本当に読みやすい訳文のコツって?翻訳のポイントを具体的に教えます

出版翻訳のいろは

連載「翻訳コーディネーターが徹底解説!出版翻訳のいろは」では、株式会社トランネットの代表取締役で翻訳コーディネーターの上原絵美さんが、自身のご経験を基に、出版翻訳のお仕事について紹介します。最終回となる今回は、Twitterで日本語訳文を募集した「日本語訳チャレンジ」の課題文について、実際に応募された訳文に触れながら解説していただきます。

明確に、正確に、文脈に合わせて

2021年1月下旬、Twitterで「日本語訳チャレンジ」と題して課題となる英文を掲載し、日本語訳を募集しました。ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。

今回は、皆さんの訳文を拝見しながら、翻訳する際のポイントをいくつか解説していきたいと思います。

課題文はこちらです。参加されていない方も、自分ならどう訳すか考えてみてくださいね。

We simply cannot stay closed until the vaccine hits critical mass. The cost is too high. We will have nothing left to open.

(引用元:US Changes Vaccine Strategy, WHO Says Herd Immunity Will Not Be Achieved in 2021

常体にするか、敬体にするか?

常体(~だ、~である)と敬体(~です、~ます)では、文章の意味自体は同じでも、全体の雰囲気がかなり変わりますので、出版翻訳の場合、どちらで訳すか必ず最初にクライアントに確認するようにしています。「両方見てみたい」と言われたり、「お任せする」と言われて常体で訳したら「やっぱり敬体でお願いします」とひっくり返されたりすることもあるので(どちらも翻訳者にとってはちょっとつらいですよね・・・)、負荷が軽い最初のうちにどちらかに固めておくのが望ましいです。

さて、上述の課題文はニュース記事からの引用で、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事の発言にあたる部分です。皆さんからいただいた訳文は、常体のものと敬体のもの両方ありました。新聞では、発言も基本的には常体で掲載されますが、Webメインの文字媒体では敬体の記事も増えていますので、今回はどちらでもありでしょう。

Weを訳すか?

日本語は主語が必須ではない言語です。むしろ、原文に主語があるからといって訳文でも毎回主語を入れていると、読みづらくなってしまう場合もあります。主語の有無で強調したい部分を変えることもできます。

ご応募いただいた訳文は、主語があるものとないもの両方ありましたが、今回の課題文で言えば、話者が誰でなんの話をしているかは明確なので、Weを訳さないほうが、cannot stay closed until the vaccine hits critical massのところを強く表現できるように思いました。

逆に、もし「一般的には違うが、私(たち)はそう思う」というような文脈であれば、訳文に主語を入れたほうがそのニュアンスが出せます。また、冒頭にIやWeがある場合、そのまま訳すと英作文のような雰囲気になることもあるので、文脈や力点をよく考えて主語を訳すかどうかを決めましょう。

until the vaccine hits critical massとはどんな状態?

『新英和大辞典』(研究社)によると、critical massは「1《原子力》臨界質量、2(効果的に望ましい結果を得るための)最少必要量[数]」とあり、今回は明らかに2の意味です。この点は、ほとんどの方が正しく汲み取っておられました。「臨界」を使った表現にすると、物理のイメージが強くなるので、今回は避けたほうがいいでしょう。

では、until the vaccine hits critical mass(ワクチンが最少必要量に届くまで)とはどういう状態なのでしょうか?「全員に行き渡るまで」とは書いていないですし、「最少必要量」=「感染を防げる最低限の量」と考えると、今回何人かの方が訳されていたように、「集団免疫を獲得するまで」とするのがいちばん明確だと思います

また、ワクチン自体に効果がなければもちろんお話になりませんが、ここでは文脈からしても「数」の話であって、「効果」は論じていないので、その点注意しましょう。

The costは経済的損失だけ?

もちろん経済的損失がベースにあるわけですが、それが例えば失業率、貧困率、ひいては自殺率の増加につながるという社会的影響全体をこの一言に込めているように思います。そう考えると、多くの方が使われていたように、「代償」「犠牲」という表現がいちばんしっくりきそうです

closed/openは現実に即して訳す

「現状closedしているが、それを続けるわけにはいかない。なぜならopenするものが何も残らなくなってしまうから」という流れです。

このclosedは、ニューヨークの状況から考えても「ロックダウン(都市封鎖)」を指していると考えて間違いないでしょう。前述のThe costからして、ここでは経済活動と、そこから波及する影響について述べていると考えられますが、ロックダウンでは学校も閉鎖対象に含まれるので、停止されているのを「経済活動」に限らないほうが安全だと思います

また、必需品を販売している店舗は営業していますし、集会も人数制限はあるものの完全に禁止されている(停止している)わけではありませんので、「社会活動」を使う場合は「停止」ではなく「制限」としたほうがいいでしょう。

ロックダウンには「移動制限」も含まれますが、社会への影響(The cost)を考えると、それだけを問題にしているわけでもなさそうです。一方、closedをそのまま「閉鎖」とすると、曖昧な訳になってしまいます。ニュースもそうですが、ノンフィクションを翻訳する際は「単語やフレーズの意味があっているか」だけでなく、「現実に即しているか」も必ず確認しましょう

次にopenについて考えましょう。まず、We will have nothing (left) to openですから、「openするものは何も残っていないだろう」ということであって、「openする以外には道がない(We have no other choice but to open)」という意味ではありません。

では、何をopenするのでしょうか?上述のとおり、ロックダウン中の閉鎖対象には学校も含まれていますが、学校がなくなることはないでしょうから、ここは企業や店舗の営業に限った表現にしても問題なさそうです。

この部分を「(再開する)手立てがなくなる」のように訳にされている方が何名かいらっしゃいました。原文からすると一歩踏み込んだ表現ではあるものの、つまりはそういう意味になりますので、うまい訳だなと思いました。

以上を踏まえ、私なら以下のように訳します。

ワクチン接種が進み、集団免疫を獲得するまでロックダウンを続けることなどできない。代償が大き過ぎる。そんなことをすれば、再開できる企業や店舗がなくなってしまうだろう。

読みやすい=読者が内容に集中できる

「日本語訳チャレンジ」はたった3文でしたが、それでも明確かつ正確に訳そうと思うと、これだけ考えることがあります。出版翻訳では、これを300ページ分やるわけです。

そして、明確で正確なだけではなかなか翻訳者に選ばれません。最後の関門が「読みやすさ」です。では、「読みやすい文章」とはなんでしょうか?

私は「読者がストレスを感じずに、内容に集中して読み進められる文章」だと考えています。具体的な「スタイル」や「正解」があるわけではありません。スタイルは本によって変わりますし、読者が楽しんで、もしくは集中して読めたなら、それはどんな文章であろうと「読みやすい文章」だと思います。

これをひっくり返して考えてみると、読者はどういう文章にストレスを感じるでしょうか?私だったら、何を言っているのかわからない文章やくどい文章は嫌になります。

そうならないために、

・迷わせない
・悩ませない
・疑問を持たせない

の3つを心がけています。

迷わせない

指示代名詞(あれ、これ)の使い方が不適切だったり、固有名詞やキーワードが統一できていなかったりすると、何について説明しているのか、先に出た話と同じなのか違うのか、わからなくなってしまいます。統一すべきところは統一し、一文一文の内容だけでなく、文章のつながりも明確にして、読者を迷わせないようにしましょう。

悩ませない

読者が「何がどの部分にかかっているのか」などと文章の構造を解読し始めるようではいけません。何を言いたいのか、どういう意味なのかを解明することに読者の労力を使わせないようにしましょう。

また、「誤読される可能性」も極力排除しておきたいところです。するっと読めるけど、実は別の意味にも解釈できてしまう文章、というのも案外多いものです。自分が想像もしなかった読み方をされないように、時間をおいて読み直してみましょう。時間を置くと、書いたときには気にならなかったことが見えてきます。

疑問を持たせない

1回でも「これ本当?」と思われたら、一気に全体への信頼度が落ちます(読者に届く前に、編集者にも「この訳者、ちゃんと調べたのかな?」と警戒されてしまいます)。ですから、事実確認をしっかりしましょう。残念ながら、最近は事実確認の甘い原書も増えてきたので、「原書にこう書いてあるから」と素直に信じるのも危険です。編集者や読者に疑問を持たせないために、翻訳者が疑り深くなり、1つずつ確認を取りましょう。

また、誤訳というのは日本語だけを読んでいても結構見つかります。文脈に合わなかったり、書籍全体でつじつまが合わなかったりするからです。翻訳中は目の前の文章に夢中になってしまいますが、ぜひ、ここでも時間をおいて、全体を(少なくとも章単位で)俯瞰で確認してみてください。訳文の質が一段上がるはずです。

つまりは、悪目立ちしない文章

黒子を目指しましょう。読者の目を引かないように、主役である内容(物語)がスムーズに流れるように、邪魔をせず、さりげなくサポートする。そういう文章に仕上げられれば、読者は頭の中に内容をしっかり残して本を閉じてくれると思います。

読者が「翻訳者」の存在を意識せず読み終えてくれたら、大成功です。

上原絵美

上原絵美 神奈川県出身。就職氷河期ど真ん中で仕事が決まらないまま大学を卒業し、ホテル業界でアルバイトをしながら出版に関われる仕事を探していたところ、創業4年目の株式会社トランネットと出合う。その後、翻訳コーディネーターとして400冊以上を担当し、2020年代表取締役就任。