イラスト:Alessandro Bioletti
プロ通訳者の関根マイクさんが現場で出くわした、さまざまな「事件」を基に、通訳という仕事や通訳者の頭の中について語ります。もちろん、英語学習に役立つ通訳の技もご紹介。通訳ブースの中のあれやらこれやら、てんやわんや、ここまで言っちゃいます!
よく「通訳できない」言葉や表現はあるのか?と聞かれることがあります。報酬を頂くプロである以上、話者がどんな発言をしても最寄りの訳(100%正しい訳ではなくても、それに最も近い訳)を出す用意をしなければならないのですが、少なくとも英語と日本語の言語ペアでは、文脈を知らなければ訳すのが不可能な表現は存在します。
例えば発言で「佐藤さん」という人物が出てきたとき、通訳者はこの方が男性か女性かわかりません。性別を間違うような致命的なミスはしたくないので、同時通訳のようにその場でクライアントと確認できない場合は “someone named Sato” などと少しぎこちない英訳にするときもあれば、肩書がわかっている場合は とりあえず Director などとしておいて、休憩中に確認することもあります。もっとも、近年は日本語の「さん」付けについて外国人の理解がかなり進んできているので、“Sato-san”と訳しても差し支えない状況が増えてきてはいるのですが。
単数か? 複数か?
単数・複数の問題も、特に高度な正確性を求められる法律などの分野では、通訳者をたびたび悩ませます。例えば「彼はナイフを取り出した」は he pulled out a knife( 単数)とも、 he pulled out knives( 複数)とも解釈できます。似たような例では、「部屋に人がいた」は there was a person (someone) in the room とも there were people in the roomとも解釈できます。厳密に言えば、文脈によっては「部屋」も a roomか the room に分かれるので、文脈情報を与えられていないと通訳者はとても困るのです。 ちなみに ナイフの例は、わかりやすさのために少し文章を変えてありますが、裁判で私が実際に経験したものです。私が a knife と訳した直後に、傍聴席にいたバイリンガル弁護士(被告側を支援していた)が椅子から飛び上がって「違う、違う! ナイフは2本!」と大声でヤジを入れました。私が頂いていた起訴状やほかの資料にはそんなことは書いてなかったので、どう 判断 してよいのか私にはわかりません。 そもそも 傍聴席のヤジを許してよいのか、それに基づいて訳を 修正する ことが許されるのか、という法的問題もあると思いますが、この事件ではナイフの本数について争いはなかったのでその場で訳を 修正 しました。
肩書きが訳せない!
組織といえば、部門名や職位・職階の訳も、初めてだと不可能に近いレベルだと思います。「部長」ひとつをとっても会社によっては manager、 general manager、senior manager などと異なります。どのような英語にするかは会社の勝手ですから、会社の数だけ訳があってもおかしくない。私が過去に担当した案件では、主任、主査、主事、主幹などのポジションが用意されている会社があり、当の社員たちも詳しい違いをよく理解していなかったという冗談みたいな話もあります。おまけに、実質的には係長レベル相当である主任の正式訳が executive chief だったので、このレベルで executive なら上のポジションはどういう訳になっているんだろう、と心の中でツッコミを入れたことも。
ほかにも、グローバル 展開する 某日本企業の経営会議で「最高執行責任者」を直観的に Chief Operating Officer と訳したら、確かに米国支社ではそれで正解だけど、英国支社の場合は Managing Director にしてくださいと 指示 を受けたこともあります。理解を深めたいので「違いはなんですか?」と聞いたら、英国ではManaging Director の方しっくりくるからなんだとか。このあたりはどんなに通訳技術があっても情報がなければ本当にわからないのですが、間違えたら「なんでこんな簡単なところでミスるの?」と冷たい視線が集まります。クライアントの皆さん、通訳者が不要な恥をかかないために、通訳者が会議参加者のリストを求めてきた場合は、ちゃんと渡してあげてくださいね!
「語りえぬもの」を通訳する
「 可能性 」を示唆する表現を正しく訳すのも難しいです。私たちは日常的に「たぶん」や「おそらく」という表現を使いますが、これらはどれくらいの 可能性 を表しているのでしょうか? 例えば何かが実現する 可能性 が50%という意味での「たぶん」なのか、それとも80%以上の確信があるのでしょうか? これを正しく理解するのも一苦労ですが(ニーチェだったら「他人の心なんて理解できない」とバッサリ切り捨てそうですが!)、訳すのはもっと大変ですmaybe、possibly、probably、perhaps など選べる単語は多く存在しますが、通訳者は話者の声のトーンや表情なども参考にしながら、訳を使い分けなければなりません。
ちなみに 、私がいまだに適当な英訳を付けられていない言葉に「勝負師」があります。まだ現場では一度も出てきたことがないのですが、出てきたらどう訳そうかと、もう10 年近く考えています。単純に gamblerと訳す翻訳者・通訳者もいるようですが、日本語の「勝負師」は単にギャンブルをする人という意味ではなく、将棋・囲碁棋士やアスリート、そして広くは田中角栄のような政治家を形容するためにも使われてきた(いる)言葉です。ギリギリのところで勝負をする職人や芸術家という意味もあると思うのです。魂をかけて勝負する人たちを、丁半博打をするギャンブル狂と同列で単にgamblerと呼ぶのは私の通訳者としての美意識が許しません。といっても、なかなか良い訳語が思いつかないのですが……。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は哲学者ウィトゲンシュタインの名言ですが、語りえないものについても語らなければならないのが私たち通訳者の悲劇であり、時には喜劇であることに間違いありません。
関根マイクさんの本
フリーランス会議通訳者・翻訳者。関根アンドアソシエーツ代表。カナダの大学在学中から翻訳・通訳を始め、帰国後はフリーランス一本で今に至る。政府間交渉からアンチエイジングまで幅広くカバー。著書に『同時通訳者のここだけの話』『通訳というおしごと』(アルク)。ブログ「翻訳と通訳のあいだ」( https://blogger.mikesekine.com/ )
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