“Her voice is full of money.”【英米文学この一句】

“Her voice is full of money.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

Her voice is full of money.

_SF. Scott Fitzgerald, The Great Gatsby (1925)

かつては自分の恋人だったが、いまは 別の男の妻となってしまった金持ちの娘デイジーの心を取り戻すために、おそらくは怪しい手段を駆使して大富豪となった男ジェイ・ギャツビー。何しろ世界の組 み立て方が大胆な人であるからして、そ の言動には啞然とさせられることが多い。

常識人である(が、ギャツビーの愚 かしさと表裏一体の偉大さも理解でき る)友人ニック・キャラウェイから、

You can’t repeat the past.

そんなこと言ったって君、過去はくり返せないよ。

と言われると:

“Can’t repeat the past?” he cried incredulously. “Why of course you can!” He looked around him wildly, as if the past were lurking here in the shadow of his house, just out of reach of his hand.

「過去はくり返せない?」彼はまさかという顔で叫んだ。「何言うんだ、もちろんくり返せるさ!」

彼はギラギラした目付きであたりを見回した―まる で、過去がこの自分の家の影のなか、ギリギリ手の届かないところにひそんでいるかのように。) ―彼の発言こそincredulous!と叫びたくなるというも のである。

あるいは、デイジーは夫トムを愛したことなどない、彼 女が愛したのは僕(ギャツビー)だけだと主張するなかで:

Of course she might have loved him just for a minute, when they were first married – and loved me more even then, do you see? Suddenly he came out with a curious remark. “In any case,” he said, “it was just personal.”

もちろん、結婚したてのころには、つかのま愛したかもしれないがね―そのときだって僕のことをもっと愛していたのさ、わかるだろう?突然彼は、奇妙なひと言を発した:「まあどのみち、それは単に個人的なものだったのさ」)

―ニックは “curious” で済ませているが、前号のアリスにならうなら “Curiouser and curiouser!” と言いたくなる。愛が個人的じゃないとしたら何なんだ?

とはいえ、この “Her voice is full of money”という一 言は的確と言わざるをえない。デイジーの声には無分別 なところがあるね、と指摘するニックが “It’s full of ̶” とまで言って言葉に詰まったところで、ギャツビーがズ バリこう言うのである。

「金が詰まっている」。これが一種の神々しさを示唆するところがアメリカ文学らしく、フィッツジェラルドらしく、ギャツビーらしい。たとえば『金色夜叉』などを見 ても、普通なら愛と金は対立するわけだが、アメリカ文 学では“love and money”というフレーズもあるくらいで、この二つが両立するというか、往々にして一方があるか らこそもう一方もある。だがそのことを、ギャツビーほど 臆面もなく言ってのけるキャラクターはさすがに珍しい。だからこそタイトルどおり “Great” でもあるのだ。

このページで紹介している名文句は、たいてい多くの引用やもじりを生んでいるが、この一言のもじりというのは聞いたことがない。あまりに直截(ちょくせつ)、あまりに身もフタも なくて、もじりようがないのだろう。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

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  • 作者:柴田 元幸
  • 出版社/メーカー: アルク
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 単行本
 
【音声DL有】新装版 柴田元幸ハイブ・リット

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: アルク
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本
 

文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2019年10月号に掲載された記事を再編集したものです。