プロ通訳者の関根マイクさんが現場で出くわした、さまざまな「事件」を基に、通訳という仕事や通訳者の頭の中について語ります。もちろん、英語学習に役立つ通訳の技もご紹介。通訳ブースの中のあれやらこれやら、てんやわんや、ここまで言っちゃいます!
通訳というと完全にホワイトカラーな職業だと思われがちですが、必ずしもそうではありません。確かに基本的には頭脳労働ではあるのですが、案件によってはかなりの肉体的負担が伴います。いつもテーブルと椅子が用意され、空調が効いた部屋で通訳をするわけではないのです。
例えば、ある案件では海外発のフードデリバリーサービス(以下「出前サービス」と呼びます)について調査を行いました。通訳仲間からの誘いで休日に受けた案件だったのですが、海外エージェントの依頼だとよくある「資料なし、現場で打ち合わせを」というパターンでした。普通なら休日を犠牲にしてまで受ける案件ではないのですが、私は個人的に興味を持つ会社やトピックの案件はあまり考えずに引き受けてしまう性格なのです。海外で近年話題の配車アプリ会社が手掛ける出前サービスが日本で展開を始めたのですが、本社からスタッフが来日して、日本での展開状況を調べたいとのことでした。
当日、いつもどおりの服装(スーツ)で指定のホテルロビーに到着すると、外国人の担当者から「そんな服装で大丈夫か?」と聞かれました。ゲーム好きの読者ならわかると思いますが、『エルシャダイ』のネタと勘違いして脊髄反射的に「大丈夫だ、問題ない」と答えそうになりました(笑)。しかし担当者は大真面目です。質問の意図がわからないので「どういう意味ですか?」と返すと、担当者は「今日は忙しい一日になるぞ!」と元気一杯に宣言しました。
自転車に乗る通訳者
クライアントの出前サービスが従来の出前と異なるのは、配達人はどの店にも所属していない個人であり、スマホアプリで指定された店に向かって商品を受け取り、これまたアプリで指定されたお客様に届ける仕組みになっている点です。店側は出前機能を維持しつつ人件費を削減し、配達人側は勤務時間を自由に選べるので隙間時間を有効活用して稼げる、というのがサービスの狙いのようです。打ち合わせでらかにされたのは、本件の目的は担当者と通訳者(つまり私)が配達人と同じように電動自転車に乗って、配達人と同じルートを走ってサービスの実態調査を行うことでした。
「え、自転車に乗るなんて、聞いてないよ……」と戸惑いつつも、体力に自信がないわけではないし、電動自転車のパワーアシストがあるからなんとかなるだろうと思っていたのが今思えば地獄の始まりでした。ランチ時間帯の少し前に六本木で配達人と落ち合うと、自己紹介を終える前に早速最初の注文が。「あ、これはち
ょっと遠いですね。飛ばしていきますのでついてきてください」とだけ言うと、配達人は自分の自転車にひょいと飛び乗り、青山方面に向かって走り出しました。担当者と私も続きます。出前サービスは配達時間が命です。
担当者と私は目指す店がどこにあるのかわかりません。いや、知っていたとしてもベテラン配達人の方がルートを熟知しているので、近道ができたわけでもないのですが。私が覚えているのは、六本木から青山への道のりは地図で見るよりずっと遠く感じたこと、電動自転車でも厳しめの高低差があったこと、配達人に追いついていくのに精一杯で通訳の仕事だということを忘れかけたこと(一種の短距離レースのようだった)、そして激しい運動で喉の奥が焼けるように痛んだことです。
社会人になってからは競技スポーツから離れていたのですが、まさか通訳の仕事で肉体をこんなに酷使するなんて。ネクタイは鬱うっ陶とうしいし、革靴はペダルと上手く噛み合わないしで、踏んだり蹴ったりです。この電動自転車、どこに電力があるの、と心の中で八つ当たり。坂道がつら過ぎる。誰か水をくれ。
配達人に10 秒程度遅れて、すっかり息が上がった担当者と私が店に到着。料理を待つ間、アプリの使用状況や、配達人と店の担当者とのやりとりについてその場でインタビューします。質問する担当者もそうですが、私もすぐにはまともに喋しゃべれません。「ゼェゼェ……アプリの…ゼェ…UI の…ハァハァ…使い勝手はどう…フゥ…ですか?」のような感じです。配達人は慣れているので息が乱れておらず、すらすら答えるので私は休む暇なし。おまけに私がやっと落ち着いてきた頃に料理の用意ができたので、すぐにお客様が待つ六本木へ戻ることに。わかってはいたけれど、一気にやる気がなくなる(笑)。
復路ですが、片道おそらく1.5 キロ程度の道のりを、往路以上の速度で駆け抜けていきます。いくら保温ケースに入っているといっても、料理は鮮度が命ですから、速度が上がるのもわかります。でもさすがに運動不足で既に太ももがパンパンの私は少しずつ遅れをとりはじめ、最終的には30 秒くらいの遅れで目的地に到着。ここでも商品を届けた後、すぐにまた配達人のインタビューが始まりました。もう体がボロボロの私はその場の通訳こそなんとかこなしたものの、これが1 日中続いたら正直死ぬわ……と思っていました。
すると幸運(?)なことに、担当者も結構疲れていたようで、「いやー、あれはきつかったね。僕も疲れたよ。もう話は十分聞けたからいいよ。あとはオフィスに戻って別のインタビューをしよう」と言ってくれました。やっと水が飲める!
常にインプットを忘れずに
一時期、プロゴルファーの横峯さくら選手がシーズンオフに飲食店でバイトをしていたと話題になったことがあります。賞金が何十万単位のゴルフ界にいると金銭感覚がおかしくなるので、初心に戻る意味があるのだとか。私は横峯選手のように大金を稼いでいるわけではないので金銭感覚は普通の庶民ですが、好奇心旺盛なのでほかの職業を試してみたいなと思うことは常日頃からあります。
今回の出前サービスも、通訳の案件として引き受ける前にネットで募集記事を読んで、登録してちょっと試してみようかなと考えていました。お金は必要ないけれど、新しい刺激から得る学びが好きなのです。インプットをしないデザイナーはゆるやかな死を迎えるという記事が最近ネットで話題になりましたが、インプットを忘れた通訳者もまた、想像力・表現力が少しずつ枯渇していくのではないでしょうか。
さて、どうでもいい話ですが、今回の出前サービスは体力に自信がある人でないと難しいかなというのが正直な感想です。収入面についてはまったくわかりませんが、私は負けず嫌いなので、今年の冬、通訳案件がスローになってきたら、エクササイズを兼ねて再挑戦しようかなと企んでいます。だってこれ、真面目にやったら絶対に痩せるから!
関根マイクさんの本
※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年6月号に掲載された記事を再編集したもので す。