フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。今回は、「自称詞(一人称)」のお話です。英語では「I」、フランス語では「Je」で、両言語とも1種類のみですが、日本語ではたくさんあります。しかし、誰がどれを使ってもいいわけではなく、その選択には社会の在り方が関係しています。
春は人格が・・・?
EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。
いよいよ4月、新年度。
本来ならお花見に入学式に入社式と晴れがましいイベントが目白押しの季節ですが、一向にマスクの取れないこの状況ではどうにも浮かれようがなく・・・もっとも、桜の開花も年々早くなってこの原稿を書いている今の時点(3月末)ですでに散り始めている始末。アタシが子どもの時分なんざ、「入学式までもつかなァ」なんてやきもきしたもんですが、近ごろじゃそんなオツな光景もとんと望めなくなりまして、春だってぇのにやれ花粉だ、やれ黄砂だって、どうかするとロクでもねぇもんばっかり海まで越えて届きゃあがるんですな。そのくせ待てど暮らせどどっからも届きゃしねぇのはワクチンだけだってね。歌丸です(※違います)。
まーでもさ、うちら正直もう限界じゃない?自粛自粛って1年がんばってこれ以上どーしろってゆうのマジで。まん延防止等重点措置が適用されたとか言ってるけどいまいち意味わかってないのオレだけっすか?やっぱり僕、国にもうすこしきちんとした対応をしてほしいんですよね。科学的根拠に基づいた中長期的な展望を示すことなくオリンピックありきの場当たり的な措置を続けるようであればわたくしとしても政府の危機管理能力に不信が募ると申し上げざるを得ません。
あっ。
大丈夫です、自粛続きで人格が散らかってしまったわけではありません。元から散らかってるんです。って失礼じゃないか!(ぷんすか)ま、そんな軽い冗談とは言い切れない心の深淵(しんえん)を覗(のぞ)き込むのは来世に回すとして、勘のいい方はもうお気づきですね?
そうです!
今回は「自称詞と自己表現」のお話でーす!
自称詞天国?地獄?ニッポン!
「わたし」「わたくし」「ぼく」「あたし」「おれ」「うち」「自分」・・・
改めて 考えてみるまでもなく日本語には、「自称詞」(話すときに自分で自分を呼び表すための言葉) *1 がたくさんあります。上に挙げた例のほかにも、主に東北地方で現在も用いられている「おら」や「わ」、中部地方から西へ広く分布する「わし」、古き良き大阪のイメージが強い「わい」、鹿児島を中心に知られる「おい」といった方言をはじめ、現在ではもっぱら書き言葉として使われる「当方」や「小生」、閉じた関係性の中で自分の側を婉曲に指し示す「こちら、こっち」(例:「こっちは元気でやってるよ」「こちらとしても助かります」)、さらには親族名称(例:「おとうさんは~だと思うよ」「おねえちゃんがやってあげる」)や職名(例:「先生は悲しいです!」)といったものもすべて話し手が自分自身を指す言葉として機能しますから、文字どおり数えきれないほどあると言っていいでしょう。
しかも1人あたり1個を選んで恒常的に使い続けるわけでもなく、数種類を状況に応じて使い分けている人も、とりわけ男性には少なくありません。フランス語(Je)にもイタリア語(Io)にもスペイン語(Yo)にもポルトガル語(Eu)にもドイツ語(Ich)にもポーランド語(Ja)にもアラビア語(???)にも1種類しかないことを考えると、これはいかにも不思議に思えます。あ、ついでに *2 英語(I)も1種類ね。
ちなみに 、我らが東北アジアの仲間たちはどうかと言うと、まず韓国語は2種類(?/?)。「?(わたし、おれ、ぼく等)」「?(わたくし)」のように説明されるのが一般的です。
むむむ、日本語と非常に近い文法体系を有することで知られる韓国語でもたった2つとはちょっと意外・・・。また数もさることながら、日本語との最大の違いは男女の区別がないこと。完全な男女兼用なんですね。とはいえ、どちらを用いるかは相手との上下関係(同等か、目上か、目下か)によって決まる、というあたりの感覚は、日本人には良くも悪くもかなりしっくりきます。それに謙譲の自称詞があると助かりませんか?やっぱほら根っから謙虚だからさオレ様は。
次に、標準中国語(普通話)に至ってはなんと1種類(我)の模様。昔はもっとたくさんあったようで、現在でも方言には残っているみたいですが、教科書的にはあくまでも「我」に統一されています。ま、キミたちはしょせんSVO(主語+動詞+目的語)属だからな!むしろ構文的には英語の仲間だもんな!もういいあっちいけ!(いきなりの暴言)あっでも料理は置いていけ!!(安定の食いしんぼう)
というわけで日本語の自称詞はやっぱりけっこう多いみたい。いや、世界にはもっと多い言語もあるかもしれんけども(弱気)。
日本語の自称詞選定に影響する3大要素とは
現在の研究によると、ごく幼いうちは自分のことを名前で呼んだり自分に「ちゃん付け」をしたりしていたのが、3歳前後を境に、世界は自己と他者で構成されていること、自己も他者から見れば一個の他者でしかないことを理解し始めると、自己を客観的に認識できるようになり、「わたし」や「ぼく」を使い始める(それゆえある程度以上の年齢になっても自分のことを名前で呼んでいると「未熟」「あまえんぼ」という印象をもたれやすい)というのが、ひとりの人間が自称詞を使い始めるまでの標準的なプロセスだと考えられています。また、これ に関して は日本語話者でもそれ以外の言語の話者でも大きな差は見られないようです。
とはいえ日本語の場合は先ほど見たとおり選択肢の数が桁違い。これほどたくさんの選択肢の中から、日本語を母語とする人たちはいったいどんな風に自称詞を選び、使い分けているのでしょうか。
というわけで、日本語話者の自称詞選定3大要素について、私なりにざっくり 整理する と以下のようになりました。・・・言語学者でもなんでもないのに「3大要素」とか風呂敷広げちゃって大丈夫かなあ。ぴ、ぴらのなりにだからね!海よりも広い心で受け止めてくださいね! *3
1. 性別
これは説明するまでもありませんね。先ほど日本語における代表的な自称詞の例を挙げましたが、誰がどれを使ってもいいわけではなく、一般に男性向けとされるもの(ぼく、おれ等)と女性向けとされるもの(わたし、あたし等)、そして男女共通のもの(わたし、わたくし等)という具合に男女二分システム(バイナリー)に基づいた規範があります。 したがって 日本語話者が自称詞を選ぶ際はまず、この規範に照らして自分をどこに位置付けるのか、という問いからスタートすることになります。
2. 自分が帰属する社会集団における他者との関係性および場の要請
次に、相手や周囲との関係性、場の状況といった諸条件に左右される要素というのもあります。
年長者や上司相手には畏(かしこ)まった「わたくし」を、同輩や後輩に対しては「おれ/あたし」を使うとか、親の前ではお行儀よく「ぼく」にしておこうとか、日本社会で生きていると誰もが多かれ少なかれ相手や周囲に自分を「どうみせるべきか」も考慮に入れて自称詞を選んでいるはずです。自分が身を置く集団や環境(家庭、学校、職場、交友関係等々)で共有されている規範的な慣習を段階的に、なんとなく内面化し、自分もそれに倣って使い分けるようになってゆくのでしょう。
3. 自己顕示
だがしかし、いかに日本社会が同調圧力地獄(あっうっかり本音が)だとはいえ、やはり「自分をこうみせたい」という健やかな欲望、いわば自己顕示欲を大なり小なり抱いている人も多いはず *4 。どんな相手に対してもぞんざいな自称詞で通す人や、逆に仲間内でも極端に上品な自称詞を使う人、あるいは恋人の前でだけかわいい自称詞を使ったり、相手を威嚇しようとするときは乱暴な自称詞に切り替える、なんてケースもあるでしょう。そういう場合には相手や周囲に自分を「どうみせるべきか」という社会圧よりも、自分が「どうみせたいか」という意思が、自称詞の選択に大きく 影響 していると考えられます。
“Je est un autre” au sens propre du terme? *5
こうして 改めて 考えてみると、私たち日本語話者が日常的にずいぶん煩雑な 手続き を踏みながら自称詞を選んでいることがわかります。ほとんどいつも「私は誰にとって何者である/あるべき/ありたいのか」という問いに晒(さら)されながら、その中で揺らぎ続けているのです。
「2」の面倒くささもさることながら、特筆すべきはやはりなんといっても「1」の性別要件でしょう。自分を呼び表すたびに併せて自分の性別まで表示しなければならないというのは、世界のほかの言語と比べても実はかなり変わっています。しかも、男女で分かれているといっても、女性が使う「わたし」「わたくし」は男性でも使うことができるので、男女で対等に選択肢が用意されているというより、単に女性の方が選択肢が 少ない 、と考えた方がよさそうです。
「それはそう かもしれない けど、別に大した問題じゃないでしょー」と思う人もいるかなあ。でも日本語の場合、自称詞の選択は話しかた全体に 影響 を与えます。試しに本稿の冒頭部分を読み返してみてください。「アタシ」「うち」「オレ」「僕」「わたくし」のどれを選ぶかで自(おの)ずと語の選択や全体の調子が変わってきますよね *6 。ということは、自称詞の選択肢が多ければ多いほど自己表現の幅も豊かになるわけです。実際、例えば男の人には「わたし(職場で)」「ぼく(親と)」「おれ(友人と)」などを自在に行き来している人も大勢いるのではないでしょうか。
翻って女性には「わたし」と「あたし」くらいしか選択肢がなく、またこの2つには「ぼく」と「おれ」ほどの違いがないため、「わたし」から「あたし」に切り替えてもそこまでカタルシスが得られることはないように感じられます(あったらごめん)。そういう意味で、主に西日本の女性のあいだで使用されていた「うち」が、仲間内でのみ用いる俗語的な自称詞として十代女性を中心に全国的に広まり、かなりの定着度合いをみせているのも頷(うなず)けます。
人間は人間の数だけいるわけでして
日本語の自称詞がバイナリー(男女二分システム) *7 でかつ非対称であることは言語研究の世界では以前から繰り返し 指摘 されてきたことですが、これに加えてもうひとつ気になる点があります。それは、このようにすべての人がシンプルに男女で分けられることを 前提 とした言語構造は、必ずしもその分類にシンプルにあてはまらない人たちに不便をもたらす、ということです。
まず、身体の性と性自認が一致していない人の場合を考えてみましょう。
身体は男性だけれども性自認は女性(トランスジェンダー女性)、あるいは反対に、身体は女性だけれども性自認は男性(トランスジェンダー男性)の場合、どの自称詞を選べばよいのでしょうか。
「好きなの選べばいいじゃん」「それこそ自己顕示を優先して決定するべきなのでは?」と思う人もいるかもしれません。確かにそれで済めば簡単なのですが、実際問題、ひとつひとつの言葉には慣習的な規範の力がべったりとくっついているもの。個人がいくら自由に使おうとしても、現実には強力な違和感を引き起こしがちです。
なにより、「自己顕示」は「自分をこんなふうにみせたい、アピールしたい」という意図に基づき積極的に行うことですが、「自分の性自認に即した自称詞を使いたい」という人の場合、自分にとって比較的しっくりくる言葉が使いたいだけであって、決して自分の性自認をアピールしたいわけではないでしょう。つまり、ほかの多くの人と同じように「ふつう」にしていたいだけのはず。ところがこれが、実際にはなかなか理解されない。
仮に、身体の性が女性で性自認が男性のAさんが「おれ」や「ぼく」を使ったとします。Aさんとしては自分の感覚にいちばんなじむから使うのですが、Aさんがいくらそう説明しても、周囲から「おかしい」「女の子なのに」と 指摘 を受ける 可能性 はまだまだ非常に高いでしょう。あるいは「俺女」「ボクっ娘(こ)」など、実際とは異なるキャラ付けをされてしまうかもしれません。
また、それ以上に大きなストレスとなりうるのが、自称詞を選ぶことによって性自認が周囲に明らかになってしまう かもしれない 、というリスクを負うことです。これは「自分をどう呼び表すか≒自分は男女どちらの性別であるか」という図式が成り立ってしまう日本語話者に固有の現象といえます。
もちろん、いわゆるシスジェンダー(生まれつきの身体の性別と性自認が一致している人)であろうとなかろうとみな同じ人間であることに変わりはなく、この社会に生きるあらゆる人の尊厳は等しく守られて然(しか)るべきです。 したがって 性自認が明らかになることを「リスク」と感じなけれならない、つまり自分がマイノリティだと「バレる」ことによって差別や偏見に晒(さら)され精神的ならびに身体的な苦痛を受ける、あるいは制度上の不利益を被る、といった社会の在りかた自体が問題なのであって、どんな人でも 安心 して自分らしく、堂々と生きられるよう私たち一人ひとりが認識を新たにしてゆく必要があります。
ただ 同時に 、自分がなんらかのマイノリティであることを周囲に表明する かどうか 、というのは本来、非常に私的な、誰にも強要できない選択のはずです。「誰でも恐れずカミングアウトできる社会」≠「誰でも必ずカミングアウトすべき社会」ですから、そういう意味でも、(これを使ったら不審がられて自分の性自認がバレてしまう かもしれない )という危惧を避け難くもたらす日本語のバイナリーな自称詞が、当事者にとって日常的に大きな負担となっていることは想像に難くありません。
さらに厄介なのは、自称詞の適用範囲が年齢や環境などによっても変わりうること。
例えば、先ほど「わたし」という自称詞は男女共通と書きましたが、それは通常、ある程度以上の年齢に達してからの話であって、身体的には男性である幼い子が「わたし」を使えばやはり違和感を引き起こします。実際、私も小学生のころ、仕事相手と「私」で話す父の姿があまりに颯爽(さっそう)としていて大人っぽかったので(いや大人なんだけど)、自分も今日から「私」 *8 にしよう!と試みたことがあるのですが、同級生から口々に「なにそれオカマみたーい」と言われまくって1日で玉砕しました。まあずいぶん昔の話ではありますし、なにより私の場合はあくまでも「キャラ付け」が失敗しただけなので痛くも痒(かゆ)くもありませんでしたが、自称詞と規範意識のこうした結びつきは、おそらく現在でも劇的に変わっているとまでは言えないでしょう。
つまり男女だけとも限らないわけでして
また、 そもそも 自分の性自認は男性にも女性にも完全にはあてはまらない、と感じている「ノンバイナリー」の人たちもいます。一口にノンバイナリーと言っても「男女どちらか片方に自分を当てはめられないとか、 そもそも ジェンダーがないと自認しているとか、性別二元論を採用していない文化圏の出身で、男でも女でもないジェンダーを有しているとか」 *9 いろいろで、そういう人たちの中には、日本語の自称詞は男女二元システムがキツ過ぎてどれも選べない、という人も相当数含まれている 可能性 があります。
「あーーーもう!」
「そこまで考え出したらキリないじゃん!!」
「言語に限らず、この世に完璧なシステムなんて存在しないんだから、多少の不便は仕方ないよ!!!」
そんな声も聞こえてきそうです。
確かに、男女二元システムに長らく慣れ親しんで生きてきた(私を含む)多くの人にとって、「じぇんだーだいばーしてぃ」「いんくるーしぶ」「あんこんしゃす・ばいあす」といった概念はここ数年でにわかに押し寄せてきた呪文めいた言葉に響くかもしれません。それらをすべてクリアしながら言語を用いるなんて到底不可能だと感じる人もいるでしょう。
けれど先述のとおり、多くの人は3歳くらいから自分なりに自称詞を使い始めます。ということは、それくらい幼い時期から、強力にバイナリーな選択肢を前に悩んだり、迷ったり、傷ついたりする子が、あるいは大人になってからも違和感に付き纏(まと)われたりリスクに怯(おび)えたりし続ける人が、相当数いるわけです。言語というのは誰かと面と向かってやりとりするときはもちろん、SNSや手紙や日記、独り言まで、多くの人にとって生きている限り付いて回るものですから、自分を呼び表すときにいちいち躓(つまず)いていてはたいへんにストレスフルで、気の安まることがないはずです。
さらに、ほかの多くの言語には自称詞が1個、ないしは2個しかなく、かつ誰にでも使えるものであることを考えると、自称詞とアイデンティティの問題はほとんど日本語話者に固有の現象だと言えます。もちろん、自称詞の多さは豊かさでもあり、日本語表現の 可能性 を広げてくれる要素でもありますから、一概に悪者扱いするつもりはまったくありません。ただ、「Je」や「I」では決して起こり得ないこの現象について問い直すことはそのまま、同じ日本語で育ち、生きてゆくさまざまな他者のありようや生きづらさを想像し、お互いを尊重しあって暮らすために自分になにができるのかを 改めて 考えてみることにつながるのではないでしょうか。
まだ続くわけでして
いやあ、言語学者でもなんでもないのに無理して日本語論の真似(まね)事を始めたらすごく長くなっちゃって我ながらびっくりしました。そして疲れた。とにかく疲れた。
ただですね、もっとびっくりする お知らせ があります。
なんと・・・ここから後半戦に入るのです!
しかもここまでと同じか、もしかしたらそれ以上の量があります。
ていうか確実に後編の方が長くなります!
というわけで、この辺でいったんブラウザを閉じて休憩してから読んでくれてもかまいません。トイレに行ったり、仕事に戻ったり、ご飯を食べたり、お昼寝したりするなら今のうちですよ。いっそ別の日に読んでもいい。言っておくがそれくらい長い。覚悟するがいい。でも必ず戻ってきてね!待ってるからね!
だって・・・後編はますますおもしろくなるから!
次回(後編)は2021年4月15日に公開予定です。
参考文献
※前後編の文献リストです。
鈴木孝夫『ことばと文化』岩波書店
藤井洋子「日本語の親族呼称・人称詞に見る自己と他者の位置づけ――相互行為の「場」における文化的自己観の考察」日本女子大学紀要Vol. 60
呉 秀賢「日本語・韓国語の人称代名詞の比較」『立命館言語文化研究』22巻2号
鄭惠先「日韓対照役割語研究――その 可能性 を探る――」金水敏編『役割語研究の地平』くろしお出版
宋 善花「日本語、朝鮮語、中国語における人称詞の対照研究」
河崎道夫、黒田綾乃「自分の名を言うこととはどういうことか?」『心理科学』第26巻第1号
野原加奈子、松田勇一「大学生の一人称の使用についての研究」
木川行央「一人称代名詞としての「自分」」言語科学研究:神田外語大学大学院紀要17巻
寿岳章子『日本語と女』岩波新書
れいのるず秋葉かつえ「日本語における性差化――欧米語との比較対照から見えてくるもの」『女性学教育への挑戦』(渡辺和子・金谷千恵子)明石書店
北村紗衣『不真面目な批評家、文学・文化の英語をマジメに語る 2』 EJ新書(アルク)
井田好治「訳語「彼女」の出現と漱石の文体」英学史研究第1号
小玉博昭「成人日本語学習者における人称代名詞の使用――僕と俺を中心に――」日本学刊 第19号
大久保朝憲「フランス語の性差別的言語構造について」關西大學『文學論集』第55巻第3号
ブロッソー・シルヴィ「セクシズムと言語。フランス語の例と現在の議論」『早稲田政治政治經濟學雑誌』 No . 393
フランス・ドルヌ「フランス語――ジェンダーと性――」井出祥子編『女性語の世界』明治書院
クレア・マリィ『「おネエことば」論』青土社
イ・ヨンスク『「国語」という思想――近代日本の言語認識』岩波現代文庫
Vera Gheno, “Femminili Singolari effequ”
平野暁人さんの過去連載は「EJ新書」で読めます!
人気連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」の過去記事は、電子書籍のEJ新書『元劣等生が褒められ好きの通訳・翻訳家になって考えたこと』で読めます。書き下ろしの章「高い言語能力(日本語力)を成長過程でどう獲得したのか?」も必読です。
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*2 :このようないかにも付け足しといった趣の英語に対する言及の仕方にはEJO連載陣中唯一の非英語話者として英語帝国主義には決して媚(こ)びないぞというぴらの氏の高潔な意思が表れておりたいへん好もしいと言える。
*3 :※自信の無さをおちゃらけてごまかしたいときは自分を愛称で呼ぶ、という極めて個人的な選定プロセスがたったいま露見いたしました。
*4 :ぴらのは大学院の入学式に純白のジャケットと藍色のデニムで薄いピンクのシャツに黒い革ネクタイを締め真っ赤なブーツを鳴らしながら遅刻して行ったら席が講堂の前の方で死ぬほど目立ってたけどそれは今は関係ない。
*5 :まさに「私とは他者である」のか?
*6 :もっと言うと「俺」「オレ」「おれ」でも変わるんですけど、表記の話までしていると一生書き終わらなくなるのでまた今度ね!
*7 :バイナリー(binary)自体は「2つの項目から成っている、二元的な」という意味ですが、この記事ではジェンダーの話という文脈に絞ってわかりやすく「男女二分システム」としておきます。
*8 :自分の中ではあくまでも漢字表記の「私」のイメージでした。日本語おもろい。
*9 :北村紗衣「「彼」でも「彼女」でもない「ノンバイナリーの人」を指す単数のtheyはどう訳す?」 『不真面目な批評家、文学・文化の英語をマジメに語る 2』 EJ新書(アルク)より引用。
平野暁人(ひらの あきひと) 翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『 隣人ヒトラー 』(岩波書店)、『 「ひとりではいられない」症候群 』(講談社)など。
Twitter: @aki_traducteur
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語学一筋55年 アルクのキクタン英会話をベースに開発
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