人生の節目や年中行事に花が登場するのはなぜか?

哲学的生活

哲学を学んだ翻訳者のエリザベト怜美さんが、イギリスでの暮らしや英語、翻訳の仕事などを語る連載「イギリス育ち翻訳者の哲学的生活」。第2回のテーマは、私たちの生活や重要なイベントを彩る「花」と、「人生の移り変わり」についてです。

花のある家

母方の実家は、花屋を営んでいる。

大正時代、私の曽祖母に当たる人が始めた商売で、今も変わらず、新潟で花を売っている。前回でも触れたとおり、私は横浜で生まれてイギリスへ引っ越した。それから、イギリス国内でも街を移り、日本に戻ってからも幾度も住まいを変えている。転々とする生活の中で、生まれてから変わらずある家は、母に連れられて訪れる雪国の城下町の花屋だけになる。

とはいえ、年に二度、お盆と年末年始に泊めてもらうだけで、もう、いとこも私も成人し、祖母は亡くなっている。ただ、海辺の温泉に漬かり、祖父と繰り返しTVの時代劇を見て年を越す。いつも、仏壇から白檀(びゃくだん)の匂いがして(私の父母はクリスチャンなので、普段は嗅ぐことがない)、店先に並ぶ季節の花と、その奥にある作業場のぬれて光るでこぼこのセメントの床は、なんだか心地よい夢のようにも思える。

花

去年は、コロナの影響があり、夏も冬も、花屋の家で過ごすことはなかった。新年には祝い花、夏には仏花、という店先の風景を見慣れていたので、なんとも寂しく感じる。店の奥で、家業を継ぐことになるいとこが、朝早くから80センチほども高さのある大きな正月用のアレンジメントをいくつもそっくり同じ形に挿していたのを思うと、東京で二人暮らしの部屋のために用意した今年のしめ縄は、どこかツンとすまし顔に見えた。

花

せっかくの年末年始なので、行きつけの本屋から通りを挟んで坂を下った、川沿いの近くにある花屋で、お任せで一つ花束を作ってもらった。青紫色のアザミだけ自分で選ぶと(つい、スコットランドの国花が恋しくなる)、店の人がくすんだ赤紫のカーネーション、淡い紫のスイートピー、それと、新芽だけ少し赤みがかり、薄くおしろいを塗ったような色合いの丸葉ユーカリをたっぷりと入れてくれた。優しく青い植物の匂いが、ほんのり香る。ちらちらと手元に目をやりながら、ゆっくり足で歩く帰路は、なんだか小学生のときに気に入ったものを道端で拾って持ち帰るときのような気持ちだった。

岡倉天心と花

「花のある暮らし」というと、ずいぶん贅沢(ぜいたく)でおしゃれのようにも聞こえるが、花のない暮らし、というのを送る人はいないのではないか、とすら思う。

花

In joy or sadness, flowers are our constant friends. We eat, drink, sing, dance, and flirt with them. We wed and christen with flowers. We dare not die without them.

 

喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。

岡倉覚三『茶の本』、原題:The Book of Tea、訳:村岡博

これは、明治期の文人、岡倉覚三(別名・岡倉天心)が、ボストン滞在時に茶道を例に東洋の生活の美意識について語った、『茶の本』の一節。

花は、いつも私たちの暮らしに寄り添ってきた。花屋の花だけでなく、よその庭先に咲く花やカフェやブティックの花瓶に生けられた花、春の桜に秋の紅葉、一年を通してどこかで心に刻まれる花を数えたら、いったいどれほどになるだろう。アルバムの冠婚葬祭の写真を見返しても、後ろにはひっそりと、こちらに顔を向けている花がある。それぞれの思い出の中には、いつも花が隠れている。

私たちは、巡る時の節目に花を意識する。それか、花を捧げることで、ある時を節目とするのかもしれない。岡倉は、こう続ける。

Their serene tenderness restores to us our waning confidence in the universe even as the intent gaze of a beautiful child recalls our lost hopes.

 

その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。

岡倉覚三『茶の本』、原題:The Book of Tea、訳:村岡博

花

人の言葉が届かない、私たちの感覚の内に、花は語り掛ける。訳者の村岡は、直訳であれば「静けさのある優しさ(serene tenderness)」とされる箇所を、花の「澄みきった淡い色」と解釈している。

花の色とは、ただそれだけでどこか遠くへ私たちを誘う、詩の言葉の一種なのではないか。そこには、美しさと哀(かな)しさと、それらがこの世を越え出た「永遠的なもの」だということを知っているような、密やかなダイナミズムが感じられる。

「星の涙のしたたりのやさしい花よ」(『茶の本』)。花を前に、何かを「感じる」こと。それは、私たちの暮らしにごく当たり前に滑り込んでくる。

うつろいの物語

あるとき、イギリスの補習校(海外に住む日本人の子どもが、毎週土曜日などに、国語の教科書で勉強をするスクーリング)の授業で、次の和歌を習ったことを思い出す。

花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで

(新古今和歌集 宮内卿)

比良の山から吹き下ろす風が、湖面に桜の花びらを散らした。漕(こ)いでいく舟の軌跡が、くっきりと見えるほどに、という歌だ。

その頃の私には、比良山地や琵琶湖がどこなのか、聞いてもあまりぴんとこなかった。けれど、この時を越える情景は、今もどこかで覚えていた。和歌には、人間の世界の出来事と、自然の世界の出来事を重ね合わせることで、深い詩情を生む技法がある。この舟の道筋は、私たちの暮らしの歩みのような気がしてならない。それを、散った薄紅の花が、浮かび上がらせている。それぞれの物語の軌跡を、そっと花が飾り、賛美する。

古来、人は花に人の命を感じ、人の命を花に喩(たと)えてきた。花は散り、また咲く。それが、季節のうちに繰り返される。蘇(よみがえ)っては消え、消えては蘇る。年を重ねるとは、この、巡る季節を受け入れながら生きていくことではないか。その色彩と意味の深まりを、より豊かに感じられるように。花は、私たちが生命の「うつろい」という永遠の物語を生きていることを、あくまで優しく、さりげなくささやいてくる。

花

花は、枯れてしまう。どんなに花瓶の水替えをしても、数週間もすれば枯れてしまう。駅までの道のりの、一面の野花や紅葉も、いつの間にかすっかり姿を消してしまう。それを愛(め)でながら過ごす日常は、思っていたよりも儚(はかな)いのだ。どうしても、花は、美しさだけでなく、限りあるものの哀しみも際立たせてくる。

けれども、それに思いをはせる時間は、この上なく贅沢で、深い歓(よろこ)びに満ちている。そのひとときは、永遠なのだ。花は詩となり、生活を送る私たちに、生きることの、美しさ、哀しさ、歓びを、言葉にならない言葉で感じさせてくれる。

人生は、花のように美しい。だからこそ、私たちは、忘れたくないときに花を贈り、花について歌い続けるのだ。

次回は2021年2月18日に公開予定です。

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※トップ画像の写真撮影: Shihori Yasuhara/記事中の写真撮影:エリザベト怜美

エリザベト怜美

エリザベト怜美(えりざべと れみ)翻訳者。横浜生まれ、イギリス育ち。上智大学文学部哲学科卒。在学中から翻訳会社に勤務し、アートギャラリー、広告代理店を経て独立。主に、海外ボードゲーム、広告、ファッションの翻訳を手掛ける。ボードゲーム『カップケーキ・エンパイア』『クロニクル・オブ・クライム』『テインテッド・グレイル』翻訳。
Twitter:@_elizabeth_remi