クリスティーの名探偵ポアロが話す「フランス語なまり・交じり」の英語がイギリス社会を相対化する

「イギリス文化」の中でも世界的によく知られている古典ミステリーといえば、アガサ・クリスティーの推理小説です。名探偵ポアロ物は特に人気で、数多く映画・ドラマ化されています。その『ナイルに死す〔新訳版〕』(早川書房)の翻訳家、黒原敏行さんが、シェイクスピア俳優でもあるケネス・ブラナーが映画化した『オリエント急行殺人事件』『ナイル殺人事件』の魅力を解説!

旅情あふれるポアロ推理物の2作品

今年2020年はミステリーの女王、アガサ・クリスティーの生誕130周年にしてデビュー100周年。名探偵ポアロ物の新作映画『ナイル殺人事件』(原作の邦題は『ナイルに死す』)の公開も予定されている *1 。監督・主演のケネス・ブラナーは2017年に、同じくポアロ物の『オリエント急行殺人事件』(原作の邦題には『オリエント急行の殺人』もあり)で監督・主演を務めた。

どちらの作品も「外国旅行もの」の傑作だ。『オリエント急行殺人事件』はイスタンブールを出発して欧州を横断する豪華国際列車の車中で、『ナイル殺人事件』はエジプトのナイル川をさかのぼる豪華遊覧汽船の船上で、殺人事件が起きる。十数人の旅客の誰もが容疑者という中、ポアロが名推理を披露する。舞台は異国情緒と旅情をかき立て、物語は大スターから演技派俳優まで豪華な俳優陣を起用できるような設定、というわけで、実に映画映えのする作品だ。

小説だと描かれる人物や事物の肉付けを厚くできるが、映画では無理なことがあるので、ひいきの人物や好きなエピソードが省かれていてがっかりする、というのはよくあることだ。が、その反面、映画には百聞は一見にしかずでズバリ伝えられるという利点もある。

映画化でブラナーが描く人間の本質

両作品は1970年代にも映画化されているが(タイトルはどちらもブラナー版と同じ)、例えば旧『ナイル殺人事件』は容疑者ごとに、この人が犯人ならこんなふうに犯行を行っただろうという再現シーンを入れて、その点は小説よりわかりやすかった。

原作や70年代の映画と比べた場合の、ケネス・ブラナー版『オリエント急行殺人事件』の特色は、一つは映像がダイナミックで 展開 がスピーディーということ。そして内容的には、謎解きの興味に加えて、その事件が突き付ける深い問題を大きく取り上げ、ポアロがその問題に激しく心を揺さぶられる点にあると言える。

クリスティーの原作はあくまで謎解きの興味が中心のミステリー(本格ミステリー)なので、ポアロは基本的には冷静な観察者・ 分析 者だが、その枠を超えていこうとする要素も原作の中にある。ブラナーはシェイクスピア俳優でもあるので、その要素を膨らませて、まるでシェイクスピア劇のような、人間の本質を深くえぐる作品にしたいのだ。

今度の『ナイル殺人事件』もそういう作品になっているはずだ。 予告編 を見ると、ブラナー=ポアロは、“I have investigated many crimes, but this has altered the shape of my soul.”(私は今まで多くの犯罪を捜査してきたが、この犯罪は私の魂のかたちを変えた)とまで言っている。

ブラナー自身によれば、新『ナイル殺人事件』は官能性の強い作品になっている。新『オリエント急行殺人事件』にはカトリーヌというポアロの元の妻だか恋人だかの写真が出てきたが(ブラナーの元妻エマ・トンプソンの若い頃の写真が使われた)、原作にないこの女性の話も 具体的に 出てくるのではないか。またポアロの若い頃の軍隊経験も回想されるようだ。

フランス語が母語のベルギー人が話す英語

さて映画を見る前か、見た後かはともかく、クリスティーの原作を未読の方はぜひ読んでみていただきたい。翻訳でもいいが、ENGLISH JOURNAL ONLINEの読者なら原書を読むのもいいだろう。クリスティーの英語は比較的平易で、そう古びてもいず、英語習得に適している。ある英文学者は、自分が書いたり話したりする英語の2割ほどにクリスティーの英語が入っていると言っているほどだ。

ただ、まったく引っ掛かりなく読めるというわけでもない。ポアロはベルギー人で、フランス語が母語なので、英語で話すときも、所々に、mon ami (=my friend、わが友よ)とか、mon Dieu(=my God、おやおや)といったフランス語を交ぜる。

そういう短い呼び掛けや感動詞だけならまだしも、小説の『ナイルに死す』だと、“Une qui aime et un qui se laisse aimer.”(愛している女と愛させている男)といった独り言や、それと同じくらいの長さのことわざや、8行の詩をフランス語でつぶやき、どれも英語での言い直しや説明はなされない。

もちろんその意味がわからなくても筋は追えるし、読者が推理をするのにも支障はないが、英語圏の読者でもフランス語を解しない人はちょっとしたストレスを感じる かもしれない

しかしポアロが外国人であるということには、イギリス社会やイギリス的発想を客観的に見て相対化するという意味があるはずだ。英語がわかれば世界のすべてがわかるなどと思い上がってはいけませんよと、クリスティーは言っているの かもしれない

日本語訳では、フランス語の部分も翻訳してルビで発音を示しているので、気になる方はそちらをのぞいてみていただければと思う

もう一つ付け加えると、ポアロはフランス語を直訳したような英語を話すことがある。例えば、小説の『ナイルに死す』では、“There passes itself something on this boat that causes me much inquietude.”(この船では今とても 心配 なことが起きています)と言う。

しかしこの pass itselfというのは英語にない表現で、フランス語のse passer(起きる=happen)の直訳だ。またinquietudeは、英語としては古い言葉だが、フランス語のinquietudeは「不安・ 心配 」を表す普通の言葉。 cause A B(AにBを 引き起こす )も英語にあるが、やはり話し言葉としては硬い。しかしフランス語のcauser A Bは普通の口語表現だ。

というわけで、クリスティーの英語を英作文や英会話に使うのは、基本的にはおすすめだが、ポアロの台詞(せりふ)を参考にするとフランス語風の不自然な英語になってしまう恐れがある。

音声で表現される「フランス語なまり」

映画やテレビドラマではさらに、ポアロの英語の発音がフランス語なまりになる。1974年『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニー、1978年『ナイル殺人事件』のピーター・ユスティノフ、テレビドラマ版のデビッド・スーシェ、そして今回のケネス・ブラナーと、どのポアロ役者(細かいことを言うと、小説版とブラナー版映画は「ポアロ」、その他の映画・テレビ版は「ポワロ」だ)はみなそういうしゃべり方をする。

私見によれば、いちばん上手なのはスーシェだが、ほかの人もまあ雰囲気は出ている。ただ、例えばブラナーは『ナイル殺人事件』の 予告編 でjealousyを「ジェロシー」と発音するが、フランス語の「嫉妬」=jalousieの発音は「ジャルジー」なので、「ロ」はおかしい。しかしその辺はご愛敬だろう。

クリスティー作品はミステリーとしてのネタが有名なものが多く、「ネタバレの危険が日々の暮らしのなかに潜んでいる」(霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』ハヤカワ文庫)。今日紹介した2作のほか、『アクロイド殺し』『そして誰もいなくなった』『ABC殺人事件』などは特に危険なので、一刻も早く読んで、ネタバラシしたい誘惑にもんもんとする側に回ることをおすすめしたい。

黒原敏行(くろはら としゆき)
黒原敏行(くろはら としゆき)

1957年生まれ。出版翻訳家。主な訳書に、コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』、アン・マイクルズ『儚い光』、ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』、デイヴィッド・ピース『Xと云う患者 龍之介幻想』ほか。

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