演出家と密に関わる稽古場での通訳【通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES②】

翻訳家で通訳者の平野暁人さんの連載『通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES』では、舞台芸術の仕事を中心に通訳翻訳の世界を語ります。第2回目は、演出家付き通訳の稽古場での仕事を詳しくお話しいただきます。

演出家の仕事とは

こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。前回の 「舞台芸術の通訳者が一番やってはいけないこと」 では初回ということで自己紹介を兼ねてざっくりとした業務紹介に終始しましたが、今回から数回にわたり「舞台芸術通訳」の実務についてより詳しくお話ししていこうと思います。今月のテーマは「演出家付き通訳」です。

「そもそも演出家って具体的には何をする仕事なの?」という方もいらっしゃると思うのであえて一言でご説明しておくと、演出家とは「決める人」。脚本の解釈から演技の方向性、美術、照明、音響、衣装など、作品を構成するあらゆる要素をどの角度から観客に提示するのかについて独自の視座を示し、それに基づき各セクションの責任者と協議しながら最終決定するのが役割といえます(もっと詳しく知りたい方はぜひ「ENGLISH JOURNAL ONLINE」の連載 「舞台芸術翻訳・通訳の世界」の第3回 もご覧ください)。

そんな中でも通訳者が特に密に関わる場面が「稽古の通訳」です。一口に稽古といってもどのような作品に付くかで業務内容もかなり変わってくるのでして、大別すると次の3種類に分かれます。

1 新作:ゼロの状態から稽古して作り、上演する
2 再演:既に上演されたことのある作品を再び稽古して上演する
3 招聘公演:外国で作られた作品を日本に招いて上演する、もしくはその逆

新作は舞台芸術通訳の醍醐味

まず、一番大変なのは言うまでもなく「新作」です。拘束期間は作品の規模にもよりますが平均1カ月から長いものになると2カ月以上に及ぶ場合もあり、稽古時間も短い人で1日3、4時間、長い人だと8時間くらい(ただしウオーミングアップや片付けの時間を除く)。新作ですから演出家をはじめ出演者もスタッフも手探りで試行錯誤の日々を過ごします。

また、同じ新作でも演出家と俳優、スタッフが旧知の間柄なのか、それとも初めましてなのかで現場の雰囲気も大いに変わってきます。前者であれば、作品づくりを共にしてきた仲間は戦友であり、盤石の信頼関係で結ばれているもの。作業が行き詰まり苦しい日々が続いたとしてもみだりに互いを責めるような事態には発展しません。

しかし後者の場合、演出家が焦って俳優に当たってしまったり、逆に俳優の側が演出家のビジョンを信じられなくなって反発を始めたりして、時には一触即発の空気にまで達してしまうこともあり得ます。私自身も幾度となく「話し合い」の通訳を務めてきましたが、疑念、焦燥、糾弾、弁解、混乱、懇願、叱責、説諭……怒鳴り散らす人もいれば号泣する人もいました。どこまでもドロドロと人間くさい負のエネルギーをぶつけ合う媒介になるのは筆舌に尽くし難い負荷を伴うもので、さすがに「どっちもいいかげんにしてくれ!」と叫び出したくなります。それでも勝手にいさめてお開きにする権限を持たないのが通訳者のつらいところです。

もちろん通訳者自身と演出家の関係も例外ではなく、初めての相手だとなかなか思うように訳せず稽古場を混乱させてしまうこともあります。あまりに不調が続くと、現場で起こる不和の大部分は自分の伝え方のせいなのではないかと頭を抱えて落ち込んだり。多いときには数十人から成るチームの意思疎通をたった一人で担う舞台芸術通訳ならではのプレッシャーかもしれません。

とはいえ、そうした緊張と混沌に耐え抜いて万雷の拍手を浴びる新作初日にはやはり何物にも代え難いカタルシスがあります。新作づくりはあらゆる意味で舞台芸術通訳の醍醐味が凝縮された仕事といえるでしょう。

混乱が起きにくい再演

新作づくりに比べると、「再演」は既に出来上がっているものに取り組むため不確定要素が少なく、混乱も起きにくいといえます。当然ながら新作に比べると稽古期間も短いのが一般的です。ただし初演からかなり期間が空いていたり、初参加の人が多かったり、演出が大胆に変更されたりといった事情があればこの限りではありません。ちなみに、通訳者だけが再演からの参入という場合、完成されたチームに入っていく緊張に加え、自分以外の全員が共有している文脈に依存したやりとりに必死で食らいついて信頼を獲得せねばならず、初期の負荷が爆発的に増大する可能性もあります。

負担は少ないが寂しさも感じる招聘公演

最後に、招聘公演は既に出来上がっているものを上演するという意味では再演と重なる面もあるのですが、一つの作品をそっくりそのまま場所だけ変えて上演するため、自国でギリギリまで稽古してから劇場入りするケースが多く、一般的には本番までの期間が極めて短い点が特徴です。仕込み(劇場のセッティング)1日、稽古1日、公演1日の合計3日間で嵐のごとく去るようなことも珍しくありません。招く側と招かれる側の双方が事前に十分な準備をしていれば通訳者の業務はアテンド程度に軽減されることもありますが、お互いの顔と名前が一致して仲良くなり始めた頃にお別れになってしまうので、新作はもちろん再演と比べても寂しさや物足りなさを覚えがちなのが正直なところです。

というわけで今月は演出家付き通訳業務の主幹部分のみを駆け足で概観してみました。来月は「技術通訳」についてご紹介する予定です。どうぞお楽しみに。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年2月号に掲載した記事を再編集したものです。

EJ
平野暁人(ひらの・あきひと)

翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛ける他、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。Twitter:@aki_traducteur

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