孤軍奮闘することが多い通訳の世界で「先輩」という貴重な存在【通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES⑧】

翻訳家で通訳者の平野暁人さんが、舞台芸術の仕事を中心に通訳翻訳の世界を語る連載『通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES』。一つの現場に1人の通訳者で対応することが多い舞台芸術の世界において、その道の「先輩」は貴重な存在です。通訳の仕事について学び、悩みを相談できる「先輩」という存在の大切さについて、平野さんが自身の経験を基にお話しします。

通訳の先輩と仕事をする貴重な機会

こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。昨年の7月、東京の新国立劇場でオペラ『ペレアスとメリザンド』の演出家付き通訳として、初めてオペラの現場に入りました。その時は、始まる前からとても緊張。こんなとき、事前に相談したりアドバイスをお願いしたりできる先輩がいてくれれば・・・。そもそも、舞台芸術通訳の世界に先輩・後輩の関係ってあるのでしょうか?

個人事業主が多くを占める印象のある通訳業界ですが、例えば会議通訳のように複数の通訳者がチームで担当する現場であれば多くの同業者と知り合うでしょうし、キャリアに応じて先輩格、後輩格のような関係性も生まれ得るのかもしれません。その点、舞台の世界では一つの現場に1人の通訳者しか付かないことがほとんどなので、仕事の仕方もおのおのの裁量と個性に任されるところが大きく、他の通訳者の振る舞い方に興味はあっても実際にはなかなか目にする機会がありません。先輩の背中を見ながら成長する機会に乏しいのはこの仕事の厳しいところです。

ただし、大規模なプロジェクトで関わる人員も多く、演出家、出演者、スタッフの通訳を1人でこなすのが物理的に不可能に近いような場合には、通訳者も複数体制で臨むことがあります。といっても会議通訳のように同一の業務を交代制で回してゆくのではなく、経験豊富な通訳者1名と比較的経験の浅いアシスタント的な通訳者1名といった布陣が多く、後者には学生も珍しくありません。

キャリアこそ違えどそれぞれに独立した持ち場を任されるので「先輩・後輩関係」とイコールではありませんが、熟練の通訳者であれば自らの業務をこなしつつも後輩格の通訳者の働きぶりを絶えず視界に入れているもの。困っていればフォローに入りますし、求めに応じて助言を行うこともあります。基本的に孤独で何においても手探り、習うより慣れろの業界だけに、新人時代に優秀で懐の深い先達と現場を共にする機会にどれだけ恵まれるかで、通訳者としての成長が大きく左右されると言っていいでしょう。

私自身、最初期はアシスタント的な立ち位置も経験したので、メインの通訳者から少しでも何か学ぼうとわずかな待ち時間も惜しんで仕事ぶりを観察し、休憩時間や仕事の帰り道などに押し掛けては質問するようにしていました。快く相談に乗ってくださった諸先輩方には感謝してもしきれません。

また、「先輩」は同じ通訳者だけとは限りません。国際協同企画の経験値が高い人でさえあれば、スタッフであれ演者であれ、誰もが先輩になり得ます。とりわけ技術系の通訳は専門用語が多く、新人の頃は通訳以前に日本語の意味が分からなくて往生することも多いのですが、通訳者との共同作業に慣れている人は語彙をピックアップして簡潔に説明してくれたり、こちらがずれた訳をしても「あ、〇〇のことですね」とくみ取ってくれたり、「まずAをBしてください。次にBをCしてください」と短く切って伝えてくれたりします。スタッフ陣のそうした的確な対応と細やかな配慮には現在も日々支えられています。

仕事の悩みを相談できる先輩

学生アルバイトとして素人通訳を始めて3年目、既に幾つものクリエーションを担当し、戯曲翻訳に国内ツアー、海外ツアーなども経験してそれなりに安定した働きができるようになりつつあった頃、担当していた公演のアフタートークで、事件は起こりました。

思えばそもそもむちゃな企画でした。登壇者はフランス人演出家に加え、ゲストにとある高名な日本人の文芸評論家。演出家のフランス語は逐次通訳ですが、ゲストの修辞に満ちた哲学的な日本語はウィスパリング(受話者の耳元でささやくように同時通訳を行うこと)で演出家だけに伝える必要があります。

これを1人で行うだけでも大変な負荷なのに、いざ舞台上へ出て行ってみるとなんと司会者もいなければマイクも用意されておらず、通訳者である私が地声を張り上げ司会進行まで兼務する羽目に陥ったのです。20分の予定が1時間以上に及んだことがとどめとなり、脳が緊張と疲労の限界を超えた私は舞台上で完全に真っ白に。異変を察知してざわつく場内。トークは半ば無理やりお開きとなりました。

恥ずかしさと情けなさに押しつぶされそうになった私は、思い余って信頼する先輩通訳者に連絡しました。私的なやりとりなのでここには記しませんが、舞台芸術通訳という極めてニッチな仕事ならではの苦労を親身になって分かち合い、心を砕いて助言してくれる人がいることのありがたみを、このときほど深く実感したことはありませんでした。

私は今も新しい現場に入るたび、当時の先輩の言葉を思い返します。あれから月日がたち、自ら教える側として劇場に立つ機会も増えました。後続世代にかつての先輩方のような姿を見せられているのだろうかと自問する日々です。

次回は「舞台芸術通訳とハラスメント」について書いてみようと思っています。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年8月号に掲載した記事を再編集したものです。

平野暁人さんの連載一覧はこちらから

平野暁人さんの翻訳本

31歳にして世界三大文学賞の一つ、ゴンクール賞を受賞したセネガル人作家、初邦訳作品!
「この国で、生きていても死んでいても居場所がないのは、同性愛者だけ」
実際に起こった事件を題材にセネガル社会のタブーに切り込み、集団の正義のために暴力を行使する人間の根源的な愚かさと、社会から排斥されることへの潜在的な恐怖を克明に描いた衝撃作。

平野暁人(ひらの・あきひと)
平野暁人(ひらの・あきひと)

翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛ける他、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。Twitter: @aki_traducteur

トップ写真:James Oladujoye from Pixabay

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