ENGLISH JOURNAL ONLINE

「翻訳には高い日本語力が必要」ってほんと?

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。「翻訳するには高い日本語力が必要」とことさらに強調されることがあるのはなぜか?今回は、なかなか正面から語られることは少ないかもしれない)題目に迫ります。

「翻訳するには高い日本語力が必要」?

EJOをお読みのみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。

梅雨も盛りにて不穏な空模様が続いておりますが、読者の皆様におかれましては変わらずご健勝のことと拝察いたしております。拝察はいたしておりますがこれはあくまでも読者の皆様とSNSなどを通じて日々お接し*1する中で私が肌感覚として受け止めているということです。ただ皆様から直接そういうお言葉を聞いたことはありません。そこは誤解のないようにお願いします。

というわけで誤解こそが正解に違いないなどと誤解してしまうと正解に辿(たど)り着いてしまうことが強く懸念される見込みを禁じ得ず極めて遺憾なアイランドでは今日も味わい深い表現が百花繚乱(りょうらん)の相を呈しております。「霞ヶ関文学」という言葉まであるくらいですし、これはこれで、ある意味での「高い日本語力」を有していなければ出来ない芸当なのかもしれません。

さて、日本語力といえば、この仕事をしているとよく「翻訳って、外国語はもちろんですけど、日本語力が高くないとできないですよね!」と言われたりします。ブログやSNSでも同趣の発信をよく目にしますし、現役で翻訳をなさっている方の談話や、通訳・翻訳学校のサイトなどで「翻訳、通訳には高い日本語力が不可欠」と強調されていることも珍しくありません。

えー。

でもなー。

それって、ほんとにほんと?

「高い日本語力」ってなんだ?

外国語から母語へ訳すという営みにおいて、前者のみならず後者にも常人より秀でていることが望ましい、という指摘自体はもちろん極めてまっとうで、なんら批判するところはありません。誤解とそれに基づいた不幸な批判を避けるためにも、そこは明言しておきます。翻訳を志す人にとって日本語の力はとても大切です。

ただそれでも、あまりそれを強調することには私は抵抗を覚えます。

だってさ、そもそも「高い日本語力」ってなんすか?

例えばですね、与謝野晶子と谷崎潤一郎と金子みすゞと三代目古今亭志ん朝と阿久悠と山本夏彦と佐野洋子とナンシー関*2だとどの人の日本語力がいちばん高いことになるんですか?

まあ上の例は文芸に偏っていますけれど*3、一口に「高い日本語力」とか言われても、華美な文体から端正な文体、粋な物言いからどぎつい物言い、明示的な喩(たと)えから暗示的な喩えまで、日本語も実にさまざまで、それぞれに趣きがあります。序列をつけて最上のものを覚えれば事足りるというわけにはいきませんし、かといって、よく見聞きするような「あらゆるジャンルの媒体に絶えず目を通して引き出しを増やしておく」というやり方にはどう考えても限界があるんだなあ。人間だもの(ぴらを)。

だいたいさあ、翻訳にだって専門分野があるわけじゃないですか。私みたいに専ら文芸ばかりの人間もいれば、医療、法務、金融、ファッション、観光、スポーツ、ゲーム、土木、IT等々、世の中の産業の数だけ翻訳の種類もあるわけで、漠然と「翻訳」という言葉では到底括(くく)れません。すくなくとも私は一歩でも自分の専門領域の外へ出たらその瞬間から何の役にも立たなくなる自信があります。それどころかまかりまちがって医療や土木の翻訳なんかしようもんなら余裕で人命に関わるよね!翻訳家は用法容量を守って正しくお使いください!

で、翻訳が高度に細分化された専門性の高い分野であるという(意外に知られていない)現実に鑑みれば、わざわざ「高い日本語力」のような広大無辺な到達(不可)目標を掲げなくとも、自分自身の興味関心や適性を見極め仕事の方向性を定めてキャリアを積んで(=勉強して)ゆけば、その分野に必要な日本語の力も自ずと涵養(かんよう)されてくると考えていいような気がするんですね。

これが、「翻訳には高い日本語力が不可欠!」とことさらに強調する必要はないんじゃないかな、と私が考える1つ目の理由です。えっまだあんのかよ。すいませんまだあります。

原文が「読める」ってなんだ?

実は私自身、戯曲や小説を訳していて「意味はすごくよくわかるのに日本語が追いつかない!」みたいな気持ちになること自体は珍しくありません。いや、よくあるかも。むしろすごくよくあるかも。なんだよあるのかよ。あるねえ。あるともさ。

でも、はっきり言って大抵は錯覚だと思っています。どうにも訳しきれないつらさと焦燥がそういう感覚を引き起こしているに過ぎないのであって、実際にはほとんどの場合、原文が「読めて」さえいれば訳文は自ずとついてくるというのが私の実感であり、それは修辞を漲(みなぎ)らせた現代詩のようなものとて同じことです。

では、原文が「読める」とはどういうことなのでしょうか。あまり厳密な話を始めるときりがないのですが、特に重要な点を私なりに整理してみたところ以下の3つに分類できました。

「読む」ための心得その1. 精確な文法理解に則(のっと)って読む

はい、まずはコレ。どう考えてもコレ。特に説明の余地はありませんね。もとい、「えっそこから話すの?プロの翻訳家が?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に苦しむのも最後まで苦しむのも結局は文法なのでして、ここは定冠詞なのか不定冠詞なのかはたまた無冠詞なのか、みたいな理(ことわり)が完璧に理解できて使い分けられる日はね、はっきり言って来ないよね。永久にね。ネイティヴに訊(き)いたって「そういえばなんでだろーねー」とか平気で言うもんね。ばーかばーか。

などと短気を起こして逆ギレするのがいちばんいけないのであって、まずは愚直に偏執的に、文法的な正しさをとことん突き詰めて理解する作業を怠らないことが、「読む」ための第一歩です。

「読む」ための心得その2. 論理を的確に把握しつつ読む

さて、たとえ文法に精通していたとしてもそれだけでは原文が「読める」ことにはなりません。2つ目に重要なのは、文法的な正しさから一歩踏み込んで、原文と、というか作品世界を貫く論理とその展開をきっちりおさえながら読むこと。SFであれ幻想奇譚(きたん)であれ現代詩であれ、一見どれほど突飛で荒唐無稽に見えても、人間の筆になるテクストは必ずなんらかの論理的必然を孕(はら)んでおり、すべてはそれに則って進行するものだからです。逆に言えば、原文を支配している論理が精確に取り出せるようになればなるほど、訳文自体の質も自(おの)ずと高まってゆくことになります。

ただしこの場合の「論理」とはわかりやすい理屈や理由づけのようなものではありません。また、厳密に言えば作者の意図ともイコールとは限りません。とりわけ物語の場合、この連載の第14回でも書きましたが、優れたテクストほどある時点から作者をも離れてそれ自体が自律した運動体となる傾向が顕著だからです。

・・・とかなんとか批評論めいた壮大な話を始めて読者を煙に巻くつもりが墓穴を掘ってしまうことだけは避けたいので、ここでは便宜上、ぐっと単純に「文脈」の理解に焦点を絞って考えてみることにします。ついてはちょっと以下の文を見てください。

例:「もういいって、その話は」*4

この文(台詞)自体は文法的には極めてシンプルで、日本語を母語にしていない人から見ても特に難しいところはないはずです。しかし、いざこの台詞に込められた真意を厳密に解釈しようとすると、少なく見積もっても4つのパターンが想定されます。

解釈A:拒絶、却下、不快感の提示など/「(またその話するの?)もういいって、その話は(したくないよ)」

解釈B:解決、和解、トピックの無効化など/「もう(する必要がなくなったからしなくて)いいって、その話は」

解釈C:伝聞/「もういいって(〇〇さんが言ってたよ)、その話は」

解釈D:判別不能

言うまでもなく、上記A~Dのどれを選択すべきかはこの一文が文法的に正しく読めるだけでは判断できません。作品全体を貫くテーマや物語の流れ、個々の登場人物の性質および特定の相手との関係性、ならびに彼ら彼女らが置かれている状況・・・文脈を構成するあらゆる要素を刮目(かつもく)して読み込み、その表現が生み出される根拠を突き止めて決定する必要があります。また、判別不能である場合にも、判別不能であると結論できるだけの根拠を揃(そろ)えたうえで、それ相応の対処を考えなくてはなりません。

と、こうして改めて書いてみると「その1」に負けず劣らず当たり前の内容ですが、書かれたものが意味するところを精確に抽出するという作業は、実は母語であっても決して容易ではありません。「え、これどういうことかな?」「ちょっと何が言いたいんだかわからないな」と思いつつ読み飛ばしてしまうようなこと、みなさんも日常的にしていますよね? いわんや外国語をや、というわけです。

実際に翻訳の仕事をしていると慎重に慎重を期して何度読み返したつもりでも思わぬところでびっくりするような取り違えに気づくもの。そんなときは声が出ちゃいます。しかも「へゃっ!?」とか「あっぴょおっっ!」みたいな、ほとんど鳴き声みたいなやつが飛び出します。それが最終チェック時だったりした日には「あっぶねーーーーーーーー!!!!!!!!!」と自宅でひとり絶叫しながら悶絶(もんぜつ)したりして、万一お隣さんに聞こえていたら(ていうか絶対聞こえてるけど)どう考えても私のほうがあぶねーやつです。すまんこっちも必死なんだ許してくれ。

ともあれ、些(いささ)か駆け足ではありましたが、「精確な文法理解」から一歩踏み込んだ「論理の把握」の重要性、おわかりいただけましたでしょうか。

「読む」ための心得その3. 「五感」を働かせて読む

あっ!

聞こえる・・・親愛なる読者諸賢の「は?」という声が。違うのだ、おぉ聞いてくれオリュンポスに棲(す)まう神々よ。って誰が神々だ。もちろんこれを読んでくださっている皆々様ですとも。昔から言うじゃないですか。「お客様は神様です」って*5 。てなわけで神様の諸君、EJ新書よろしくね!今買うともれなく一時的な免疫がついてくるよ*6!(※きません)

ええと、なんだっけ。どさくさに紛れて宣伝をブチこんだら例によって話の筋道を見失ったぞ。まったく論理の把握が聞いて呆(あき)れるよ。あ、「五感」の話ね。そうだったそうだった。

これは非常に単純で、文法と論理をおさえたら最後は感覚だよね、とまあそれだけの話です。あ、1行で済んじゃった。

ほら、どんなテクストにも固有のリズムとか、単語の手触りとか、行間からたちのぼる匂いみたいなものがあるじゃないですか。なぜ「垢(あか)抜けた」ではなく「瀟酒(しょうしゃ)な」と形容されているのか、「嫌だ」ではなく「気が進まない」と言っているのか、一文の長さと読点の配置が段落全体のグルーヴにどんな影響を与えているのか、斜体や傍点や太字が放つ明示的および暗示的効果はもちろん、改行や改頁のもたらす余韻が全体のトーンをどう整えて/乱しているのか・・・。

こうしたことを隅々まで感取しようとすれば文法や論理の力だけでは間に合わないのは明らかで、五感を総動員しながらテクスト自体を「生きる」必要があります。そしてそのために不可欠なのはなんといっても「量」をこなすこと。さまざまな趣きのテクスト*7を大量に、かつ緻密に読みこなす訓練を地道に積み重ねることでしか、「読む」ための五感は磨かれ得ないからです。逆に、五感が十分に発達してくると、思いがけない訳語まで「降って」きたりもします。そうして「えっ?いつの間に自分の中にこんな語彙が?」「生まれて初めて使う!」などと己のポテンシャルに喜び震えながら、横に編まれたテクストを縦に織りなおしてゆけるようになってゆくのです。

「読めて」いるのは誰だ?

原文を「読む」ための3つの心得、いかがだったでしょうか。まあ3つというのはあくまでも私の個人的な実感をもとにした便宜上の区分ではありますが、外国語の文章を然(しか)るべく読みこなして翻訳をするためには最低でもこれだけのことが求められるわけで、「日本語力の大切さとかことさら強調しなくてもよかないか」と訝(いぶか)る気持ちもご理解いただけたかと思い・・・たいのは山々なのですが!

「いやいや、3つの心得とか仰々しい前フリしといて、なにかと思えば当たり前のことばっかじゃん」

「仮にも翻訳のプロになるのであればその3つができるのは前提でしょ」

「外国語が『読める』のはプロとしての必要最低条件なんだから、やっぱり日本語力の大切さは強調して然るべきじゃないの?」

読者のみなさんの中には、そんな疑問を抱いた方もいらっしゃるのでは?

いや、まあ、うん。

そうなんだ。

理屈としてはそうなんだけどね。でもね。

その「当たり前」で「必要最低条件」であるはずのことが常に完璧にできてる人なんてそうそういないの!!

そう、一見すると呆気(あっけ)ないほど単純にみえる「読むための心得」ですが、これを一定以上の水準で恒常的に実践するのは並大抵のことではありません。一般の語学学習者はもちろん、プロとしてお金を頂いて翻訳に携わる人間にとってもそれは同じ。もっと有(あ)り体(てい)に言っちゃうと、プロでも読み間違えたりします。高名な翻訳家でもえらい大学の先生でも誤訳はします。そしてもちろん低名な翻訳家でえらくない野良のぴらのせんせいもします。もしも自分だけは間違えないなんて思っている人がいたとしたら、きっとそれがいちばんの間違いなんだなあ。人間だもの(ぴらを)*8

なぜか?

それは、外国語がとても難しいものだから。なんだかんだ言っても結局これに尽きると思います。

幼いころから皮膚感覚に刷り込まれてきた母語と違い、ある程度の年齢になってから勉強して身につけた非母語というのはどこまで行っても圧倒的に「遠い」*9。私など、やればやるほどわからなくなってゆくような感覚さえあります。むしろ翻訳を始めたばかりの大学院生時代のほうがもうすこし「オレって出来るなフフフ」と思っていたかも。いやあ、年食うと「優秀な学生」だったころの万能感が眩(まぶ)しいぜ・・・。

それにひきかえプロになってからというものキャリアを重ねれば重ねるほど自分の未熟さばかりが実感されてつらい。毎日毎日(いつになったら出来るようになるんだろう・・・)って思ってる。心から思ってる。思い過ぎて日に一度はこの仕事辞めたくなる。これはいわば、語学という決して完璧になり得ないものに人生を捧げる者の宿業でしょう。

(この単語引くの何回目だよ自分!)(げっこの代名詞こんな離れた名詞受けてたんかーい!)(え、ここでこの一文だけ時制がズレているのは一体・・・?)(なげえよ!ピリオドどこだよ!なにがどれにどこまで係ってんのかぜんっぜんわかんねえよおおおおおおおお!)

来る日も来る日もこのような悲鳴を心の中で(むしろちょいちょい声に出して)上げながら、赤の他人が外国語で書いたようわからん文章にかじりついてゆくのが翻訳という営みなのです。その難しさを知っていればこそ、「翻訳は日本語力が決め手!」みたいな物言いにイラ・・・疑問を覚えずにはいられないというわけです。

「日本語力」を警戒せよ

さて、ここまで主に外国語を「読む」という営為とその難しさについて問い直しつつ日本語力の話とかまじ100年はえーんだよという議論を展開してまいりましたが、これに関連して私が懸念していることがさらにもうひとつあります。

それは、外国語が本当の意味で「読める」人の少なさに比して、日本語がそれなりに達者な人は珍しくないということです。外国語好きが高じて翻訳を志すような人には子どものころから本や映画、舞台などに親しんできた人も少なくありませんから、そうした経験を通じて自ずと日本語の力も磨かれてきているのでしょう。そしてこのことはとりもなおさず、翻訳してみたい人や実際にする機会のある人の中に「外国語力は高くないけど日本語力は高い人」が相当数含まれていることをも示唆しているわけです*10。これは実に、実に警戒すべきことです。

なぜって、そういう人はわかりづらい間違いを量産するから!

あのですね、私みたいな得体の知れない野良の語学屋でも翻訳のチェックを頼まれることがあるのでして、学生さん相手ならまだしも、プロの方の訳稿を監修する機会まであり、それはそれは嫌です*11。仕方ないのでそういう時は必ず「文法や論理面についてのみ確認し、審美的なジャッジは一切しない」という条件を付けて引き受けることにしています。平たく言うと表現の巧拙については批評しないということですね。もっとこうした方がわかりやすいとか、ここの代名詞はわざわざ訳出する必要はないとか、そういう翻訳指導的なことはしない。ていうかできない。やったとしても単なる自分の好みの問題になっちゃう。私は先生ではなく実務家なので。

で、翻訳チェックをしたことのある人ならわかると思うのですが、誤訳というものは意外にも原文と照らし合わせるまでもなく発覚することもすくなくありません。日本語の訳文だけを読んで、「なんか変だな」「どうも辻褄(つじつま)が合わないな」「一見するとわかるようでよくよく読むとやっぱりわからん!」と感じたら、そこは原文からして読み違えている可能性が非常に高い。これは自分自身の訳文を読み直す場合も同様です。

ところが、なまじ日本語の表現力や文章構成力に優れている人の中には、合っていない辻褄を無理やり合わせるようなことをしてしまう人が存在します。おそらく本人も訳しながら「なんか変だな」と感じてはいるのでしょうが(しらんけど)、「変」の原因を限界まで分析しようとしないか、あるいはできなかったために、「よくわかんないけどこういうことかな?」「ふつうに考えてこういう意味だよね、きっと」と、自分の憶測に訳のほうを引き寄せるべく日本語のうわべをいじって違和感を緩和させ、間違いの痕跡を限界まで薄めてしまうのです。

もちろん、翻訳する際に自分の中で仮説を立てながら進めてゆくこと自体は自然であり不可欠でしょう。「AはBである」まで読んだ時点で「すなわちBはCに違いない」と推理しつつ読み進める姿勢もまた、「心得その2. 論理を的確に把握しつつ読む」の実践に他なりません*12

しかし仮説はあくまで仮説であって、緻密な実証によって裏付けられて初めて意味を成すもの。学力が不足しているがゆえの間違いは勉強と経験を積むことで漸減しますが、憶測に引き寄せて訳文を歪(ゆが)めるような行いは単なる間違いと呼ぶには不誠実で、傲慢とすら呼ぶべき態度です。翻訳や通訳を語るうえで「日本語力」なるものがあまりに喧伝されるとそのぶん外国語習得本来の難しさが軽んじられ、ひいてはこの種の捏造(ねつぞう)じみた間違いの誘因にもなるのではないかと、私は心から危惧しています。

我々はナメられ過ぎている

と、懸念を述べて締め括(くく)ってもそれなりに格好がついてよかったのですが、せっかくなので最後にひとつ、翻訳通訳業界の人たちの心をもっと大きくかき乱す話に触れておきます。

私がここまで縷々(るる)申し述べてきたような内容は、実は翻訳や通訳を生業(なりわい)となさっている方々ならみなさんとうにご承知のことばかりなのです。結局は外国語力が圧倒的に重要なのも、日本語力も無視できないとはいえ二次的三次的なスキルに留まるのも重々承知のうえで、それでも「翻訳には高い日本語力が不可欠」という話をことさらに強調する人や組織や媒体が後を絶たない。

ではなぜ、わざわざそんなことをするのでしょうか。

あくまで私見ですが、これは翻訳や通訳という仕事がその難易度の割に軽んじられている、もっと物騒な言い方をすれば「ナメられている」ことに対する、一種の逆マウントなのではないかという気がします。

翻訳や通訳というのは、際立って高い専門性を誇る職種であり、憧れや羨望の的になることも多い一方で、どこかうっすら「ナメられている」仕事であると、すくなくとも私は常に感じてきました。「ちょっと語学ができれば誰にでも出来る仕事だよね」と思われている、と。

このアンビバレントな傾向は、とりわけ英語を専門になさっている方なら実感なさる局面も多いのではないでしょうか。全世界規模で圧倒的な学習者人口を誇る英語の世界には、「そこそこ出来る」人ならたくさんいます。そして「そこそこ出来る」人ほど、ちょっとした翻訳や通訳くらいなら自分にだって出来る、という自負を密(ひそ)かに逞(たくま)しくしていることが珍しくありません。

「密かに」どころか、「この単語は知っているか」とクイズ形式で値踏みしてくる人や、「さっきのあそこの訳はあれじゃダメだよ」と居丈高にジャッジしてきたりするクライアントにうんざりしている英日/日英通訳者なら私の友人知人にもたくさんいます。ちなみにみなさん女性ですが、この手のマウントをとってくる側はほぼ例外なく男性だそうです。さもありなーん☆*13

実際、私自身も「子どもが生まれたら外に働きに出るのはかわいそうだしそこまで仕事に労力は割けないけど、せっかく留学経験もあるし翻訳くらいならできるかなって。なにか紹介してもらえたりしない?」とか「このまま就職決まらなかったらとりあえず翻訳でもしてみようかなと思って探してるんですよねー」あるいは「ちょっとだけなんで。そんなに難しい話しないし、すぐ終わるんでお願いできますか?(意訳:えっこれくらいタダでいいよね?)」みたいな、どこからどうつっこめばいいのか、いやどこからどうつっこんでも到底生きて帰せる気がしないみたいな気持ちになる相談を受けたことがあります。何度も、あります*14

ちなみに過去いちばんパンチが効いていたのは、ある西洋人から言われた「いいよねー、他人の書いたもの訳すだけでお金もらえるんだもんね(笑)」です。いや、これを言ったのがそもそも気に食わねー奴(やつ)だったら「そうだね、どうせなら最初から日本語で書き下ろせばいいのに君みたいにずっと日本にいながらいつまで経(た)っても日本語ができるようにならないノンネイティヴがいるくらいだから仕事が絶えないんだよね♡」と返して信頼と実績のぴらの式カウンター*15をサク裂させてやったところですが、事もあろうに親しい友人の言葉だったので衝撃のあまり凍りついてしまったことを覚えています。

さらに、このような直接的な「もやっ」「イラッ」に加え、クレジット問題*16や「いない人扱い」問題*17、翻訳は業績にカウントされない問題*18等々、先方の意図はともかく明らかに軽んじられていると感じる経験は、翻訳や通訳に携わってきた人間ならまったく無い人の方が珍しいのではないでしょうか。

やっぱオレたち、ナメられてんだよ!!!!!!!!!!!!!!

そして、そうした一連の業界軽視、専門性軽視に対する一種のカウンターとして、「我々は外国語のプロには留まらない。母語である日本語に関しても、日本人一般とは比較にならないほど高次の能力が要求される専門職に従事しているのだ」というテーゼを押し出し尊厳の回復を図ろうとしている面が無視できないように、私には感じられてならないのです。

でも、それって、得策でしょうか。

みんなで難しさを謳(うた)おう

翻訳通訳業界は潜在的に軽んじられやすい部分のある業界である。

もちろんこの意見自体にも賛否はあると思います。けれども残念ながら私個人は確信していますし、機械翻訳が凄(すさ)まじい勢いで人間の仕事を犯しつつある現状に鑑みて、今後、この傾向はいっそう加速してゆくだろうとも考えています。

それでも私は、「翻訳や通訳なんてちょっと外国語が出来れば出来る仕事なんでしょ」というまなざしに「外国語が出来るだけじゃダメなんです。日本語も出来なくちゃ」と返すのは悪手だと思っています。まず、専門的な知識や技能に加えて高水準の日本語運用能力が要求される職種なら作家、ライター、校閲者、編集者、ジャーナリスト、弁護士、検事、裁判官、政治家、秘書、教員、カウンセラー、営業職、実演販売員などなど他にもたくさんあるわけで、そこで差をつけようとするのはたぶん、単純に難しいから。

なにより、そうやって「高い日本語力」という漠然と審美的な見地から価値を高めようとすると、外国語が出来ること自体の価値を相対的に下げてしまうことにつながるからです。「外国語が出来るだけじゃダメ」と譲歩することで、外国語が「出来る」ことの凄みが殺されてしまうからです。

私なら、

「ちょっと外国語が出来てもダメなんです、異常に出来ないと」と真顔で答えたい。

「あなたの想定する『出来る』の2万倍は出来ないと話になりませんね」と超越的な数字を出したい。

「ナントカ検定1級?ナントカTEST満点?あっそれ最低ラインですけども」と毅然(きぜん)として査定したい。

そうして、外国語学習本来の難しさを臆せず謳うことで、私たち翻訳家が、通訳者が、今までに傾けてきた情熱、削ってきた体力、払ってきた犠牲、注(つ)ぎ込んできた資金、受けてきた支援、恵まれてきた出会い、そして今以(もっ)て追い求めている理想とそのために積み重ねている日々の修練とを正面から肯定し、自らの職能とその価値とを惜しみなく称揚したい。私たちはこんなにも難しいことをやっています、と胸を張りたい。たとえその価値を知る者が、数十年後には存在しなくなっているかもしれないとしても。

異国語を識りたしと思へども
異国語はあまりに遠し
せめては新しき単語を知り
きままなる旅にいでてみん

あーあ。

たったこれだけの話をするのに延々1万字以上も書いて、そのうえ着地に困って最後は朔太郎かよ。

やっぱりもっと高い日本語力を身につけないとな。

次回は2021年8月12日に公開予定です。

平野暁人さんの過去連載は「EJ新書」で読めます!

人気連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」の過去記事は、電子書籍のEJ新書『元劣等生が褒められ好きの通訳・翻訳家になって考えたこと』で読めます。書き下ろしの章「高い言語能力(日本語力)を成長過程でどう獲得したのか?」も必読です。

▼詳細・購入はこちら(各界の方々の推薦コメントあり)

こちらもおすすめ

*1:原文ママ。えっ?原文?

*2:いずれも鬼籍に入られているという点にぴらの氏の高い危機管理能力が見て取れるといえる。

*3:本稿では全体に文芸翻訳を念頭に置いて話を進めています。これは単に私自身に文芸翻訳以外の経験がほとんどないためです。あしからずご承知おきください。

*4:フランス語やイタリア語だと読める人が限られるので、あえて日本語の例文で考えてみます。せっかくだから連載を読んでくださっている方全員に伝わる方法で書きたいのだ!!それに、文章を「読む」ための心得は何語であろうと共通です。

*5:ほんとはそんなに昔からじゃないです。今からちょうど60年前に三波春夫が舞台上で口にした言葉です。https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html

*6:このように無理のある時事ネタに走ることで自信のなさを紛らそうとするところがぴらのせんせいの悪い癖であることは残念ながら否定できない。

*7:ここでいう「さまざま」はあくまでも同一ジャンル内でのことであって、小説と学術論文とサッカークラブの会報と料理のレシピと、みたいな意味ではないです。

*8:これ以上やると怒られる気がする。ごめんなさいもうしません。

*9:いまさらですが、本稿では日本語を母語とする人が翻訳する場合を想定しています。日本語が完全な母語ではない人、多元的な言語環境で育ち日本語の運用能力に有意の偏りが見られる人などに関しては無論、日本語力強化のための訓練を行う必要があるでしょう。

*10:あーあ。言っちゃった。嫌われるこれはいくらなんでも嫌われる。まあいいか。毒を食らわば皿までだ。嫌われても思っていることを言うストロングスタイルで生きてきたのでこのまま突き進みまーす。ろけんろー!٩( ᐛ )و

*11:わかってます。生意気ですよね。私だってやりたくてやってるわけじゃないんですよ!人様の仕事に目を通してあれこれ言うなんて気ばかり遣っていいことひとつもないんだから!どんなにギャラがよくたってやりたくないです。嘘(うそ)ですやっぱりものすごくよかったらやりたいです。でもそういう仕事のギャラがものすごくよいなんてことは原理的にあり得ないのでやっぱりひたすらやりたくないです。

*12:この点については通訳する際も基本的には同じで、論理に沿って展開を推理しながら聴いて訳さなければ間に合いません。そしてその推理の精度と速度を限界まであげるために事前学習がどれほど重要な意味を有しているかについてはよく知られているとおりです。

*13:まじめな話、実力の世界でプロとして前線に立っている技術者に対して女性だからとか若いからとかいう理由で侮ってかかる人は生きてるうちに恥を知るべき。とかここで憤ってもぴらの氏の読者にはそういう人はいなそうだから意味ない説。

*14:さすがに最近は激減しました。全身から匂い立っているのかもしれません。殺気が。

*15:別の人にこれとほぼ同じやつをカマシたことならある。というかもっとキツいやつをお見舞いした経験も数知れない。たいがいその場がこの世の終わりみたいな空気になるけど知らん。向こうがわるい。

*16:イベント告知のサイトや配布資料、あるいは翻訳を担当した映像素材などのクレジットに翻訳者や通訳者の名前だけ記載されていないケース。すごくよくある。すごくムカつく。もちろん記載を要求する。これがクレーム扱いされるとさらにムカつく。

*17:通訳が登壇するイベントで通訳者だけ名前を紹介されず、挨拶(あいさつ)もさせてもらえないままヌルッとイベントが始まるケース。ムカつく以前に(いやムカつくんだけど)すごくやりづらい。きっちり紹介してもらえるだけで居場所が拓(ひら)けてチームの一員として参加できるようになるので訳のクオリティも格段に上がります。みんなの幸せのためだからよろしく哀愁(古)。

*18:学術の世界では1000ページの難解な翻訳より紀要に載っている10ページの研究論文の方が価値が高かったりする。そしてその論文は査読者以外誰も読んでいなかったりもする(あっ)。

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur