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翻訳が絶滅するとき――翻訳がすべて機械によって行われる日など永遠にやって来ない

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。機械翻訳と人間が行う翻訳は何が違うのか?舞台の現場で得た実感も交えた分析です。

このたび世界一の翻訳家になりました

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。世界一の翻訳家・平野暁人です。

あっ。

やっぱり引っかかりました?そうなんです、おかげさまでこのたび世界一になりまして。いえ、前から薄々気づいてはいたんですよ。なんかオレ日本一っぽいなって。でもまさか世界一だったとはねえ。さすがにそこまでは思い至らなかったよねぇ。我ながらうっかりしてたわー。

で、いつの間に世界一になったのかというとですね、これがつい最近の話です。ていうか昨日(7月24日)です。

実はわたくし現在、今年の豊岡演劇祭で世界初演が予定されている演劇作品『KOTATSU』の稽古中でして。現代フランスでも屈指の劇作家で演出家のパスカル・ランベールが、ゼロ年代から交流を深めてきた劇団「青年団」(平田オリザ主宰)の俳優へ向けて書き下ろした新作で、私の担当は台本の翻訳(仏→日)。で、これが全編通じてパスカルお得意の徹底した現代口語によって書かれているため、こちらも徹底的に現代口語に訳し開いてみたところ、誠になんともはや筆舌に尽くしがたいほどの、我ながら快心と形容して差し支えない仕上がりと相成ったのであります。

もとい、私もそこそこキャリアを重ね、それなりの数の戯曲を訳し、幾多の稽古場で翻訳家としてあるいは通訳者として試練を乗り越えてきた人間です。さすがに「うまくできた!」という実感だけで世界一を名乗るほど図々(ずうずう)しくはないのであって、大口を叩(たた)くにはきちんとそれだけの根拠があります。

というのもこの作品、共同演出ならびに日本語監修として平田オリザさんご自身も参加されているのですが、そのオリザさんが、私が仕上げた翻訳台本に加筆なさったのです(もちろん原作者であるパスカルの同意は得ています)。

え。

待って。

すごくない?

だって、平田オリザといえば言わずと知れた現代口語演劇の提唱者であり会話劇の達人です。そのオリザさんが自ら台詞(せりふ)を書き加えることができたのだから、元の翻訳が極めて高水準の現代口語で訳されていたことの証左に他なりません。もうこの時点で大満足のぴらの先生。

しかしです。最大の興奮は昨日の稽古時に訪れました。通常はフランスに居るパスカルとZoomで行っている稽古を、その日はオリザさんが担当。すると開始早々、「人間の自然な思考の流れに沿って台詞を言ってください」「俳優は自分が口にする内容をすべて事前に知っているけれど、実際の発話はそうではなく、ぶつ切りの情報を付け足しながらしゃべる」「この台詞も人間の実際の発話の仕組みに沿って書かれているのだからきちんとそれを意識して」と、平田オリザの真骨頂ともいうべき演出を始めたのです。そう、私が翻訳した台詞を使って!

その様子に感激を新たにしながら私は思いました。「やっぱ現代口語訳ならオレが日本でいちばんうまいな!」と。「わかっちゃいたけど、これで証明されたな!」と。そしてそして、気づいてしまったんです。

「あれ?でも、日本語に現代口語訳するのが日本でいちばんうまいなら、それって世界でいちばんうまい可能性が限りなく高いってことじゃない?」

てなわけで、不詳、違った(違わないかもしれない)不肖・ぴらの氏、2021年7月24日をもって世界でいちばん現代口語訳のうまい仏日翻訳家となりました。どーぞよろしく

あっでももちろんアレですよ、それこそオリンピックと違って翻訳の「いちばん」なんて厳密には誰にも決められないわけで、根拠だとかなんとか言っても最終的には自己申告です。言ったもん勝ちだぜはっはっは。それに、なんかいちいち「拙訳」とか言うのも飽きちゃってさあ。そりゃ七転八倒した挙句に忸怩(じくじ)たる思いを抱えたまま世に送り出す原稿も少なからずありますから、そういうものは「拙訳」とか「拙稿」とか呼んでもいいけど、自分なりに手応えが感じられたときくらい「これはいい訳ですよ!」って言ってもいいよねぇ。だいたい「うちの店の料理まずいけどぜひ食べてってください!」っていう料理人がいるか?「お客様の身体にいまいちしっくりこないスーツを仕立てますが当店にお任せください!」っていう仕立て屋さんとかさ、聞いたことないでしょうよ。「天下一品」を名乗るラーメン屋さんに対して許される批判は「オレにはそうは思えない」であって「証拠はあるのか!」っていう人はいないしね*1

てなわけで、みんなも今日から勝手になにかの世界一になるといいよ!

「世界一」の有効期限

さて、調子に乗って日本一だの世界一だのさんざん騒いできましたが、翻訳であれスポーツであれなんであれ、「いちばん」であることに価値があるのは、言うまでもなくその営為自体の価値が社会において広く共有されている場合に限ります。『ドラえもん』の主人公・のび太がその常人離れした寝つきのよさと卓越したあやとりの腕前のわりに周囲からあまり尊敬されていないのは、のび太が身を置く学校社会においてその2つの特技が高い価値を付与されていないからに他なりません。

もとい、寝つきはともかく「あやとり名人」の方は60~70年くらい前であればクラスの人気者になれるポテンシャルを秘めていた気もするのですが、今日では「おはじき名人」や「お手玉名人」と共に没落してしまいました。事ほど左様に「価値」とは時代の流れに沿って移り変わってゆくわけです。

では「翻訳」はどうでしょうか。

果たして「翻訳」という営みは、この社会において永久不変の価値を約束されているのでしょうか。

なぜわざわざこのような問いを立てるのか、読者のみなさんならもうおわかりですよね。そうです、機械翻訳です。加速度的な進化を続ける機械翻訳の存在によっていまや翻訳業界全体が、少なくともその市場価値を本格的に脅かされる局面に入っています。

そこでひとつ、私からみなさんに改めて質問があります。

みなさんは、将来、翻訳がすべて機械によって行われる時代がやってくると思いますか?

私は、断言します。

そんな時代はやってきません。

未来永劫(えいごう)、到来しません。

機械翻訳の現在地

翻訳を生業(なりわい)とする人の中でも、機械翻訳を商売敵として遠ざける人から積極的に関心を示し共存の道を模索する人まで、距離の取り方はさまざまでしょう。また、前回の記事でも触れたとおり翻訳は高度に細分化された専門性の高い仕事ですから、分野によっては日頃から翻訳支援ツールを大いに活用しているという人もきっといるだろうと思います*2

私はといえば、ぜんぜん詳しくはありませんし仕事で使った経験もないのですが、それでも近年、従来型の統計的処理からディープラーニング(深層学習)と呼ばれる方式が主流になってからのおそろしいほどの進歩には野良の語学屋としてそれなりに注目し、人並みに慄(おのの)いてきたつもりです。加えて今回、この記事を書くにあたり、数ある機械翻訳の中でも圧倒的なクオリティを誇るとされる「DeepL」を使って簡単な実験をしてみました。

実験その1:新聞記事

手始めにフランスの有名紙『ル・モンド』から、ワクチン・パスポートに関する記事の冒頭を翻訳させてみました。結果はこちら。

国民議会は7月25日(日)夜、フランスで8月初旬からの保健パスの延長を定めた「コロナウイルス流行の管理に関する法案」を承認しました。この文章は156票対60票で採択されました。日曜日の初めに、共通のテキストに合意するために合同委員会を開いた両院の14人の国会議員は、夕方には合意に達していた。【DeepL訳】

ご覧のとおり、極めて明瞭な訳文が出力されました。一部に不適切な訳語が認められますが、おそらくこれは文脈情報を追加すれば解決される類いの問題です。気になるのは文末形式(ですます/非ですます)くらいで、この種の日本語に特徴的な問題を解決するのが技術的にどの程度難しいのかは私のような機械音痴には知る由もありませんが、いずれにせよ致命的な欠点と呼ぶほどのものではないでしょう。

実験その2:スラング

次に、簡単なスラングを入力してみました。結果はこちら。

Putain c’était trop bien!!

凄く良かったです/めちゃくちゃ良かったです【DeepL訳】

こちらは選択肢が2つ提示されました。いずれも原文のお下品さに比べるとかなりお行儀のよい訳になっています。試しに追加で情報を与えてみると、

T’as vu le spectacle? Putain c’était trop bien!!

ショーをご覧になりましたか? 凄くよかったです。【DeepL訳】

あれあれ?よかれと思って情報を足してあげたのにかえって余計にお上品になってしまいました。どうやらこの辺はまだ課題がありそうです。

実験その3:戯曲

今度はとある現代戯曲から台詞を抜き出して翻訳させてみました。これは著作権の問題が生じそうなので引用は避けますが、全体にかなり自然な会話体として出力され、文法的な瑕疵(かし)もわずかでした。

実験その4:詩

最後は最難関案件。ずばり「詩」です。それもボードレール『悪の華』より「憂愁」を投入。どうですかこの泣く子もますます泣き叫ぶこと間違いなしのセレクト。子どもはおろかぴらの先生もギャン泣きしながら裸足で逃げ出してしまいそう。で、結果はこちら。

Quand le ciel bas et lourd pèse comme un couvercle
低くて重い空が蓋のように重くなると

Sur l'esprit gémissant en proie aux longs ennuis,
長い悩みの中でのうめき声のような心の動きについて。

Et que de l'horizon embrassant tout le cercle
そして、地平線から円全体を包み込むように

Il nous verse un jour noir plus triste que les nuits;
夜よりも悲しい黒い日が降り注ぎます。

さすがと言うべきか、今度ばかりはDeepL先生も修辞的な構造を根本的に捉え損なっています。おかげでちょっとボードレールが好きになりそうです。やっぱやるなあいつ。

さらに悪い意味で注目すべきは、計算で処理しきれなかったと思われる部分に適当な語彙を補いなるべく意味が通るような調整を施しているところ。あまつさえ、読点を勝手に句点に変更するという暴挙にまで出ています。こうした、間違いを見えにくくしてしまうやり方の危険性についても前回の記事指摘しましたが、「深層学習」だけに人間が深層に抱えるダメなところまで学習してしまうのでしょうか・・・。

以上で簡易実験は終わりです。ボードレールはともかく、いや、ボードレールも含めて、どんなテクストを前にしても「無難で通じやすい意味をたちどころに提示する」機能の進化には隔世の感があり、今後さらに精度を高めてゆくであろうことは想像に難くありません。

しかしそれでも私は断言します。翻訳がすべて機械によって行われる時代など決してやっては来ません。それどころか、「無難で通じやすい意味をたちどころに提示する」機能を高めてゆけばゆくほど、機械翻訳は翻訳から原理的に離反してゆくという矛盾を深めてゆくことになります。

なぜなら翻訳を翻訳たらしめているものとは、その不可能性に他ならないからです。

言語はただの情報ではない

先述のとおり機械翻訳の具体的な技術にはさっぱり不案内な私ですが、統計的手法であれ深層学習であれ、言語をデータとして、純然たる情報として取り込み処理していることに変わりはないはずです。つまり、国立情報学研究所が行ったあの有名プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」でリーダーを務められた新井紀子さんもご自身の著作『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』で指摘されているとおり、機械(人工知能)は「意味」を理解しない*3したがって文章が「読解」できない。どんなに理解しているように振る舞っていてもそれは「ふり」に過ぎず、実際には言語運用にまつわるあらゆるデータを大量に取り込み、解析し、計算しているだけであって、ひとつひとつの表現に隠された「逸話」や、言葉から立ちのぼる「匂い」や、表記から感じられる「手触り」や、句読法が巻き起こすグルーヴを味わうことも、誰かに伝えることも、機械翻訳には叶(かな)わないのです。「オッケーGoogle!」と親しみを込めて呼びかけようが「Alexa、電気をつけて」と依頼表現を用いてお願いしようが、そこにはただ、すべて等しく情報としてフラットに演算処理する計算機があるだけです。

しかしながら言語とは、すくなくとも言語を愛する人間にとっては、演算処理で置き換え可能な情報などではありえません。世界中に現存する約7000もの言語の、そのひとつひとつが、幾重にも層を成す歴史的文脈、固有の文化習俗やメンタリティによって支えられています。日本語と韓国語のようにそっくりな文法構造を持ちおそらくは文化史的にも共通するところの多いであろう言語や、フランス語とイタリア語のようにもはや起源を完全に同じくする言語にすら、一見そっくりな語彙の用法から時制の機能、音の構造に至るまで、長い時間をかけて形成された差異が潜んでいます。そしてこの「差異」は、どれほど高い学識や豊かな経験値をもってしても完璧に翻訳しきることができない。他者の言語の内奥に潜む「翻訳不可能な地平」を前に茫然(ぼうぜん)と立ちすくみ、途方に暮れながらも気力を振り絞って、ときに敢然と、ときにとぼとぼとその近傍を廻(まわ)り続ける態度にこそ翻訳という営為の核心があるのだ、と私は考えています。

すなわちひとつの言語を学ぶとはとりもなおさずその言語に連なる人と文化に分け入ることであり、歴史の層に目を凝らすことであり、自己の血肉を成す感覚と他者の血肉を成す感覚とのあわいに横たわる差異の深さを推し量ろうとすること。人はこの差異の発見を通して他者と出会い、かつ他者を鏡として自己と出会い直すのです。そして翻訳とは、自己と他者を隔てる深さと遠さに慄きながらなおも橋を架けようとする絶望的な試みに他なりません。まさにこの一点において「翻訳」は、肉体を伴った他者を経由することなく情報の置換のみを行う「機械翻訳」と根源的に隔たっていると言えます。それどころか、情報処理の過程において不都合な差異を切り捨て最適化された回答を出力することは、言語の壁を取り払い世界を広げて人と人とのコミュニケーションを促進する一助となるようにみえてその実、他者性を不可視化し、「出会い」を根底から阻害する行為であると解釈することさえ可能なのではないでしょうか。

あいさつがわりにクソを投げろ

と、興奮しながら書いていたら珍しく話が観念に寄り過ぎてしまった気がするので、このあたりでひとつ、私の主戦場のひとつである「劇場」での慣習を例に挙げて話を進めましょう。

演劇であれダンスであれ日本の舞台芸術の世界では、演者からスタッフまですべてのセクションの準備が整い、いよいよ劇場の扉を開けてお客様をお迎えするぞ!という際に、舞台監督が「客席開場します!よろしくお願いします!」と挨拶(あいさつ)し、それに応じる形で関係各位が「よろしくお願いしまーす!」「よろしくお願いしまーす!」と声を掛け合うのが一般的です。毎回行う儀礼のようなものですが、とりわけ公演初日の客席開場は、企画の立ち上げから度重なる打ち合わせ、キャスティング、稽古の日々というアナログで果てしない道のりを経てようやくお客様をお迎えする晴れの瞬間ですから、何度経験しても万感極まるものがあり、「よろしくお願いします!」にも自(おの)ずと気持ちが入ります。

翻ってフランスの劇場でも、本番前に必ず交わされる言葉があります。“Merde!(メルド)”です。“Merci!(メルシー)”じゃなくて“Merde!”。逐語的に直訳すると「糞」という意味です。そう、読んで字の如(ごと)く排泄物の「糞」という言葉を、事もあろうにいよいよ舞台の幕が上ろうという厳かなひとときに、俳優、スタッフ、演出家らが互いに投げつけ合うのです。

この奇矯な慣習の起源は、一説には19世紀に遡(さかのぼ)ると言われています。当時のフランスでは、観客の多くは辻馬車で劇場へやって来たらしく、馬車はそのまま公演が終わるまで劇場の前で待っているわけですが、生きものですからその間に排泄をする。お客さんの数が多ければ多いほど馬車の数も増え、排泄物の量も増える。つまり、劇場前の馬糞の量と公演の人気は比例することになる。このことから、「劇場前の通りが馬糞で埋め尽くされるくらいの大成功になりますように!」という意味を込めて“Merde!(糞)”と言い合うようになったというのです*4

この手の話はたいてい「一説には」止まりであって、“Merde!”に関しても決定的な裏付けがあるわけではありませんが、それでも近代フランスの劇場通りで観劇に胸を躍らせている人々の姿が浮かんでくるようで、なんとなく愉快な気持ちになります。またこの話のおもしろいところは、遠い西欧のいわゆる「ゲン担ぎ」でありながら、日本で生まれ育った人もなんとなく親しみを覚えやすいところ。ほら、日本でも鳥のフンが直撃したり犬のフンを踏んだりすることを「ウンがつく」と表現したりしますよね。こうした偶然の響き合いがもたらす親近感は決して小さくないように思います。

さて、劇場に戻りましょう。

日仏協同チームで制作した作品が晴れて初日を迎える際も、フランスチームはいつもどおり互いに“Merde!”と言い合います。もちろん日本チームにも声をかけます。当然日本人は一様にポカンとしますが、通訳者が間に入ることで上述の逸話が伝わると、おもしろがってだんだん自分たちも「メルド!」と言うようになったりします。

一方のフランスチームにも、劇場内を飛び交う「よろしくお願いしまーす!」に興味を示す人がすくなくありません。これまたフランス語に訳すのがとても面倒な精神性に依拠したフレーズではありますが、なんとか説明すると「日本では劇場にも礼儀作法が偏在しているんだね!」と感心してくれたりして、喜んで「オネガシマース!」とか言う人が出てきます(「ヨロシク」はフランス人には若干難易度が高い・・・)。

初日があけてしばらくすると本番前の劇場のそこかしこで「メルドー!」「オネガシマース!」と笑顔で言い合っていることも珍しくありません。仕事を共にする者同士がお互いの他者性に向かって一歩踏み出すこの光景を間近で眺めていると、なんとも言えず愛(いと)おしく、心が温まります。

でも、仮に超高性能の機械翻訳(通訳)機が膨大なデータを演算処理した末に「Merde!⇄よろしくお願いします」と最初から出力してしまったらどうなるでしょう。はたして上述のような「出会い」は生まれるでしょうか。意志の疎通を最短距離で済ませて通り過ぎてしまうのではないでしょうか。劇場へ急ぐ人々でひしめく乗合馬車の蹄(ひづめ)の音を聞くことも、挨拶好きな日本人の精神性とその背後にある複雑に階層化された人間関係を垣間見ることもないままに、互いの他者性を通り過ぎてしまうのではないでしょうか。

訳せないことを訳して訳す

もうひとつ、せっかくなので最新の事例を挙げましょう。冒頭で述べた演劇作品『KOTATSU』の稽古場からです。

演劇の稽古というものはたいてい「読み合わせ」と呼ばれる作業から始まります。衣装を着て立って動いたりせず、まずは台本を声に出して読みながら内容面も含めて確認してゆく作業です。これにどのくらいの時間をかけるかは演出家(や世代や流派など)によっても違いますが、古典作品や翻訳台本に取り組む際は時代状況や文化的背景に関する理解を深めチーム全体で共有するために日本人作家の作品よりも多く時間を割いて読み込むのが一般的です(たぶん)。

とりわけ『KOTATSU』の場合、戯曲を書いたパスカル本人が演出も手がけるので、作品執筆に至る経緯の説明から始まり、シーン毎(ごと)に込めた意図や人物造型なども含め詳細な解説がなされるとともに、俳優やスタッフとの質疑応答も行われるなど、大学のゼミを思わせる形式で行われます。

同時に、パスカルから私に対しても質疑が入ります。もちろん翻訳に関してです。

「この台詞はこれこれこういう暗示を含んでいてすごく重要なんだけど、どんな風に訳した?」「こういう罵倒表現って日本にもある?」「このジョークはちゃんと通じてる?日本のお客さんも笑ってくれるかな?」

訳しきれないフランス語を限界まで日本語に訳し、さらにその日本語訳に滲(にじ)む趣きを再びフランス語に訳して作者本人に説明する。こう書くとややこしい作業に思われるかもしれませんが、おそらく読者のみなさんが想像されている10倍はややこしいです。しかしそれ以上に、翻訳する人間にとってこれほどの苦行はありません。対訳台本が配られ、「この台詞はこういうニュアンスですが、みなさん理解できていますか?」と、目の前で俳優やスタッフに尋ねて検証されるわけですから、いわば公開試験のようなものです。こうした、舞台芸術の翻訳以外ではなかなか経験しない試練に幾度となく晒(さら)されてきたことで、我ながら翻訳家として相当鍛えられたと思っています。

しかし、彼がこんなことをするのは決して私の翻訳を信頼していないからではありません。劇作家として、演出家として、ゼロ年代から日本の演劇界と交流を続け、現在も世界各国で創作活動を続けているパスカルは知っているのです。翻訳が単なる置換作業ではないことを。訳すとは抽象であるのみならず捨象でもあり、他者の言語への移行は、たとえ最良の形で行われたとしても、必ず訳しきれぬ余地を遺してゆくことを。そして他ならぬその余地の存在こそが人間に、自分ではない誰かに出会いたいという欲望を喚起するのだということを。

私に訳を訳させ、自らの言葉が日本語と日本語世界に受容されてゆく過程を窺(うかが)い知ろうとすることで、彼は彼のやり方で、永遠に掌握し得ない他者世界への肉薄を試みているのでしょう。私の知る限り、広く世界で成功している作家や演出家で翻訳不可能性に無自覚な人はいません。みな、翻訳を逃れさってゆくものの痛みを甘受しながら、自らの詩性に潜在するはずの、なにがしかの普遍を信じて創作を続けているのです。

翻訳が絶滅するとき

翻訳がすべて機械翻訳によって行われる日など永遠にやってこない。

ここまで読み進めてくださったみなさんには、この言葉が真に意図するところがもう十分すぎるほど伝わっていると思います。今後、置換装置としての性能をどれほど高めてゆこうと、否、高めてゆけばゆくほど、機械翻訳は「翻訳」から遠ざかってゆきます。たとえ地球上のすべての言語コミュニケーションが機械によってデータ化され置換される日が来ても、機械が「翻訳」を営む日はやって来ません。今日、機械翻訳と翻訳をつなぐ唯一の拠(よ)りどころは、演算処理しきれない部分の存在それ自体なのだから。置き換えきれない余地に阻まれ続けていることで、機械翻訳はかろうじて、逆説的に、「翻訳」の近傍にとどまっているのだから。

けれど、機械翻訳が「翻訳」になれる日が来ないとしても、機械翻訳が「翻訳」を殺す日は遠くないかもしれません。あるいは、それは既に着々と進行しているのです。人が、言語の内奥に堆積する歴史の層を軽んじ、文化的アイデンティティを見失い、「意味」を理解するがゆえに悶(もだ)えのたうち狼狽(ろうばい)する人間の介入を自ら切り捨て、表層的な情報を最大限の効率で置換し流通させること「のみ」に特化したツールとして言語を極限まで貶(おとし)めることに成功したとき。そうしてあらゆる言語文化的差異が不可視化され、ついには人々が他者と出会うことを、それとは知らぬまま、放棄したとき。

「翻訳」は絶滅するのかもしれません。

すくなくともいったんは、喪(うしな)われるのかもしれません。

私には、その可能性を否定するだけの材料がありません。

では仮に「翻訳」が絶滅したとして、はたしてそれは、悪いことなのでしょうか。

実を言うと、私にはよくわかりません。

だって価値観はうつろいゆくものだから。今は絶対だと思っていること、誰もが常識と見做(みな)していることも、永久不変である保証など、もとよりあろうはずもないからです。

印刷術のことを考えてみましょう。オフセット印刷が主流になって久しい現在でも、「古き良き」活版時代の温かみ、インクの滲みといった味わいを懐かしみ再現しようとする人たちもいます。けれど活版はおろか木版印刷すらなかった時代、人々はあらゆる書物を筆写していました。仏教やキリスト教の経典や教典を一文字、一文字、誠心誠意書き写すことに明け暮れていた人々にとって、効率を優先して印刷術を活用することは堕落や不信心の象徴に映ったかもしれません。

実際、イスラム世界における印刷術の受容はたいへん遅かったことが知られています。なんとグーテンベルクによる活版印刷術の発明が伝えられて間もない1485年には、ムスリムがアラビア文字で印刷することを禁じる勅令がオスマン朝によって出されているのです。『クルアーン』に記されたアッラーの言葉を伝えるための神聖な文字であるアラビア文字を西欧の異教徒が発明した機械*5で複製するなど断じてまかりならん、というのが主な理由だったようで*6、イスラム世界で印刷術が定着したといえるようになるには実に19世紀を待たなければなりませんでした。

そして2021年7月現在、『クルアーン』はKindleで買えます。

やっぱり、今を生きているだけの人間にわかることなどほとんどありはしないのでしょう。機械翻訳に翻訳家たちが駆逐されても、自動運転にタクシー運転手たちが殲滅(せんめつ)されても、「着のみ着のままで逃げて来た難民でも過不足なく権利を訴え自己の尊厳を守ることができる時代」の到来が、あるいは「見知らぬ人と密室で長時間移動を共にする緊張とリスクを回避する手段」の実現が寿(ことほ)がれる未来がすぐそこまで迫っているのかもしれません。

そのときが来たら私は、しずかに退場しようと思います。

さみしい、と呟(つぶや)きながら。

きっとあらゆることには終わりがあるのだから。

そして終わりとはたぶん、救いをもたらすものでもあるのだから。

終わりに

思いがけなくさみしい結びになってしまいましたが、そういうわけで、今回をもって本連載は終了します。

断じて人気がなくなったからではありません!それどころか毎回身に余るほどの大好評で、無名の書き手として読者のみなさんのご厚意にどれだけ励まされたことでしょう。

ネタが尽きたわけでもありません!生きることがすなわち多言語活動である私のような人間には、ふつうに暮らしているだけで書きたいテーマが汲(く)めども尽きせぬ泉の如く湧いて来ます。

編集部と揉(も)めたわけでもありません!毎月これだけ好き放題書かせていただいておいて、EJOさんに不満のあろうはずもなく、なかんずくnoteやTwitterで放言していただけの私に連載の場を与えてくださった担当編集者の阪口さんにはどれだけ感謝してもしきれません。2000~3000字が予定されていた連載枠で毎回1万字書いた挙句、ついには2万字以上書いて月刊連載のはずなのに2日連続掲載させるなど、常識外れのやりたい放題で当初の想定をはるかに超えるご負担をおかけしてしまったことを申し訳なく思っております。阪口さんがいらっしゃらなければこの連載はなく、単著の出版もありませんでした。この場をお借りして改めてお礼を申し上げます。今まで本当にどうもありがとうございました。

最後になりますが、そういうわけでぴらのまだまだ書けるんで!ほんとは短いテクストも得意なんで!!あいつうちで書かせてやろうかな、という酔狂な御仁のお声がけをいつでもお待ちしてるんで!!!

それではみなさん、全23回、単純計算で23万字のご愛顧をありがとうございました。またいつかどこかでお会いいたしましょう。

あっ。

あるいは「いつか」と言わず、豊岡演劇祭へいらっしゃいませんか?

劇場でお待ちしています。

世界一の「翻訳」を携えて。

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参考文献・リンク

・新井紀子『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)

・高松洋一「オスマン朝における活版印刷の導入 イブラヒム・ミュテフェッリカの印刷所開設(1727)を中心として

・鈴木董「後期イスラム世界における紙と書物

・ASOBOAD「世界を巡る!印刷技術の進化と歴史

・CAPPAN STUDIO「活版印刷とは

*1:いたらそれはそいつがわるい。

*2:産業翻訳の実情に不案内なもので、これについてはイメージで書いておりますことを予(あらかじ)め申し上げておきます。

*3:「AIは意味を理解しているわけではありません。AIは入力に応じて「計算」し、答を出力しているに過ぎません。AIの目覚ましい発達に目が眩んで忘れている方も多いと思いますが、コンピューターは計算機なのです。計算機ですから、できることは基本的には四則演算だけです。AIには、意味を理解できる仕組みが入っているわけではなくて、あくまでも「あたかも意味を理解しているようなふり」をしているのです」

*4:実は試験を受ける直前の学生に対しても「うまくいきますように!」という意味で“Merde!”と声をかけます。またこのとき、“Merci!(ありがとう)”と返してはいけないことになっています。これは「悪い言葉をわざと口にすることで悪運や悪魔を遠ざける」という言霊を用いた魔除けが起源ではないか、という説もありますが、やはり確かなことはわかっていません。

*5:活版印刷技術自体はグーテンベルクよりはるか以前に中国で開発されていたようです。https://cappan.co.jp/archives/2116

*6:加えて、写本を貴重な収入源としていた「写字生」と呼ばれるアルバイト学生が失職してしまう、という理由もあったようです。技術革新に付随して雇用問題が起きるのはやはり今も昔も変わらないんですね。

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur