文芸翻訳家の越前敏弥さんが、毎回1冊、英語で読めるおすすめの本を紹介する連載「推し海外小説」。今回は、アメリカで頻発する、学校での無差別乱射事件をテーマとした必読書です。この難しい題材はどのように描かれているのでしょうか?また、原題や邦題に込められた意味とは?
少年の視点で語られる大人向けの物語
今回は“Only Child”(邦題『おやすみの歌が消えて』)というアメリカの作品を紹介しよう。銃撃事件に巻き込まれて子どもを一人失った家族の苦闘と再生の物語だ。主人公はZachという6歳の少年(殺された子の弟)で、Zach自身が見聞きしたこと、感じたことがそのまま語られている。
児童書ではなく、大人向けに書かれた作品だが、全編が少年による語りなので、当然ながら英語の難しい語彙や構文は使われず、初学者でも読みやすい。
2018年に刊行されると大きな反響を呼び起こし、ともに映画化されたジョナサン・サフラン・フォアの“Extremely Loud & Incredibly Close ”(邦題『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』、近藤隆文訳、NHK出版)や、エマ・ドナヒューの“Room”(邦題『部屋』、土屋京子訳、講談社文庫、上下巻、日本での映画タイトルは『ルーム』)など、少年の視点で書かれた秀作に引けを取らない作品として高く評価された。
銃撃事件を扱った小説自体はさほど珍しくないが、少年の心の微妙な揺らぎをここまで克明に、ここまで心優しく描いたものはおそらくほかに例がない。 すぐに でも読んでもらいたい作品だ。
突然起こった悲劇とその後
小学校に入って間もないある日、Zachが授業を受けていると、POP POP POPという音が響き渡る。Zachはそれを聞いても、なんの音か理解できず、「ときどきXboxでやる『スター・ウォーズ』のゲームの音にそっくりだ」としか思わない。
周りではサイレンが鳴り響いていて、深刻なことが起こっているらしいとは感じるが、まだなんだかよくわからない。すると、教室に警察官が現れる。
その後、銃を持った男が小学校で無差別に発砲したこと、たくさんの生徒や教職員が犠牲となったこと、犯人が射殺されたことがわかる。Zachは無事に両親と会うことができるが、しばらくして、3歳上の兄Andyが命を落としたことを知らされる。
Zachの一家は深い悲しみの底に落ち、Andyの死は両親の心の間に大きな隔たりをもたらしていく。母は銃撃犯の遺族にどうしたら復讐できるかばかりを考えるようになる。父はそんな母をいさめる分別を持った良識ある大人のように見えるものの、優柔不断なところがあり、しかも家族には言えない大きな秘密を抱えている。
二人とも、自分の苦しみを乗り越えるのに精いっぱいで、もう一人の息子Zachのことまで気に掛ける余裕がない。家族は崩壊寸前だ。
だからZachは、幼いながらも一人きりで悩み続け、兄を失った悲しみに自分なりに工夫して立ち向かおうとする。ばらばらになりかけた家族がまた仲良く暮らせるにはどうしたらいいか、Zachは考え抜いた末、あることを思い付き、勇気を奮って実行に移す。
アメリカで頻発する銃撃事件をどう描くか
ご存じのとおり、アメリカでは学校での無差別乱射事件が頻繁に起こっている。作者のリアノン・ネイヴィンは3人の子を持つ母親で、子どもの一人が小学校で銃撃事件の避難訓練を受けてきて、その後おびえきっていたのを目の当たりにし、それをヒントにこの小説を書いたという。
日本では銃撃事件そのものは 少ない が、小学校の児童が多数巻き込まれた殺傷事件は何度か起こっていて、決して人ごとではないはずだ。この作品を読めば、銃社会に生きる人々の細やかな心理が手に取るようにわかる一方で、どこの国にも共通の事柄、例えば、ある日突然、人の心が大きく変わってしまう恐ろしさを体験することもできる。
なぜ6歳の少年の一人称の語りにしたのかについて、作者は「私自身の銃規制に対する考えがそのまま文章ににじみ出るのが嫌で、できれば読者に自分なりの結論を導いてもらいたかった。だから子どもの素直な目を通し、ゆがみや偏りのない語りにしようと思った」と述べている。
とはいえ、幼い語り手を選ぶことは困難な試みだったはずだ。6歳のZachの語りがうそっぽくなってはならない一方で、その語りによって、大人を飽きさせずに長い物語を最後まで引っ張っていくのは極めて難しい。だがこの作品は、児童書に近い文体で語られながらも、大人の読者も十分に満足させる歯応えを持つ力作として成功している。
翻訳するに当たっては、子どもによる語りであること、Zachは感性も表現力も豊かな少年であること、大人の読者にも抵抗なく読んでもらいたいことなどを考え合わせ、原則として小学校3年生までの漢字だけを用いた。数々の理不尽な出来事と一人で向き合わなくてはならない少年が懸命に考え、行動する痛々しさやぎこちなさが、日本の読者にうまく伝わるといいと思う。
要となる歌の翻訳
この作品の原題は“Only Child”で、そのまま訳せば「一人っ子」だ。Andyがいなくなって一人きりになったZachのことだとも言えるし、ひょっとしたらほかの意味もある かもしれない (ぜひこの作品を読んで、考えてもらいたい)。
一方、邦題『おやすみの歌が消えて』は、Zachが眠るときに母がいつも心地よい歌を歌ってくれたのに、事件後にはそんな余裕がなくなってしまったことを指している。それはこんな歌だ。
Zachary Taylor / Zachary Taylor“Only Child” p. 36I love you / I love you
You’re my handsome buddy / And I’ll love you always
Yes, I do / Yes, I do
上の歌詞だけではわからないと思うが、これは英米では誰もが知っている童謡“Brother John”(日本では「グーチョキパーで何作ろう」)の替え歌だ。おそらくほとんどの人がメロディーを知っていると思うが、ぴんとこなければネットで動画検索をするといい。原曲の歌詞はこうだ。
Are you sleeping, Are you sleeping,邦訳では、以下のようにしてみた。メロディーに合わせて口ずさんでもらいたい。Brother John? Brother John?
Morning bells are ringing, Morning bells are ringing.
Ding, dang, dong. Ding, dang, dong.
ザカリー・テイラー/ザカリー・テイラー『おやすみの歌が消えて』p. 58大すきよ/大すきよ
すてきなぼうや/いつでもすきよ
ずーっとね/ずーっとね
ザックが再び「おやすみの歌」を聞いて、心安らかに眠れる日は本当に来るのだろうか。知りたい人はぜひ“Only Child”を読んでもらいたい(できれば邦訳も併せて)。
多忙のため、この連載は今回でひとまず終了しますが、またの機会に別の小説を紹介できることを楽しみにしています。これまで6回、読んでくださってありがとうございました。
今回の小説
■“Only Child” (Rhiannon Navin, Knopf, 2018)
▼Pan Books版
文:越前敏弥(えちぜん としや)
文芸翻訳家。1961年生まれ。訳書『オリジン』『ダ・ヴィンチ・コード』『おやすみの歌が消えて』『大統領失踪』『世界文学大図鑑』『解錠師』『Yの悲劇』など。著書『翻訳百景』『文芸翻訳教室』『この英語、訳せない!』『日本人なら必ず誤訳する英文・決定版』など。Twitter: @t_echizen