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大人のカワイイファッションはNG?現代人の感性を考える

カワイイの奥深き世界

ハローキティやポケモンなど、今や世界中にファンを持つ「カワイイ文化」。その魅力は英語の「cute」や「beautiful」には収まらない奥行きにあります。この連載では、社会学をご専門とする遠藤薫さんと「カワイイ文化」の真髄に迫ります。

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「かわいい」と「素敵」は対立する?

ずいぶん前のことですが、世間的におしゃれな女性として通っている人のエッセイを読んでいたところ、次のような内容の一節がありました。

あなたが素敵な女性だと思われたかったら、サロペットのようなだぼだぼっとした服は決して着てはいけません。そんな服を着ている女性を、男性は「くまのぬいぐるみ」か「小さな女の子(a little girl)」のようにかわいい(cute)と思うかもしれないけれど、決して恋の相手(love interest)として惹(ひ)かれたりはしないでしょう。

たぶん、このエッセイストのイメージする「素敵な女性」とは、かつて一世を風靡(ふうび)したハリウッド女優グレタ・ガルボ(図1)のような女性なのでしょう。映像史家のE. カッツが、「ガルボに匹敵する魅力と神秘性を映し出した人はいない」と絶賛したように、ため息が出るほど美しく、気品にあふれ、知的で毅然(きぜん)とした女性です。そんな彼女のように魅力的な女性が、本来は汚れ仕事をする際に着用された「サロペット=つなぎ」を着ている様子は、確かにちょっと想像しにくいかもしれません。

Greta Garbo

図1 Greta Garbo for Ninotchka (1939).

しかし、冒頭のエッセイストの文章に違和感をもつ人も少なくないでしょう。第一に、「素敵な女性」かどうかは、「男性の恋の対象」という評価軸だけで決まるわけではないし、第二に、「かわいい」ことと「素敵」であることは、決して対立することではないからです。

おそらく、このエッセイストの評価の感覚には、第2回の記事で言及した「男性>女性」「大人>子ども」「人間>動物」のような序列が、「無意識のバイアス(Unconscious Bias)」としてしっかり埋め込まれていたのでしょう。しかしこのような序列に基づいて、サロペットのもつ「かわいさ」を「くまのぬいぐるみ」や「小さな女の子」のイメージだけに結びつけてしまうのは偏見だと言えます。

例えば、図2をみてください。これは「Diesel Black Gold Fall 2010」コレクションの一コマです。冒頭のエッセイで指摘されていた印象とは異なり、サロペットが「素敵に」着こなされていることがわかります。ランウェイを颯爽(さっそう)と歩く彼女が、「くまのぬいぐるみ」に見えるなんてことは、とても考えられそうにありません。

この画像のサロペットは、充分に大人っぽく素敵です。冒頭のエッセイが前提にしているような「カワイイ」に対する価値観は、決して絶対的なものとは言えません。

Diesel Black Gold Fall 2010

図2 Diesel Black Gold Fall 2010 コレクション

このように数世代前の価値観と比較してみると、現代は「カワイイ」をキーワードとして、先述したような「無意識のバイアス」が改めて問い直されているのではないでしょうか?

「カワイイ」ファッションは「幼稚」か?

一方で、この「無意識のバイアス」は違う角度からも議論の余地があります。2013年にコラムニストのハドリー・フリーマンが、イギリスのガーディアン紙に、「You want to dress up in a cute animal hat? Oh, please, just grow up!」という記事を寄稿しているのがよい例です*1。彼女は、ファッション界に「猫耳」のようなアニマル帽が進出してきたことにとても腹を立てています。

ファッションにはさまざまな楽しみ方があることを認めつつも、子どもではないのだから、子どものような服装をするのは許されないという主張です。女性たちが「カワイイ」ファッションに身を包む理由と、それに憤る理由を、次のように説明しています。

〔彼女たちがアニマル帽をかぶり、子どものようなファッションに惹(ひ)かれる背景には〕女性が若さを保ち、25歳よりも老けて見えないようにしなければというプレッシャーがあることは間違いありません。時にこのプレッシャーがあまりにも強く、当然のことのように思われてしまうと、女性は基本的に子どものように見えるべきだという暗黙のメッセージになってしまいます。このことこそが、世間で女性に求められている、32歳というよりも12歳に近いような馬鹿げた痩せ方の基準の背景にあるのです。女性の見た目を子どもっぽくすることは、女性を威圧的でなく、無力で、見下される存在にまで貶(おとし)めることです。女性が子どものような服装をすると、このような風潮を助長してしまうのです。

つまりこのコラムでは、「カワイイ」ファッションが流行る背景には、女性が年齢を重ねることを恐れるあまり、成熟した大人になることよりも、子どものままでいたいと願ってしまう風潮がある、と指摘されているのです。そして、大人の女性が自分を子どものように見せるということは、(男性に対して、あるいは世間一般に対して)女性はあなたを脅かすような能力はなく、無力で従順な存在に過ぎないと、自分を貶(おとし)めるアピールをすることになってしまう、と警告しているのです。

だからこそ彼女は、「あなたは、強く、賢く、知的な女性です。そのことをいけないことだと思ったり、自分より小さく、幼く、愚かで、細くて、動物みたいになりたいなんて思ってはいけません。だから、普通の服装をして、ちゃんとした大人になってください」と、コラムの結論の部分で呼びかけています。  

このコラムニストの見方は、先のエッセイストの考え方と一見すると逆のようにも見えますが、実は同じ「無意識のバイアス」に基づいているようにも思えます。女性は、男性または世間が望む「成熟した女性(mature female)」になるべきであって、子どもや動物の価値はそれより劣る、という価値観ですね。 

ここまで、「無意識のバイアス」という言い方で示してきた属性のランク付けは、「自律性」と「知性」という評価軸によってイメージ付けられている図3のような構造としても表現できるでしょうか?

英語における無意識のバイアスの構造イメージ

図3 英語におけるバイアスの構造イメージ

冒頭のエッセイストや先のコラムニストの「無意識のバイアス」が埋め込まれた見方では、人間はすべからく右上に向かって成長すべきであって、左下に向かう「cute」の方向性は、女性が陥る落とし穴だと感じられるのでしょう。

カワイイは日本人に特有の「甘えの構造」?

他方、「カワイイ」ファッションの発信源が日本であることから、また「カワイイ」という日本語が世界に広まったことから、「カワイイ」の背景に、日本人特有の考え方があるのではないか、と考える人たちもいます。

確かに、欧米文化が自律性や合理性に基づく「成熟した大人」を重視するのに対して、日本文化には逆向きの志向性があるようです。

このことに関連して、精神科医の土居健郎さんが書いた『「甘え」の構造』(弘文堂)という本がとても参考になります。土居さんは、「甘え」という心理が日本社会に深く根付いていることを指摘した上で、幼児期の母子関係における乳児の心理が「甘え」の原型であると述べています。

乳児の心理と言うと、なんだかいかにも幼稚で未発達な心理のようにも聞こえますが、必ずしもそうではありません。生まれたばかりの乳児は、母と一体化した状態でしか生きることができませんが、成長にしたがって、母子一体の状態から、相互に別の人格として分化していきます。この分化のプロセスの中で、両者の関係性を持続する仕掛けとして、「甘え」という情緒が生まれるというのです。

土居さんによれば、「甘え」という言葉は、「甘い」すなわち「とても快い」という感覚から生まれてもので、「快さ」へと向かう志向性を表現しています。つまり、相手を「快く」「愛おしく」思うことから、お互いの関係性を大事にするという心が「甘え」の背景にあるというわけです。

人が最終的にはひとりぼっちである以上、「自律性」はとても大事なことです。けれど同時に、人は決して独りでは生きていけません。家族や友人やその他さまざまな人と助け合いながら生きていくしかないことも事実です。その意味で「関係性(甘え)」も、「自律性」と同様にとても大切なものだと言えましょう。

現代人が「カワイイ」に注目するワケ

こう考えてみると、現代人が「カワイイ」に注目するのは、人と人との関係性が希薄になりつつあることに、不安を感じ始めているからかもしれません。

先のエッセイストやガーディアン紙の記事の「カワイイ」ファッション批判が、ちょっと的外れな気がするのは、近頃の「カワイイ」ファンたちは、必ずしも白馬に乗った王子様を待ち焦がれている女性や少女とはいえないからです。

年齢を重ねた人や、キャリアを積んだ人たち、少年たち、男性たち、ノン・バイナリーな人たち、同性に恋をする人たち、多種多様な人たちが、「カワイイ」に心惹(ひ)かれています。

「カワイイ」を愛する人たちは、自分を幼稚で弱々しく見せたり、ちょっと知性的でないふりをして、無害で従順な存在であると印象づけるのに苦心しているわけではありません。むしろ、自分を解放し、あるがままの自分を表現し受け容れてほしいと訴えているのではないでしょうか?

先のコラムでは、「あなたは、強く、賢く、知的な女性です」と、「心からの共感を籠めて」、アニマル帽の女性たちを励まします。でもそれって、「人間は、強く、賢く、知的でなければならない」と考えていることの裏返しですよね。言い換えれば、誰かが「強く、賢く、知的でない」ならば、その人は、「見下され、軽んじられ、貶(おとし)められても仕方がない」ということになってしまいそうです。しかし、それは皆に幸福をもたらすでしょうか?人は誰だって弱さをもっています。弱さを否定されたら、生きていくことは、とても辛いものになります。

何より問題なのは、「強さや賢さ」だけによる人間の評価が、社会のなかで弱い立場にいる人や、動物や、自然環境を蔑ろにする発展を促進し、地球の持続可能性を脅かしていると言うことです。知性でなく感性が「正しいこと」を教えてくれるときもありますし、曖昧な境界の中に真実が潜んでいることもあります。

SDGsが訴えるような「誰一人取り残さない(No one left behind)」世界を目指す現代の人々には、「カワイイ」と感じる心が意外にもフィットしているのかもしれませんね。

次回は2021年8月13日(金)に公開予定です。

遠藤薫

遠藤薫(えんどうかおる)学習院大学教授。専門は社会学で、社会の変化、メディア、文化などを中心に研究。著書に、『ソーシャルメディアと公共性』(東京大学出版会)、『ロボットが家にやってきたら・・・――人間とAIの未来』(岩波書店)、『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(東京電機大学出版局)など。
遠藤薫研究室ウェブサイト