フランス語・イタリア語と日本語の翻訳家・通訳者である平野暁人さんの連載「舞台芸術翻訳・通訳の世界」。ご専門の舞台芸術通訳の仕事や趣味とする短歌など、多角的な視点から翻訳・通訳、言葉、社会についての考察をお届けします。第1回は、コロナ禍により意外な 展開 を見せた「語学」の行方がテーマです。
危機的状況下で息を吹き返したものとは
ENGLISH JOURNAL ONLINEをお読みの皆さん、初めまして。翻訳家の平野暁人と申します。
対応言語はフランス語とイタリア語で、舞台芸術専門の通訳者としても活動しています。
突然ですが皆さん、絶滅しかかった経験はありますか?
実は私(わたくし)、このたび絶滅の瞬間に立ち会いました。正確には、絶滅を免れるまさにその瞬間に、と言った方がいいでしょう。
しかも、ずいぶん前から駄目だろうと思っていて、いよいよ時間の問題だと感じ始めたところに決定的な事件が起こって、完全に死に体となりかけたはずが、土壇場で息を吹き返したのです。
そう、「外国語を学ぶという営み」が。
電子辞書と絶滅の足音
外国語学習がいつごろからどのようにして危機に陥り、絶滅への歩みを進めていったのか。
その萌芽(ほうが)は、例えば電子辞書の普及に見いだすこともできるかもしれません。
あらゆる分野でアプリ化が進む昨今では電子辞書すらあまり見掛けなくなりましたが、「辞書を引く」という、外国語を学ぶ上で最も重要で最も面倒な 作業 の効率を飛躍的に向上させてくれたあの魔法の道具の登場は一方で、一つの学習 工程 を人間の手から引き剥がし機械化するという側面を確実に担いました。
今では考えられないことですが、とりわけ年配の先生の中には、機械で楽をしようとする学生たちにいら立ち、「電子辞書は学生を堕落させ、学習の質を低下させる」と批判する人たちもいたほどです。
機械翻訳の台頭と、考えることの放棄
とはいえ、世界中の人々の外国語環境を一変させる きっかけ となったのはやはり、言わずと知れた「Google翻訳」の普及でしょう。
統計的機械翻訳エンジンであるGoogle翻訳は、当初こそ粗悪で意味不明な訳文しか作れませんでしたが、その進歩発達はすさまじく、輸入電化製品の説明書や飲食店の多国語メニューなどが人間の脳をほとんど経由せず消費者へ提示されるようになるまで、さほど時間はかかりませんでした。
大学院に籍を置きつつ、すでに翻訳や通訳の仕事を多く手掛けるようになっていた私は、自分の生業(なりわい)である「外国語」というものが見る見るうちに機械化され、ツールとしてあられもなく消費されてゆくさまを日々、暗澹(あんたん)たる気持ちで眺めていました。
今から思えば電子辞書は、単語を探す 作業 にかかる時間を短縮してくれたにすぎませんでした。精査すべき単語はどれか、検索して表示された複数の項目のうち文脈に照らして最も適切な語義はどれなのか、といったことは自分で考え、見極めなければなりませんし、あくまで辞書ですから、外国語で文章を作る際に一から翻訳してくれるような機能も付いていません。
しかし機械翻訳は、日本語→外国語であれその逆であれ、フレーズそのものをコピー&ペーストするだけで「完成品」としての訳を表示してくれます。どれが名詞でどれが動詞かといった知識すら備えていなくとも、解答という「結果」だけが手に入ってしまうのです。
これは、もはや「考える」という 工程 を丸々機械にやってもらうということです。そして困ったことに、われわれ外国語の専門家にはその行為を批判するだけの根拠がない。少なくとも、電卓を使って請求書を作成し、国税庁の自動計算フォームに頼って確定申告を行う私にあるとは思えません。この原稿だって、Pages *1 に漢字変換してもらいながら書いているのですから。
折しも大学では、Wikipediaを丸ごとコピー&ペーストしたリポートを 提出 し処分される学生が現れ始めていました。
ポケトークの登場、そして終末へ
それでもまだ、通訳者でもある私は「いくらなんでも生の会話まで機械に頼るようになるのはまだずっと先だろう」と、どこかで高をくくっていました。
悲しいかな、やがてそんな思惑も「ポケトーク」という怪物によって粉砕されることになります。「翻訳機」ならぬ「通訳機」を自負するポケトークが変換にかけるインターバルの、その戦慄(せんりつ)するほどの短さ。もちろん雄弁なフランス人アーティストと芸術論を戦わせるのはまだ無理ですが、海外旅行や知人とのちょっとしたやりとりであれば十二分に役目を果たす代物です。
ようやく私は、「外国語学習」の、ひいては「翻訳家」や「通訳者」の絶滅をはっきりと意識し、向き合うようになりました。
流行や技術革新のあおりを受けて特定の職能を持つ人々が廃業に追い込まれ、やがてその職種自体が絶滅危惧種となるのは、近現代史を振り返ってみれば極めてありふれた話です。
先例になぞらえると、 今後は 村上春樹や多和田葉子のような作家の手により付加価値の与えられた翻訳と、「完全に機械化された翻訳・通訳」とに二極化されるかもしれません。
あるいは意識(と収入)の高いごく一部の好事家に向けて差別化された「高級手仕事・匠(たくみ)の翻訳」みたいな商品がプロデュースされ、「こだわりの」「顔の見える」翻訳家が顧客の注文に応じてカスタマイズした訳文を、数年待ちで入手するような時代が来るのかも。
果たして自分は生きて「その日」を見るのか。あるいは「その日」は意外に早く、現役を全うすることもかなわず機械に居場所を追われるのか。
ウイルス禍と外国語学習
そんな閉塞(へいそく)した問いを胸に、いつ不要になるとも知れない語学力を磨き続けて暮らしていたある日、思いも掛けない出来事が起こりました。ほかでもない、新型コロナウイルスの流行です。
文字どおり人知を超えた疫禍に世界は震え上がり、子どもから高齢者まで、社会の基幹産業に従事する人々を除く多くの人が「STAY HOME」を合言葉に籠城生活に突入すると、社会の急激なオンライン化が加速し始めました。
オフィスワークを皮切りに、学校や飲み会、果ては帰省に至るまで、あらゆるコミュニケーションにおいてオンラインが推奨される社会が唐突に到来したのです。
ここに至り、ついに私は外国語学習とそれに連なる営みの完全なる「死」を覚悟しました。
オンライン化が徹底されれば、コミュニケーション・ツールの需要が爆発的に増加します。需要が増加すればおのずと 性能 も劇的に向上し、機械翻訳・通訳はさらなる異次元の高みへと到達するはず。
ヒトの活動を先端技術で可能な限り機械化していこうとする全地球規模の流れの中で、こつこつ単語の書き取りをしたり、イディオムを暗記したりといった血の通った営みは不要な労力でしかなくなる。外国語の学習それ自体が、不要な労力でしかなくなってしまう。もうだめだ。今度こそ本当におしまいだ・・・。
ところが、です。
緊急事態宣言を受けて数カ月先まで白紙になった通訳日程をぼうぜんと眺めていた私のところに、友人たちからこんな連絡が届き始めたのです。
「フランスの友人に近況を伝えたいから、メールの添削をお願いしたい」
「イタリアの友人家族が罹患(りかん)したらしいんだけど、お見舞いの表現って、これで合ってる?」
「数年ぶりにフランス語でSkypeする約束したんだけど、自信ないからレッスンしてくれない?」
それだけではありません。次のような連絡も舞い込んできました。
「失業して時間ができたから中国語を始めた」
「スウェーデン旅行に行けなくなったので、せめてもと思ってスウェーデン語を始めた」
さらに、久しく音信の途絶えていた留学時代の友人たちからも、ずいぶんさびついたフランス語で近況連絡がありました。
まるで示し合わせたように、周囲の人々が外国語学習を再開したり、新たな言語に取り組んだりし始めたのです。
会えないからこそ直接言葉を届けたい
オンライン化が外国語学習の息の根を止めるとばかり思っていた私は初めのうち、正反対の現象が起こっていることに戸惑うばかりでした。
けれどふと、そういえば最近、実家の両親と電話で話す機会がぐっと増えたことに気付きました。疎遠にしていた友人たちとも、以前は苦手だったビデオ通話まで駆使して連絡を取り合うようになりました。
もしかして、遠隔でのやりとりを余儀なくされるようになったことで、逆に少しでも血の通った、自分自身の声で語りたいという人間の欲求がかつてなく刺激されているのではないでしょうか。
いつもなら面倒を避けて機械翻訳にかけてしまうメールも、次にいつ、無事で会えるかもわからないまま自宅にこもっている今だからこそ、自分の心が紡ぎ出した言葉で書きたくなるのではないでしょうか。
いささか甘過ぎる幻想かもしれません。非常時に特有の、一時の感傷にすぎないのかもしれません。
それでも私は今、目の当たりにしていると思うのです。外国語学習が、かろうじて、絶滅を免れてゆくさまを。そうして未来へと 可能性 をつないでゆくさまを。
人が、自らの心をとりどりの言葉に託したいと願う限り。声を響かせ、文を織り上げて、遠く隔たった誰かに届けようともがく限り。
皆さん、今こそ、言語を学びましょう。
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平野暁人(ひらの あきひと) 翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『 隣人ヒトラー 』(岩波書店)、『 「ひとりではいられない」症候群 』(講談社)など。
Twitter: @aki_traducteur
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