『コロナの時代の僕ら』のイタリア:ロックダウン解除後の日常と非日常の狭間で【飯田亮介】

ヨーロッパの今

コロナ禍が完全には収まらないまでも感染者のピークは越えたとされる「ヨーロッパの今」はどんな状況なのでしょうか?イタリア在住のイタリア文学翻訳家で、パオロ・ジョルダーノ著『コロナの時代の僕ら』『素数たちの孤独』などの訳書で知られる飯田亮介さんが、「イタリアの今」を伝えます。

「日常」にまつわる違和感

イタリアでは6月3日に全国のロックダウンが解除され、居住する州の外への移動も自由にできれば、欧州各国との行き来もできるようになった(6月30日現在、一部の国は制限あり)。ソーシャルディスタンスの確保、店内でのマスク装着など、さまざまな条件付きではあるが、飲食店の経営も再開され、遠くの町まで買い物にも行ければ、友人を訪ねることもでき、旅行もできるなど、かなりの部分で日常生活が戻ってきた。

でもそれはまだやはり、かっこ付きのどこか不完全な「日常」だ。今回はこの「日常」にまつわる違和感について書いてみたい。

山登りの憂鬱(ゆううつ)

僕は山登りが趣味なので、ロックダウンが終わったら、自宅から車で1時間ほどの場所にある通い慣れた山にすぐに行こうと心待ちにしていた。ところが実際には、ロックダウン解除からひと月以上がたった今日もまだ行けていない。なぜか。山が例年になく混雑している様子をSNSで見てしまったためだ。誰もが僕と同じようなことを考えていたのだろう。

独り静かに歩くのが好きなので、混んでいる山には行きたくない。それに、狭い登山道で向かいから来た人とすれ違いそうになったらどうしたらいいのか、山中でもわざわざマスクを出すのか・・・その手のことを考え出したら、行く前から面倒になってしまった。小さなことを忘れたくて行く山で、あれこれルールについて考えたり、他人とのソーシャルディスタンスをはかったりしたくない。それなら自分の村でのんびりしていた方がいい・・・という気持ちがどうしても働いてしまうようだ。

そんなことを言っていたら、どこにも行けなくなってしまうが、しばらくはそれも仕方がないかなと思っている。なにせ、3カ月もの間「家から出ない」ことがみんなのためになる、「ステイ・ホーム(イタリア語ではレスティアーモ・イン・カーサ)」がいちばんだと思って暮らしてきたのだ。いったん身に付いた習慣はそう簡単には変わらない。SF映画のように、侵略してきたCOVID-19星人の母艦が空から消えるとか、目に見える明らかな変化があれば別なのだろうが、もちろんそんなわかりやすい変化はない。徐々に慣れていくしかないのだろう。

そもそもコロナ禍は終息したわけではない。秋から冬にかけては第2波到来の可能性も高いと言われているのだから、まだ半端に浮かれない方がよいだろうという思いもある。そして、どこか浮かれた感じの世間のさまに少々危惧も感じている。今からあまり解放感に酔ってしまうと、いざ再流行で再びロックダウンとなったとき、「もう終わったはずだろう?」と怒り出す者が出てくるのではないか。理屈で言えば、一度ロックダウンを経験した僕らは前回よりもうまく振る舞えるはずだが、実際はどうだろうか。そんな疑問や不安もある。

イタリアの村のマスクとあいさつ

僕が暮らしているのは、イタリア中部マルケ州のモントットーネという人口1000人ほどの小さな村だ。ロックダウン解除のありがたみは村内にいても十分に感じられる。取りあえず、また村の中を闊歩(かっぽ)できるようになっただけでもありがたい。夕方、娘たち(5歳と9歳)を連れて散歩に出掛け、営業を再開したバール(カフェ)で自分は軽くアペリティフを飲み、娘たちは店の前の広場で近所の子どもたちと遊ばせておく、というようなことも、またできるようになった。そんな小さなことが幸せだ。そう思えるうちは、まずはここで、この幸せを十分にかみしめておくのがよい、そんな気もしている。山も海も逃げやしない。焦ることはない。

でも、困ったこともある。店内ではきちんとマスクをしている娘たちも、外で友達と走り回って遊んでいると、どうしてもそのうちマスクを外してしまうのだ。数カ月ぶりに夢中になって遊んでいる姿を見ると、今まで我慢させてきたこともあって、なかなか水を差す気にはなれない。これはほかの親たちも多くは似たようなものらしく、諦めている気配がある。ルールの順守もなかなか難しい。コロナウイルスによる実害が今のところほぼ皆無な土地ゆえの油断もあるかもしれない

そう言えば僕自身、先日、20年ぶりに会ったこちらの友人にハグされ、頰にキスもされてしまった。会ってすぐ、ハグはまだいけないんだよな、とは思った。しかし懐かしの友との歴史的な再会をおじぎで済ますんじゃ(イタリア人的には)あんまり水臭いし・・・そんなことを逡巡(しゅんじゅん)しているうちに、さっさとハグされ、キスされてしまった。うれしくもあり、やはり気まずくもあった。この手の細かなストレスが続く限り、残念ながらまだまだ本物の日常ではないのだろう。

ロックダウンを機に「日常」を考え直す

しかし、そう書いてみれば、「本物の日常」とは何かとも思う。それが単に「コロナ以前とまったく同じ暮らしに戻る」という意味であれば、果たしてあなたは本当にそんな日常を望んでいるのだろうか――ロックダウン中に僕が訳し、早川書房から緊急出版された『コロナの時代の僕ら』の作者で、イタリア人作家のパオロ・ジョルダーノであれば、そう問い掛けてくることだろう。コロナ禍をもたらした原因は、われわれのかつての日常、すなわち現代社会の在り方にあると彼が考えているためだ。

『コロナの時代の僕ら』に「日々を数える」という一章がある。ジョルダーノはそこで、この非日常的な日々を能動的に受け入れることを勧め、「今は非日常の時間だ。この時間の中で生きることを僕らは学ぶべきであり、死への恐怖以外にも、この時間を受け入れるための理由をもっと見つけるべきだ」と訴えている。そう言われれば、今の半ば日常・半ば非日常の日々に出合うもやもやした思いの中には、考えるための大切な種がいくつも隠れている気がしてくる。彼の文章と取り組み、繰り返し読むうち、大局的な視点を得てずいぶんと気持ちが落ち着いたのを思い出した。そろそろもう一度、読み返してみようか。

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コロナの時代の僕ら

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飯田亮介

文:飯田亮介
イタリア文学翻訳家。1974年生まれ。イタリア在住。日本大学国際関係学部卒業後、中国雲南省雲南民族学院とペルージャ外国人大学に語学留学。訳書にパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』『素数たちの孤独』、フェッランテ『リラとわたし』(以上、早川書房)など。
ホームページ:https://www.iidaryosuke.com

編集:ENGLISH JOURNAL ONLINE編集部