくのであり、出会った他者との関係は、人が誰かとして社会のなかに生きることを可能にしている。そして人は、他者たちのあいだでのみ、他ならぬその人として死を迎えられる。そのように人が誕生から最期まで他者とともにあることを、それどころか独りでは自分であることすら不可能であることを、アーレント(Hannah Arendt, 1906–75)は人間の「複数性」と呼ぶ。彼女の主著の一つである『人間の条件』(1958年)によると、複数性とは、人間が地上に生きるための基本的な条件の一つである。

人間の複数性。それは何よりもまず、それぞれが──もしかすると「人間」の観念をも越えるかたちで──異なっていることを意味する。異質な者たちのあいだに言葉を交わし合う関係が築かれて初めて、脆(もろ)い人間の生存を支える人々の共同性が生まれ、世界の現実性が確かなものとなる。人が他者とともに生きる世界は、複数の見方が照らし合わされるなかで分かち合われるのだ。そこへ向けて人は、言葉をもって他者に働きかける。アーレントによれば、これが複数性という人間の条件に応じた活動としての「行為」である。

この行為に必ず伴う言葉──言葉が伴っていなければ、行為は剝(む)き出しの暴力と化してしまう──は、異質さの肯定のなかから発せられることになろう。逆に、言葉が同類のあいだの意思疎通の道具と化してしまうと、言葉で分かち合われる世界が現実性を失い、人々はかえって孤立するとアーレントは述べているが、このような洞察には、情報伝達の手段であることを越えた言語の創造性を見いだしたベンヤミンの思考も反響しているはずだ。ちなみに、ユダヤ人だったアーレントは、1933年にナチスが政権を握ったドイツから逃れ、亡命先のフランスでベンヤミンと深い親交を結んだ。

ともあれ、行為に随伴する言葉が、他者の肯定にもとづいて、異質な者たちのあいだに回路を開くことへ向けて発せられるとすれば、そこにはローゼンツヴァイクの言う「舌と舌のあいだに橋を架ける」翻訳が、最初から含まれていることになろう。だとすると、翻訳は、「外国語」を解しない者のための二次的な補助手段ではありえない。むしろ他者たちのあいだで言葉を発することにとって第一次的な営為である。だからこそベンヤミンは、地上の世界での発語を貫くものとして翻訳を捉え、これを「言語理論の最深の層に基礎づけること」を要請したのだ。

作品の潜在力を歴史のうちに解き放つ翻訳

発語そのものとしての翻訳の出発点にある異質さの肯定。これを仲間内での「コミュニケーション・ツール」と化した言語に思い起こさせるために、ベンヤミンは、「翻訳者の課題」において翻訳の「逐語性」を要求した。他言語で書かれた詩的な作品の翻訳は、言葉遣いの細部に至るまで原作に付き従わなければならない。翻訳は、原作の言葉にどこまでも忠実である一方で、翻訳者の言語で理解される意味に関しては、自由である必要がある。言語が錯乱を起こすまでに原作の言葉への愛に身を捧(ささ)げるような「忠実と自由」こそ、ベンヤミンにとっては詩的な作品の翻訳の法則なのである。

そうすると翻訳は、原作に対して従属的であるように見える。インド出身の思想家スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak, 1942–)も、ベンガル語の文学作品を英語へ翻訳した経験を踏まえつつ、翻訳するとは、原作への愛とともにそのテクストに服することだと述べている。しかし、逐語的な翻訳によって初めて、作品に独特の言葉遣いと、それを媒体として語られることが響きだすとすれば、翻訳にはやはり存在意義があることになる。自身のドイツ語訳によるボードレールの詩の選集の序文として「翻訳者の課題」を公刊するベンヤミンの身ぶり自体、翻訳独自の存在意義を主張するものと言える。

この翻訳論によると、翻訳は、原作の文字としての「残存」から出発する。翻訳者の前にあるのは、原作が書かれた時代からも、その言語の文脈からも引き離された姿である。それに沈潜することで翻訳は、原作が痕跡と化した後にこそ語りかけるものを、別の言語のうちに聴き出す。そうすることで、原作の「死後の存続」の一段階を記すのが、翻訳の第一の役目であるとベンヤミンは論じている。翻訳においてこそ、原作の「死後の生」が新たに繰り広げられるのだ。では、翻訳はどのようにして、原作が変容し続けていることを証言できるのだろうか。

「翻訳者の課題」のなかでベンヤミンは、「書き記された言葉にも追熟というものがある」と述べている。時を経るなかで、作品の言葉遣いが古風な印象を与えるようになることがあるだろうし、作品の読みが積み重ねられるなら、そのような言葉遣いにならざるをえなかった理由も考えられるようになるはずだ。そのことを踏まえて、原作の誕生から時を隔てて初めてその言葉が語り始めるものを、別の言語で反響させるのが、「他言語の言葉の追熟に注意を払う」翻訳である。こうして原作の言葉の歴史的な変容を証言することは、原作の精細な検討を前提としている。

この点で翻訳は同時に批評でもあるわけだが、その批評は、今あえてベンヤミンの議論の文脈を越えて言えば、原作が書かれた当時、それが置かれた社会的文脈、とりわけ作者のジェンダーや階層を規定するような社会的関係によって抑圧されてきた苦悩や欲望を原作の言葉から聴き出し、別の言語のうちに解き放つ試みでもあるにちがいない。あるいは、作者の「母語」の内部での──例えば、その言語の文化の象徴に祭り上げるような──受容の歴史が抑圧してきた作品の潜在力も、批評的な翻訳によってこそ解放されうるはずである。

そのような翻訳によって、原作の言葉をさらに多重な意味を放つものとして響かせ、作品そのものをさらなる読みに開かれたものとして出現させることができる。こうして原作の「死後の生」が、翻訳において展開するにちがいない。原作が、新たに読むことを要求する作品へ生まれ変わるのだ。このことは、翻訳の言語によって飼い馴(な)らされることのない強度において作品が出現することも意味するはずである。スピヴァクは、マイナーな言語で書かれた作品を、英語のようなメジャーな言語へ翻訳する際に、原作が翻訳の言語に同化させられるのに立ち向かわなければならないとも述べている。

翻訳は言語を創造する

おそらく同化への抵抗の出発点となるのが、具体的な言葉遣いと何かを新たに語ろうとする志向が不可分に結びついている表現であろう。そのようなすぐれて詩的とも言える原作の表現は、その言語の枠内では見過ごされ、意味の連なりのなかに覆い隠されてしまっていることがある。これを見いだすことも翻訳者の課題の一つであるとベンヤミンは論じる。彼によれば、そこには「純粋言語」への志向が潜んでいる。「純粋言語」とは、究極的には神の創造の業そのものであるような言語で、ある言葉を発することと、何かを語り出すことが完全に一つになっている言語のことである。

「他の言語のうちに囚われている純粋言語を、みずからの言語のうちに救済すること、作品のうちに囚われているものを改作のうちに解き放つこと。これが翻訳者の課題にほかならない。この課題のために翻訳者は、固有の言語という朽ちた柵を打ち破る」。ベンヤミンによれば、すべての言語は純粋言語であろうとしていて、その点で言語と言語のあいだには潜在的な類縁関係がある。翻訳者の課題とは、果物の芯のように抵抗する表現にも忠実に翻訳することによって、言語と言語の関係を、相互補完的なものとして顕在化させることなのだ。ただしそれは、翻訳者の言語の破壊を伴っている。

翻訳するとは、すでに同類のあいだの意思疎通の手段に成り果て、純粋言語の視点からすれば腐敗した自己の言語──「母語」と呼ばれているもの──を、みずからの手で壊すことでもある。異質さを深く肯定する翻訳者は、自身の言語を深層から攪乱(かくらん)することによってしか、他言語の作品を翻訳できないのだ。だが、そうして言語を攪拌(かくはん)するならば、その言語のなかから、他言語の表現に応じうる未知の表現が見いだされるだろう。このとき、一つの言語が新たな表現可能性において創造されることになる。ベンヤミンはそこに、純粋言語への志向の顕在化を見ていた。

ローゼンツヴァイクは、イェフダ・ハレヴィの讃歌(さんか)の翻訳の「あとがき」で、真の翻訳者は「言語の創造者になる」と語っている。翻訳は、原作の「死後の生」を繰り広げ、作品の歴史を創ると同時に、一つの言語を創造するのだ。これによって新たな文学の種が蒔(ま)かれるにちがいない。そして、異質さの肯定としての翻訳をつうじて言語を破壊的に創造するとは、言葉が耳を持つように言語を耕すことでもあるはずだ。このような翻訳による言語の陶冶(とうや)──英語でcultivationと呼ばれる過程──によってこそ、他者とともに生きることに開かれた文化が創られるのではないだろうか。

ベンヤミンは、「翻訳者の課題」とほぼ同時期に書かれた「暴力批判論」(1921年)のなかで、紛争の非暴力的な解決を可能にする「心の文化」を語っている。世界の見方を異にする他者との対話に開かれた心は、言語の耳を開く翻訳の実践によって陶冶されることを、彼は見抜いていたのかもしれない。ディジタルな記号としての言葉が、対話そのものが不可能になるまでに人々を引き裂く力を振るっている今、他者に開かれた言語を創造し、複数で生きる余地を人々の言葉のなかに切り開く翻訳の創造性が、あらためて見直されるべきだろう。

参考文献

■Hannah Arendt, The Human Condition, Second Edition with an Introduction by Margaret Canovan, Chicago: The University of Chicago Press, 1998. 日本語訳:ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1997年。

■山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社、2011年。

■フランツ・ローゼンツヴァイク『新しい思考』村岡晋一、田中直美編訳、法政大学出版局、2019年。

■Gayatri Chakravorty Spivak, Outside in the Teaching Machine, New York: Routledge, 2009.

■四方田犬彦『翻訳と雑神──Dulcinea blanca』人文書院、2007年。

■柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』岩波書店、2019年。

柿木伸之

柿木伸之(かきぎのぶゆき)西南学院大学国際文化学部教授。研究の専門は哲学と美学。著書に『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)などがある。
【ウェブサイト】