“Elementary, my dear Watson.”【英米文学この一句】

“Elementary, my dear Watson.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

Elementary, my dear Watson.

—supposedly spoken by Sherlock Holmes

「初歩的なことだよ、ワトソン君」という訳で日本でもよく知られた、シャーロック・ホームズが言ったとされる一言。そして実は、コナン・ドイルが書いたホームズもの全作品を見ても、このフレーズはどこにも出てこないことも、かなりよく知られているだろう。一番近い発言としては、“The Adventure of the Crooked Man”(背中の曲がった男の冒険)の次のやりとりである。

“Excellent!” I cried. “Elementary,” said he.
「素晴らしい!」と私は叫んだ。「初歩的なことだよ」と彼は言った。
(「私」はワトソン、「彼」はホームズ)

—Sherlock Holmes,The Adventure of the Crooked Man(1893)

この連載第1回で、『ハムレット』の“To be or not to be, that is the question”を「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と訳した例は2003年河合祥一郎訳までは存在しなかったことを紹介したが、それと似たようなケースである。

ホームズが一度もそう言っていないにもかかわらず、このフレーズが人口に膾炙(かいしゃ)したのは、それがいかにもホームズらしい発言、ドイルは書いていないけれど書いていても全然おかしくなかった一言だからだろう。人々の知恵が、ドイルを編集したのだ。いわば「正しい誤引用」。

このように、「どこにも書いていないのに、なぜかみんなが知っているフレーズ」というのはときどき見かける。ほかに有名な例としては、詩人ロバート・フロストの“Poetry is what gets lost in translation”(翻訳で失われるのは詩心[しごころ]である)が挙げられる。

まあフロストは講演などで似たようなことを何度も言っているようで、これまたいつ彼が言ってもおかしくはなかった一言なのだが。

ひとつ興味深い例としては、作家バーナード・マラマッドの“All men are Jews”(すべての人間はユダヤ人である)がある。ナチスによる大虐殺の記憶も新しいなか、苦しむ人間としてマラマッドはユダヤ人を描いた。そんなマラマッドの人間観を最大限凝縮しているように思える一言だが、彼がこう書いた・発言した記録はどこにもなく、本人はあるインタビューでこう言い添えている。

I think I said “All men are Jews except they don’t know it.” I doubt I expected anyone to take the statement literally. But I think it’s an understandable statement and a metaphoric way of indicating how history, sooner or later, treats all men.
「すべての人間はユダヤ人だが、みんなそのことを知らない」とは言ったと思う。人がこの発言を文字どおりに受けとるとは思わなかったと思う。けれど納得できる発言だと思うし、すべての人間が遅かれ早かれ歴史から受ける仕打ちを、比喩的に言い表してはいると思う。

 “Elementary, my dear Watson.” ほどキャッチーではないかもしれないが、人々が広めた正しい誤引用に作家本人が書き足して、実に深みのある発言が出来上がっている。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

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  • 作者:柴田 元幸
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  • 発売日: 2020/01/29
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【音声DL有】新装版 柴田元幸ハイブ・リット

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文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2020年6号に掲載された記事を再編集したものです。