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多言語学習で「外国語が混ざる」のはどんなとき?「2つの条件」を、7言語学んでいる翻訳家が発見!

舞台芸術翻訳・通訳の世界

フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。今回は、7言語(母語の日本語を含む)を学んできた経験から、異なる言語が「混ざる」現象を分析。その原因は習熟度だけではありません。複数の外国語や標準語と地域語が混ざりがちなのはどんな状況なのでしょうか?

今月もまた書いています

EJO読者のみなさん、こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。

この原稿が公開されるのは5月半ばですからちょうど連休気分も抜けたころでしょうが、執筆している現在はGW真っ只(ただ)中。不要不急の外出自粛を呼びかけつつ幕で囲って聖火リレーを決行しながら野球の試合は無観客で開催する一方で大阪の重症病床使用率約100%を横目にオリンピックへ看護師さんを500人派遣しようとしている不条理の国で連休を満喫できている人がどのくらいいるのかわかりませんが、とりあえずわたくしは泣きながら翻訳したり原稿を書いたりしております。

あの、実はまだ再開できる状態じゃないんですよ。前回の原稿の負荷がまだ全身に残っているみたいで、PCに向かっても(こないだあんなに書いたじゃん!)という声が身体中から聞こえます。なんせ2万字も書いちゃったからね。「2、3千字程度の記事」という連載開始当初のオファーに照らすと10倍書いていることになるわけで、完全に頭のおかしい人です。今回はできれば中止、最悪でも延期したい。オールジャパンで対応しても無理だと思う。状況はですね、え、まさにですね、いわば、あー、かつてない規模のですね、え、まさに、これは、あー、the situation is not under control と、このようにですね、申し上げざるを、得ない、で、あろうと、いうふうにですね、え、いわば、考えて、おる、次第で、ある、わけで、ごじゃます。

多言語学習・習得者は、言葉が混ざってしまわないの?

ところで、頭がおかしいといえば多言語をやっていると「そんなにいくつも言語をやっていて混ざったりしないんですか?」「頭の中どうなってるんだろうって思います」と言われたりします。

まあ私の場合、多言語といっても日本語、フランス語、イタリア語、韓国語(中級)、アラビア語(初級)、英語(下級)くらいで仕事に使えるレベルなのは最初の3つだけなのですが、日本語はともかくフランス語とイタリア語はともにラテン語起源でよく似た構造の言語ですし、そういう疑問をもたれるのも無理からぬことでしょう。

結論から言えば、すくなくとも私の場合、似ているからといって単純に「混ざる」というようなことはほとんどありません。まったくない、と言っても差し支えないくらいです。

が!

実はですね、長きにわたり複数の言語を学んでいると、もっと奇妙で圧倒的にすっとこどっこいな現象に襲われることがあるのです。はたしてどんな現象なのか、私の現在までの外国語学習歴を順を追って振り返りながらお話しすることといたしましょう。どうかお楽しみいただけますように。そして長くなり過ぎませんように!(※それはおまえ次第のはずだ)

英語とフランス語の場合

最近は外国語の選択肢が豊富な高校もありますし、K-POPや韓国ドラマの影響で小中学生の時分から韓国語を学び始める人も増えているようですが、とはいえ人生で最初に学んだ外国語は英語という人がまだまだ大半を占めているはず。かく言う私もハタチになった記念にフランス語を始めるまでは英語しか学んだことがありませんでした。というわけでまずは英語と仏語のお話から。

一般に、「混ざる」というからには似ているもの同士であればあるほどリスクが高まると考えるのが道理でしょう。英語とフランス語の場合、前者はゲルマン語系、後者はラテン語系なのでそれなりに隔たりはあるものの、いずれもSVO(主語+動詞+目的語)を基本とした西洋語ゆえ、すくなくとも日本語に比べれば遥(はる)かに近いと言えます。

ですから私はフランス人が「フランス人も英語は苦手だけど、日本は本当に英語がぜんっぜん通じないよねー(嘲笑)」とか抜かした日には「ええと、日本語はそもそもアルファベットすら共有していないまったく系統の異なる言語であるという点を踏まえたうえでそういう発言をするのかな?あと英語の語彙はフランス語とラテン語からの借用が5割以上を占めているんだけど、もちろんその理由も知ってるよね?」とノルマン・コンクエストまで遡(さかのぼ)り史実に則(のっと)ってきっちりボコり倒・・・草の根啓発運動を展開いたしております*1。おめーらは英語くらいできて当然なんだから日本人を小馬鹿(ばか)にする暇があったらおとなしくhの発音でも練習してろ!そんでせめてhaveくらいはまともに言えるようになれや!アブじゃなくてな!!!!!!!!

・・・えーと、何の話だっけ?

あっそうそう英語とフランス語はそれなりに似ているけど混ざるかどうかという話でした。すべての日本人を勝手に代表してフランス人の鼻っ柱をへし折る話をしてたら興奮のあまり見失いかけてた。すぐ見失っちゃうんだよね。自分を。じゃなくて話題を。

そういうわけで英語とフランス語は一般に思われているよりも遥かに似ているので、学び始めたばかりのころは混ざってしまう人も少なくないみたい。とりわけ英語とまったく同じ綴(つづ)りの単語に関してはどうしても英語読みが抜けず苦労している人が確かに周囲にもたくさんいたように記憶しています。

ただ、私個人は先ほども述べたとおりそのような苦労をした覚えはありません。理由は実に単純。

だって英語ができないんだもん☆

そう、「混ざる」ためには元となる知識が必要なのであって、私のように英語がからっきしの人間は、いくら文法が似ていようが綴りが同じだろうが混ざりようがなかったのであります。

こういう話をすると必ず言われるのが、

「フランス語やイタリア語ができるのに英語だけそんなにできないはずがない」

「『できない』のレベルが違うんですよ、絶対」

いや、はい。うん。わかります。そう思うよね。普通はね。プロの翻訳家や通訳者の中には英語とフランス語の両方できる人も多いし。仕事にするとまではいかなくても、大学院で研究していれば専攻がなんであれ英語の資料を避けて通れるはずがないしね。

ではここで、論文執筆のため止(や)むに止まれず英語の資料を読もうとした院生時代のぴらの氏が実際に親と交わした会話をどうぞ:

ぴ「ねーねー、いま英語の資料読んでるんだけどさあ」

親「うん」

ぴ「このdoesってなに?」

親「!」

ぴ「見たことはあるんだけど・・・なんだっけコレ」

親「だっdoesはdoの三人称単数現在でしょうが!」

ぴ「あっそっかー」

親「なにいってんのまったく」

ぴ「で、doってなんだっけ?」

親「!!」

どーだまいったか。はっはっは。

【今月の教訓その1】身についていないものはどうやっても混ざりようがない。

フランス語とイタリア語の場合

しまった、1行で済むような話のはずがなぜか謎の英語できない自慢を展開してしまった。この調子でどんどん長くなるんだよなあ。あ、ちなみにこの連載、どれだけ書いても原稿料は同じですから!(念のため

さて、混ざるほどできない英語が混ざらずに済んだのは自明としても、それではフランス語とイタリア語はどうでしょうか。ともにラテン語を起源とする親戚、いえきょうだいのような近さの言語。単語も文法の構造も英語とは比べものにならない近さです。加えてからっきしの英語と違い、フランス語の方は私の中に混ざるに足るだけの「元手」もあります。

しかしこちらも、学習の初期段階まで遡って考えてみても、イタリア語の習得過程にフランス語が干渉して苦労したとか、反対にフランス語をしゃべっているのにイタリア語がぽろっと出てきたとかいった記憶はほとんどありません。これも理由は単純。

だってフランス語はちゃんとできるもん☆

これまた実に当たり前の話をするようですが、いくら似ている言語同士でも、片方の言語がすでにある程度以上の水準まで鍛え上げられていれば混ざる心配はないようです。私の場合、元々は多言語学習にまったく興味がなく、長いあいだ自分は生涯フランス語しかやらないと思い込んでいましたし、イタリア語を始めたときには大学院生をやりつつフランス語で仕事もしていました。逆に言えば、他の言語と容易に混ざってしまうほど基盤が脆弱(ぜいじゃく)なうちは他の言語にまで手を広げないほうが賢明かもしれません。

【今月の教訓その2】しっかり身についているものも混ざる心配はない。

「混ざる」回路の発見

ところが、です。

ここまで混ざらなかった混ざらなかったとうっすら勝ち誇った顔で書き連ねておいてなんですが、フランス語とイタリア語をしばらく並行して学び続けるうちに、あるとき私は、実は自分にも稀(まれ)に「混ざる」という現象が起きていることに気づいてしまいました。それも双方向で、すなわちフランス語でしゃべっているのにイタリア語になってしまったり、イタリア語に突如フランス語が混ざり込んだりしてしまうのです。なんてこった。

ただ、混ざると言っても単に混同してしまうわけではなく、ある条件に抵触しなければこの現象は観測されません。反面、この条件が整ってしまったときの引力はかなり強力で、気を抜くとすぐに流され呑(の)み込まれてしまいます。

なんだかなぞなぞみたいになってきましたが、読者のみなさんはこの「条件」、いったいなんだと思いますか?

それは「土地と記憶」です。

例えば、誰かとフランス語で話をしていて、話題がイタリア留学に及んだとしましょう。

私はヴェネツィアに住んでいたことがあるので「ヴェネツィアでは」と話を始めるわけですが、このとき、油断するとフランス語の「Venise」ではなくイタリア語の「Venezia」の方が口をついて飛び出してしまう。そしていったんイタリア語の身体になったが最後、その後に続く数語、下手をするとフレーズ全体に至るまで強力に引っ張られてイタリア語になるのです。

イタリア語→フランス語の場合も同様で、留学であれ仕事であれ人間関係であれ、フランスにまつわる私的な体験や思い出について話すべく自分のなかの「フランス時代」の箱を開けるや否や、そこから溢(あふ)れ出す土地と記憶の感覚に身体が圧倒され、「混ざる」リスクが急上昇してしまう。

この現象とそれを導く「土地と記憶」の回路を発見した当初、私は、こんな単純な引力に負けるなんて情けない、自分はまだまだ未熟なのだと落ち込みました。そしてそれもまた事実だったろうと思います。実際、現在ではこのような現象は起こらなくなりましたし。

けれどその後、折にふれてこの現象を検討し直してみるにつけ、土地と記憶と言語感覚というものは私たちが日ごろ意識している以上に、生理的なレベルで極めて深く結びついているのであって、引きずられるのも無理からぬことではないかと思うようになりました。というのもこの現象はつきつめると非母語で話しているときに留まらないことに気づいたからです。

日本語だって「混ざる」のだ

以前からこの連載をお読みくださっている方ならご存じかもしれませんが、私は外国語だけでなく、地域語(方言)を偏愛している人間でもあります。自分が東京出身の標準語モノリンガルであるだけにいっそう憧れが強いのでしょう。幸い東京は日本中から人が集まってくる場所ですし、仕事柄さまざまな土地を巡ることもあり、北は北海道から南は八重山諸島まで、多種多様な地域語ネイティブの友人に恵まれています。

残念なことに、東京にいる友人たちの多くは人生のどこかの時点で(たいていは必要に迫られて)標準語話者に擬態する術を身につけてしまっているため、日ごろから地域語全開で話してくれる人はほとんどいません。それに、地理的にも文化的にも故郷から遠く隔たった東京という場所で、自分ひとりだけ地域語をしゃべるのは生理的に難しい。自分以外に最低でもあと1人は同じ言語の話者がいなければ、しゃべろうとしても思うように出てこないのが普通です。

ところが、そんな友人たちが突如として地域語の片鱗(へんりん)を垣間見せる瞬間があります。それは決まってかれらの地元の話をしているとき。家族との思い出や小中学校時代の回想、特定の地名などが出てくると、その地域特有の言い回しやイントネーションがひょっこり顔を出すのです。

これは明らかに、私がフランス語とイタリア語で経験したものと同質の、土地と結びついた記憶が言語を媒介として前景化する、という現象でしょう。しらんけどな。いまこれを読んでくださっている方の出自もきっとさまざまだと思うので、試しにご自身の場合に置き換えて考えてみていただければきっと思い当たる節があるはずです。しらんけどやで。

蛇足ながら、どんなに標準語に長じた関西人でもほぼ確実に関西のアクセントで発音する単語がひとつあります。その単語以外は完全な標準語アクセントなのに、そこだけきれいに関西アクセントになるのです。いまのところ確率にして90%以上(ぴらの調べ)。その言葉とは・・・よし、これはクイズにしようっと。わかった人はぜひTwitterのリプライやnoteのコメント欄などで教えてくださーい!

「ズレる」回路の発見

さて、全関西人読者に無用なストレスを与えたところで大団円を迎えてもよかったのですが、せっかくなので「混ざる」に加えてもうひとつ、多言語を学んでいなければ決して体験しないであろう愉快な現象についてお話ししておきましょう。名づけて「ズレる」です。

あれはパリの大学院に遊学していた時代。

春の休暇に浮き足立ち、せっかくどこにでも好アクセスな花の都にいるのだからひとつ近隣の国へ足を伸ばしましょう、というわけでチェコを訪ねることに決めたわたくし。ネットでちゃちゃっと予約して飛行機に飛び乗ればあっという間にプラハへ到着。

ところが、です。

「東欧のパリ」の異名をとる街並みに浮かれるのも束(つか)の間、ホテルへ向かう途中でさっそく迷子に。いやあ期待を裏切らないよね。さすがは「夜だし暗かったから」という理由だけで高校生にもなって地元の街で2時間以上迷った実績を持つぴらの氏さ。環八*2沿いのファミレスで待ち合わせしてたのに行けども行けどもお店がみつからなくて、交番を見つけて「環八沿いにあるはずのお店がみつからないんです」って半泣きで訴えたらお巡りさんに「そっかー。でもここ、環七だからねえ」と言われたあの日のオレよ、その後、元気にやってるかい?そんなに元気じゃないけどなんとかやってますありがとう。なんの話だ。

で、仕方なく駅へ戻り、ホテルの場所を尋ねようとインフォメーションの窓口に立ったところでさあ困ったの困らねえのって、そうです英語がしゃべれない。といってチェコ語はもっとしゃべれない。こうなりゃなけなしのカスみてえな英語でもなんとか絞り出そうってんで力みに力んだあげく口をついて飛び出した言葉に自分で驚れぇた!(べべんっ)

“Posso chiederle una cortesia?”

なんと、まさかのイタリア語!!

英語ができないからフランス語が出るならまだわかるけど、どうしてまたイタリア語が・・・?

さても面妖な話があるものです。しかし先ほどの「土地と記憶」の例で見たとおり、どんなに偶発的に見える言語現象にも必ず理由があるもの。後から落ち着いて自分なりに分析してみた結果、以下のような結論に至りました。

おそらく「英語(とチェコ語)以外に伝わる言語がない」という極限状況に追い詰められた私の脳が、半ばパニックになりながらも日本語、フランス語に次いで得意なイタリア語を引っ張り出してきた。つまり「英語を話さなくてはならない」という指令が「とにかく日本語でもフランス語でもない言語を話さなくてはならない」という形に「ズレて」伝達された結果、消去法で第3言語のイタリア語が繰上げ当選してしまったんですね。そして私の脳内における英語の位置付けは第4言語以下だった、と。まあそりゃそうか。なんせ「doってなに?」だから。

その後もホテルやレストラン、観光地の券売所など行く先々でイタリア語を口走っては奇異の目で見られ続けた一週間でしたが、それゆえプラハは私にとって記念すべき「脳ズレ理論*3」確立の地として自分史に深く刻み込まれたのでありました。大袈裟(おおげさ)だなあ。

脳はどこまでズレるのか

その後、仕事上の要請や友人との出会いなどさまざまなきっかけから期せずして多言語学習者としての道を歩み出した私は、自身が学生時代に打ち立てた(だから大袈裟だってば)「脳ズレ理論」の有効性を、再び身を以(もっ)て確かめてゆくことになります。

いえね。

最初は自分でも信じられませんでしたよ。

自分以上に周囲がぽかんとしていました。

完全に時が止まりましたね。

無理もありません。

だって、信じられるわけないでしょう?

言葉に詰まって変な汗がじんわり浮かんできた次の瞬間、またしても口をついてイタリア語が・・・

韓国語の代わりに飛び出してくるなんて!!!!!!!!

あっ。

さすがにウソだと思いましたか?

そんなやつおらんやろ~!チッチキチ~!(©️大木こだまひびき)って?

そうだよね、韓国語なんてもはやアルファベットの言語ですらないもんね。文法構造のそっくりな日本語や同根の語彙を多く持つ中国語ならともかく、あらゆる面で縁もゆかりもないイタリア語が出てくるなんて、いくらなんでも考えにくい。

しかしですねお客さん(無料記事だけどな!)、先ほども見たとおり「脳ズレ」とは、単に本来出力すべき言語に代わって類似した別の言語が出てきてしまうというだけの現象ではなく、消去法による「繰上げ当選」システム。それゆえ韓国語で話していて言葉に詰まってしまったとき、焦った脳が「韓国語の次に学習歴の浅い外国語」としてイタリア語を引っ張り出してきてしまったと考えれば不思議はないのです。

かくして、韓国語に詰まるといきなりイタリア語の接続詞や間投詞をブチ込む日本人、という東北アジア一帯を見渡してもかなり様子のおかしい生きものが誕生したのでした。あ、中級から上級へ移行しつつある最近ではめっきり減ったけどね!(じまん)

ぴらのはどこまでズレるのか

さてさて、今月こそは手短にするはずがまたしても8000字を超えました。いかがでしょう、「脳ズレ理論」ご納得いただけましたでしょうか。

我ながらわかりづらい話をしている自覚はありますし、そもそも私自身、言語習得論や心理言語学、脳科学といった分野に明るいわけでもないので、すべてはいち実務家が経験則から導き出した極めて感覚的な仮説に過ぎません。

ですが多言語学習を続け、引き出しを増やしてゆけばゆくほど、この仮説の真実味は増してゆく一方なのです。

いえね。

最初は自分でも信じられませんでしたよ。

自分以上に周囲がぽかんとしていました。

完全に時が止まりましたね。

無理もありません。

だって、信じられるわけないでしょう?

言葉に詰まって変な汗がじんわり浮かんできた次の瞬間、今度は口をついて韓国語が・・・

スペイン語の代わりに飛び出してくるなんて!!!!!!!!

To be continued ...

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こちらもおすすめ

*1:英語とフランス語の関係については歴史文法の専門家による、三省堂サイトの「ことばのコラム」がとてもわかりやすく勉強になるので関心のある方はぜひともご覧ください。

*2:東京都道311号環状八号線のこと。って、正式にはそんな名前だったんだね!知らなかった・・・そんな無免許人生。

*3:調子に乗って名前までつけてるけど実はSLA(第二言語言語習得研究)の世界なんかでは常識なのかもしれない。だったらすまん。だがしかしこれはあくまでおもしろ語学エッセイだから反省はしない。

平野暁人

平野暁人(ひらの あきひと)翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。
Twitter:@aki_traducteur