高くついた高瀬舟【オレゴン12カ月】

オレゴン12カ月

渡米して20年以上がたち、現在はオレゴン州ポートランドで暮らす大石洋子さん。家族や身の回りで起こった出来事や季節のイベント、日米文化の違いなどにまつわるお話を現地からお届けします。

ウチの娘はただ今14歳で、この9月からアメリカのハイスクールに通い始めたのだが、土曜に通っている日本語補習校では、まだ中3だ。

先日、その補習校から「娘さんが授業中に倒れました」という連絡を受けた。

数学と国語だけの学校で、一体どうしたら授業中に倒れるのかと思いつつ駆け付けたところ、どうやら国語の時間に、森 鷗外(おうがい)の『高瀬舟』の朗読CDを聞いているうちに失神したらしい。

『高瀬舟』には、自死しようとして果たせずに苦しむ弟が、兄に殺してくれと迫るシーンがある。刃物を使っての描写を聞いているうちに気を失ったのだそうだ。血を見て倒れるというのはよくあるが、話だけ聞いて倒れるというのも・・・わが娘ながら不思議である。想像力が豊かなんですね、と国語の先生に妙な褒め方をされた。

なんでも、倒れたときに机で頭を打ち、そのまま横に倒れて、床でもう一度頭を打ったそうである。コンクリートに薄いじゅうたん敷きの床で、頭の左側をしたたかに打ったようだ。

日本でもそうなのかもしれないが、ここのところアメリカでは、頭を打ったら一大事である。concussion(脳振とう)は、片頭痛や目まいなどの深刻な後遺症が心配されるので、一定期間、安静にするようにと言われるのだ。バスケットボールの試合中に壁に激突して頭を打ち、医者から半年間スポーツ禁止を申し渡されたとか、ハンドボールが頭に当たって脳振とうを起こし、1カ月間、スポーツはおろか、本を読んだりビデオを見たり音楽を聞いたりさえも禁止、などという例が身近にたくさんある。選手同士の激しいぶつかり合いが醍醐味(だいごみ)であるアメリカンフットボールでは脳振とうが多発なものだから、子どもにやらせたくないという親が増えている。

娘は数日後にフェンシングの全国大会を控えていたこともあり、脳振とうを起こしていないことを確かめるため、補習校の帰りに医者に診てもらうことにした。

土曜の夕方である。病院は開いておらず、救急治療室に行くしかなかった。

若い医師が娘にいろいろと質問し、目の前で動かす指を目で追わせたりなどした後に、念のためにと心電図を取った。

結果によれば、「急に気を失ったのは、強いストレスのせい。この場合は、小説のグロテスクな描写を聞いたのがストレスになったようですね。頭を打った件に関しては、脳振とうは起こしていないので安心してください。スポーツもやっていいですよ」とのこと。

黒人のハンサムな医師は続けて、「今度、気を失いそうだと思ったら、とにかく頭に血が行くようにするのが大事なので、周りを気にせずに床にごろっと横たわること。心臓と頭を同じ高さにするのが大事」と教えてくれた。

やれやれ。娘がなんともなかったのが何よりではあったが、正直なところ、ミズーリ州セントルイスで数日後に行われる大会のために飛行機もホテルも予約し、試合の参加費用も支払い済みだったから、それらがすべてパーになってしまうのではとひやひやしていたのだ。何事もないと知って、心の底から安心した。

それからしばらくの間、夫も私も娘のことを「おい、高瀬舟」などと呼んではちゃかしていた。

しかし、シャレにならないと思ったのは、1カ月以上もたって、病院からの請求書が届いたときであった。1311ドル(約14万円)。

オレゴン12カ月

イラスト:尾崎仁美

医療保険に加入していないの? と思われるであろう。いえ、加入しておりますとも。もともとの請求額が2080ドル(約23万円)で、保険でカバーされた分が769ドル(約9万円)。残りの1311ドルが患者の負担分だそうで。

アメリカの医療保険は複雑である。保険を提供する会社もさまざまあり、また、それぞれのプログラムによってカバーする内容や率が大きく変わる。一般的には、大企業に勤めていると、至れり尽くせりのステキな保険プログラムが提供され、高度な検査なども少額で受けられるようである。

ウチは、そのようなプログラムとは無縁だ。救急治療室に入っただけで500ドル(約6万円)、と言われるくらいに救急が高いのは知っていたが、1300ドルとはいくらなんでも・・・。

病院に電話し、「医者とちょっと話をして、心電図取られただけなんですけど」と値下げ交渉を試みたが、「今一括で払うなら、5パーセント引きます。あるいは、利息なしの18回払いというオプションもありますけど」とのこと。5パーセントなど、すずめの涙である。

日本では救急車をタクシー代わりに使う人もいるらしい、と聞いたことがあるが、アメリカで救急車になど乗った日には、一体いくら請求されるのか・・・。交通事故で大けがをしても「救急車は呼ばないで!」と懇願する人もいるくらいである。

病気やけがのときに、安心して病院に行くことのできない社会。個人的には、近いうちに暴動が起きても不思議でないレベルだと思っている。

アメリカのオレゴン州ってどんなところ?

アメリカ北西部に位置する、全米屈指の美しい景観を誇るオレゴン州。IT、バイオテクノロジー、環境関連産業の成長目覚ましく、ナイキなどのスポーツ・アウトドア企業も多い。州都はセイラム、最大の都市は人口約60万のポートランド。

文:大石洋子
エッセイスト。1993年、夫の海外赴任でアメリカ・ニュージャージー州へ。2003年には異動のためオレゴン州に転居。現在は、日に日に生意気になる16歳の娘に手を焼く傍ら、月に2回、Boiled Eggs Onlineにオレゴンでの生活をつづっている。

本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年11月号に掲載された記事を再編集したものです。