『赤毛のアン』の主人公はなぜ名前にこだわるのか?【英語文学:柴田元幸】

英米現代・古典文学に登場する印象的な「一句」を取り上げ、その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。今月紹介するのは、不朽の名作『赤毛のアン』です。

But if you call me Anne please call me Anne spelled with an E.

L.M. Montgomery, Anne of Green Gables (1908)

“Call me Ishmael”と大長編の書き出しで呼び掛けるにもかかわらず、誰にも(たった一度の例外を除いて)そう呼んでもらえない『白鯨』のイシュメールとか、僕はハック・フィンです、と素直に名乗れるような安全な状況にいることはめったになくて、どこへ行っても偽名を名乗って危険を切り抜ける『ハックルベリー・フィンの冒険』のハックとか、アメリカ文学の主人公と名前の関係はなかなかややこしい。

このカナダの小説でも、始まった時点では、本当はコーディーリア(Cordelia)と呼ばれたいとアンは思っているし、前はジェラルディーン(Geraldine)と呼ばれたいと思っていた。アンと呼ばれてしまうのは仕方ないけど、でもアンと呼ぶなら E の付いたアンの方にしてね、と彼女は言う。“A-n-n looks dreadful, but A-n-n-e looks so much more distinguished” (A-n-nって見るからに嫌だけど、A-n-n-e ならずっと立派に見える)からと。自分が Jimmy Gatzという名の一介の田舎者であることが許せず、Jay Gatsbyとして己を再創造する『グレート・ギャツビー』の主人公も、この意味でアンの後輩である。

元ジミー・ギャッツはジェイ・ギャツビーとして壮大に破滅していくわけだが、『赤毛のアン』はアンがコーディーリアにもジェラルディーンにもなれず、でもまあ一応Eはあるアンとしての自分に折り合いをつけていく愛らしい物語である。僕は大学生の頃にこの小説を読んで、1カ所でゲラゲラ笑ったことを覚えている。親友のダイアナがいずれ結婚して自分を置いて去ってしまう未来をアンが想像して、結婚式の情景を巡ってどんどん妄想を膨らませていくシーンである。最後の方だけ引くと―

“. . . Diana dressed in snowy garments, with a veil, and looking as beautiful and regal as a queen; and me the bridesmaid, with a lovely dress too, and puffed sleeves, but with a breaking heart hid beneath my smiling face. And then bidding Diana goodbye-e-e—” Here Anne broke down entirely and wept with increasing bitterness. 

Marilla turned quickly away to hide her twitching face; but it was no use; she collapsed on the nearest chair and burst into such a hearty and unusual peal of laughter . . .

……ダイアナが雪のような衣裳(いしょう)を着て、ベールもつけて、女王様みたいに美しくて堂々としていて、あたしは花嫁付き添いで、やっぱりきれいなドレスを着て、パフスリーブで、でも笑顔のかげで胸は張り裂けている。そうして、ダイアナに別れを告げるぅぅ―」ここでアンはよよと泣き崩れ、苦い涙はとどまるところを知らなかった。

マリラはさっと向こうを向いてぴくぴく震える顔を隠そうとしたが、無駄だった―すぐそばの椅子に倒れ込み、彼女らしくもなくゲラゲラ心の底から笑い出し・・・

僕が笑ったのは、いつもは仏頂面の(でも、アンの振る舞いにいつも心の中で微笑んでいた)マリラがついに爆笑したからである。登場人物が笑う姿に笑う、というのは考えてみるとちょっと珍しい気がする。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

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