お金ではない贅沢とは?「英語を学んで豊かになる」の本当の意味

哲学を学んだ翻訳者のエリザベト怜美さんが、イギリスでの暮らしや英語、翻訳の仕事などを語る連載「イギリス育ち翻訳者の哲学的生活」。第3回のテーマは、森鴎外の娘で作家の森茉莉がつづった「精神の贅沢(ぜいたく)」についてです。

「贅沢な精神」を持つこと

好きな作家の一人に、森茉莉、という女性がいる。

彼女の父親は、文豪の森鴎外。自身も、小説やエッセイの書き手だった。

茉莉は幼い頃から、鴎外がドイツから取り寄せたカタログで注文し、シベリア鉄道経由で個人輸入した洋服ばかり身に着けていた。れっきとした、お嬢さま育ちだ。文学者と見合い結婚をし、パリで1年間、華やかな文化に浸りながら過ごすが、その後、離婚。父の作品の版権が切れた後は、一人きりで狭いアパート暮らしを余儀なくされ、そのまま亡くなった。

こうして振り返ると、どことなく同情を誘う人生のようにも聞こえる。50代になってから、突然、収入の途絶えた茉莉は、編集部でパートをしたり、雑誌に文章を寄せたりしながら、生活のための執筆活動を始めた。そのとき、次のように記している。

贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。

森茉莉『ほんものの贅沢』

茉莉は、生涯、「贅沢」暮らしをやめなかった。たとえ、時代が味方をしなくなり、最愛の父を亡くし、家事の腕前もおぼつかないままわずかな収入で暮らすことになっても、それは、森茉莉という生き方を損ねはしなかったのだ。

では、彼女自身がそうだったように、「人間が贅沢」だということ、つまり「精神の贅沢」とはいったいどのようなものだろうか。

夢と現実

茉莉は、日々の生活をそのまま写し取った短いエッセイを、数多く残している。

白鳩(ピジヨン・ブラン)のルビイとロマノフ王室の誰かがつけていたダイアモンドの指輪を嵌めたことのある手で、キャベツを買い、人参を買い、品のいい味の肉汁(スープ)をつくり、楽しい生活の歌を歌っている。

森茉莉『贅沢なおしゃれ』

彼女の文体には、さまざまな愛すべき特徴があるが、とりわけ、外来語やルビ使いが目立っている。

「石鹸(シャボン)」「卓子(テエブル)」「燭台(スタンド)」「淡黄(クリイム)」「美術館(ミュゼ)」「椿姫(ダアモオカメリア)」・・・おそらく、女学校で習った外国語や、たった1年間のパリ生活が、そこにあった色や匂いや味が、耳にした言葉と一体となって、彼女の認識を不可逆的なまでに一変させたのだ。

子どもが新しい言葉を覚えるときのように、周囲で繰り返されていた音が、自然と思考の内で鳴るようになったのだろう。それが日本語であれ、異国の言語であれ。茉莉は、言葉の響きに、忠実な人だ。

豪華絢爛(けんらん)なヴィジョンに反して、前述のとおり、茉莉の自由に使えるお金はほんのわずかだった。訪れた人によると、掃除の行き届かない、雑然とした部屋に暮らしていたらしい。

それなら、茉莉のエッセイは、単なる希望と妄想だったのだろうか。彼女は、物悲しい現実を、ファンタジーで忘却しようとしていたのだろうか。

事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香りをそなえた美にして愛すべき花である。

西田幾多郎『善の研究』

森鴎外と時を同じくして活躍していた、京都学派の哲学者、西田幾多郎が述べるように、私たちは、単なる物質としての花を見ることはない。

例えば、目の前にあるスノードロップの花は、冬の色だ、あの冷たい匂いだ、子どもの頃に眺めた凍った湖の霜だ、というイメージと結び付いて現れる。つまり、人間に知覚される事実は、客観的にあるモノと、個人の記憶や想像とが、不可分に生じている。

ビフテキをナイフで切ってたべるということは「現実」であり、ビフテキ自身も「現実」ではあるが、ビフテキを美味(おい)しいと思い、楽しいと思う心の中にはあの焦げ色の艶(つや)、牛酪(バタア)の匂いの絡みつき、幾らかの血が滲(にじ)む薔薇色、なぞの交響曲があり、豪華な宴の幻想もある。又は深い森を後(うしろ)にした西欧の別荘の、薪の爆(は)ぜる音、傍(かたわら)で奏する古典音楽の、静寂なひびき、もあるのである。

森茉莉『贅沢貧乏

茉莉は、事実のうち、モノとして実在するものを「現実」とし、それに連なって自ら生み出すイメージの方を「夢」と呼んだ。私にはそれがこう見えている、という「夢」、イメージの領域の広がりの方を(それが他人には見えないものだということを充分に承知しつつ)、何より大切に扱うことが「贅沢」な暮らしの鍵だということを知っていたのだ。

「夢」を生み出す力

茉莉は、毎夜、空から千円が降ってくるのなら、それで足りるという。お金が降ってくるのは、確かにありがたいけれど、たった千円でいいというのだ。

千円は望みが小さいと言う人があったら、魔利[筆者注:マリア。茉莉が文中で好んで使う自らの名前]は答えるだろう。それ以上の、本当に金を使ってやる贅沢には、空想と創造の歓びがない。と。

森茉莉『贅沢貧乏』

普段の私たちは、つい、もっと余分にお金があれば、もっと贅沢ができるのに、と考えてしまわないだろうか。お金をたくさん使うことが、贅沢だと思っているからだ。

イヴ・サンローランのリップが買えたら、とつぶやく。けれども、薬局に並んでいるものでも、顔色を素晴らしくし、目を覚ましたばかりの白雪姫の気分になれるのなら、それも立派な魔力を宿したアイテムだということも、私たちは知っている。要は、贅沢というのはモノの高い安いではなく、そこからすてきなイメージが生まれるかどうかなのだ。

イメージや物語は、心の中に現れる。きっかけになるアイテムを探し出し、そこからヴィジョンを作り出すことによって。贅沢な暮らしを送るために必要なのは、主体的にその「夢」を生み出す力だ。

夢の力を育むには、いくつか訓練がいる。一つは、自分自身の世界観を深めること。それから、子どもたちが何もなくともごっこ遊びを始めるように、ブリコラージュ(ありあわせのもので工夫すること)の技術を磨くこと。そして、本、映画、美術などを通して、自分の生活から遠く離れたものに学ぶこと。もちろん、外国語を学ぶことも。

文化的(cultured)に生きる、ということは、与えられた現実を作り替え、豊かにする(cultivate)力を持つことにほかならない。

森茉莉のいた場所

茉莉のエッセイ集を読んでいると、私の家から割合に近い場所がよく登場することに気が付いた。中でも、かつて一日中座って原稿を書いたり客人をもてなしたりしていたという喫茶店「邪宗門」は、まだ変わらず同じマスターが営業を続けているという。

せっかくなので、日中の静かな時間帯に、少し長めの散歩をして訪れてみた。邪宗門という、かつてキリスト教を指していた名のとおり、店の壁には隠れキリシタンの十字架やメダイ、それからガラスの小型ランプシェードがいくつもつるされていた。

奥の席に座ると、メニューに「森茉莉ティー」というものを見つけたので、それを頼んだ。花の香りのするプリンス・オブ・ウェールズの茶葉に、少しずつクリームを足していって、いっそうまろやかな味わい。

夢をみることが、私の人生Revasserie, c’est ma vie

壁に掛けられたサインには、そう書かれていた。茉莉は、自らに備わった夢を見る力の強さを、何よりも誇りに思っていたのだろう。自分が「贅沢」な精神の持ち主であり、本当の「贅沢」を知っているということ。どんな環境でも、自分自身を幸せにする自信があるということ。それが、彼女の言う「夢想家」の正体なのだ。

この場所には、茉莉の見た夢の世界があり、私も、その夢に少しだけ触れることができる。そして、その夢の見方を習うのだ。お金があってもなくても、それにとらわれず、より自由に、私自身の夢を生きられるように。私なりの、幸福の物語を歩めるように。

一杯の紅茶でお店の閉まる時間まですっかりマスターと話し込み、帰る途中、下北沢の古着屋でヴィンテージのブラウスを一着、じっくり選んで買った。

そのブラウスを、茉莉の夢を通して見てみるとしたら、こんな調子かもしれない

その青(ブルウ)と浅葱色の本繻子(サテン)地のブラウスは、幼少期に父の蔵書をこっそり開いたときに見た、オスカア・ワイルドの挿絵をやってのけたオゥブレイ・ビアズレイの描く孔雀(ピイコツク)の羽の艶のようで、あった。

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※トップ画像の写真撮影: Shihori Yasuhara/記事中の写真撮影:エリザベト怜美

エリザベト怜美(えりざべと れみ) 翻訳者。1991年、横浜に生まれ、イギリスで育つ。上智大学文学部哲学科卒。在学中から翻訳会社に勤務し、アートギャラリー、広告代理店を経て独立。主に、広告、海外ボードゲーム、映像作品の翻訳を手掛ける。ボードゲーム『プレタポルテ』『クロニクル・オブ・ クライム』『テインテッド・グレイル』翻訳。
Twitter: @_elizabeth_remi

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