“Please, sir, I want some more.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

Please, sir, I want some more.

_Charles Dickens, Oliver Twist (1839), Chapter 2

『オリヴァー・トウィスト』 を19世紀イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの最高 傑作と呼ぶ人はそれほど多くない かもしれない が(もちろ ん愛すべき一冊ではあるけれ ど)、ディケンズが書いたな かでまず思いつく言葉は何 かと訊かれたら、多くの読者 が『オリヴァー・トウィスト』 第2章に出てくるこの科せりふ 白を 選ぶにちがいない。

禁欲礼賛が支配する孤児院。夕食は水のように薄い 粥が一杯だけ。ある晩、誰もが例によってお碗が光る まで舐めつくすと、オリヴァーが院長の前に歩み出て、この科白を吐く。これが大騒ぎを巻き起こし、こんな 大それたことを言う子どもはいずれ縛り首になるぞ、とまで言われ、オリヴァーの追放が決まり、結局葬儀屋へ徒弟に出される。

―というと反逆児か、空気を読めない子どもか、と思われる かもしれない が、実はそうではない。あまりにみんな腹ぺこなので、誰かがお代わりを要求しよう!ということでクジを引いた結果オリヴァーが当たっただけなのであり、オリヴァー自身、「己の向 こう見ずぶりにいささかおののきつつ」( somewhat alarmed at his own temerity)院長の前に歩み出るのである。

“Please, sir” はともかくとして、 “I want some more” という直接的な、ほとんど失礼な言い方が、孤児院の大人たちを愕然(がくぜん)とさせた一因ではあるだろう。 “Could I have some more?” ぐらいに言っておけば少しは ……いや、まあ、結果は同じ だったでしょうね。

この科白が有名になった大きな要因は、添えられたさし絵である。ジョージ・クルックシャンク(George Cruikshank)が描いた、とっぽい感じの子供がお代わりを要求している絵は、これまた数多いディケンズ作品さし絵のなかで一番有名な絵である。

クルックシャンクは1792年生まれで、1812年生 まれのディケンズより20歳年上。『オリヴァー・ト ウィスト』刊行当時、ディケンズはまだ著書一冊だけ の若手作家だったのに対し、クルックシャンクはすで に著名画家だった。二人はその後も何度か一緒に仕事 をするが、やがてクルックシャンクが厳格な禁酒主義者となり、ディケンズと袂を分かつことになる。晩年、 クルックシャンクは『ザ・タイムズ』に投書し、『オ リヴァー・トウィスト』の物語は自分のアイデアだったのをディケンズが盗んだのだ、と 主張する ことにな る。ディケンズ学者はあまり本気にしていないようだ が、ある程度クルックシャンクがアイデアを提供するくらいのことはあったのではないか、と論じる研究者 もいる。まあそうでなくても、この不朽のさし絵を描 いただけで十分讃えるに値するだろう。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2019年7月号に掲載された記事を再編集したものです。

SERIES連載

2024 04
NEW BOOK
おすすめ新刊
英会話は直訳をやめるとうまくいく!
詳しく見る
メルマガ登録