私を見て笑ってくれる。それが一番うれしいこと お笑い芸人、川村エミコさんインタビュー(前編)

何かを学び、身に付けた人は、多くの苦労を乗り越え、また同時に多くの喜びを味わっているはず。インタビュー「伝えるということ」では、さまざまな分野で活躍する方々に、そんな学びの体験を伺います。今回ご登場いただくのは、今、テレビや舞台で大活躍のお笑い芸人、川村エミコさん。幼少のころからお笑い芸人になるまで、そしてズバリ「笑いで伝えたいこと」をお話しいただきます。

川村エミコ(かわむら えみこ)

お笑いコンビ「たんぽぽ」のメンバー。2010年10月にフジテレビ系列の番組『めちゃ×2イケてるッ!』のレギュラーメンバーに選ばれてブレーク。コンビ、ソロとしてテレビなどで活躍中。
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物語を声に出して読むのが好きな子どもでした

小さなころは、とにかく暗くて静かな子どもでした。母から教えられたことですが、担任の先生から、エミコちゃんの声を1日一言聞けたらいいほうです、と言われたことがあるくらいでした。だから、今は普通に話せるようになってよかったわ、と。そのくらい静かな子どもでした。

勉強といえば、小学校のときに通っていた、怖い先生がいた学習塾のことを思い出します。その先生は「お母さま先生」と呼ばれていたんですが、よく「顔がたるんでいるんだ!」とビンタされていました。めっちゃ怖かったです。今でも顔を覚えていますが、恐怖の塾に通っていたんです。

それはともかく、小学校のころに得意だったのは国語です。先生によく褒められていました。物語が好きだったんです。小さいころに母がよく読んでくれた、日本昔話が好きでした。

特に好きだったのは、「へび女房」というヘビが赤ん坊に自分の目玉を取り出してしゃぶらせる話とか。昔話ではありませんが、「ノンタン」のシリーズとかは、話を全部暗記してしまうほどでした。それくらい物語が好きで、いつも声に出して読んでいました。

子どものころの悔しさを胸にバンジージャンプ

子どものころはどちらかというと、一人でいることが多かった気がします。一人で本を読んだりとか。でも、友達を作る努力はしていました。

私がよく話をしていたのは、「トド」っていうあだ名の子でした。いつも上下グレーのトレーナーを着ていて、紙を食べる男の子だったんですけど、そんな子といつも話をしていました。紙っておいしいの?ふふ~(笑)とか話して。

あと、クラスに憧れの女の子Aちゃんがいました。小学2年生ですでに『ビルマの竪琴(※1)』とか読んでいて、すごかったんです。なんてかっこいいんだ!と思っていました。登場人物の水島隊員のことも知っていて。

そのAちゃんが、男の子と2人で「ありくも探検隊」というのをやっていたんです。私はAちゃんと友達になりたかったんですが、「友達になるには試験がある」って言われたんです。近所の高い壁を落ちないように渡って回って、ゴールがAちゃんのおばあさんの家にあった鯉(こい)の池で、その脇にジャンプして降りることができたら友達になれる。そんな試験だったんですけど、怖くてジャンプできなくて、結局、友達になれかったんです。悔しかったな。

でも、バンジージャンプが飛べなくて悩んでいたりするときに、あのときなんでジャンプしなかったんだろうと思い出すんです。だから、今日はあのときの思いを払拭するために飛んでやる、と思ったりして。まあ、誰にも分からないからそんなことは言わないんですけど、当時の「ありくも探検隊」に入れなかった自分を思い出しながら、バンジージャンプなどに挑んでいます。

で、Aちゃんはというと、やっぱり中学から名門フェリスに行きました。頭もいいし、『ビルマの竪琴』を読んでいたし。友達になりたかったな。

演劇に憧れていたのに、なぜか剣道部に入った高校時代

おじが演劇をやっていて、小さいころからいろいろな舞台に連れて行ってもらっていました。そのおじが、祖父の葬式で喪主を務めたんです。お葬式って普通暗いじゃないですか。でも、そこでおじがめっちゃ笑いをかっさらっていったんです。祖父のエピソードを面白く話して。「役者ってなんてかっこいいんだ」と思いました。暗いお葬式で、みんなを笑いに包んで。どんな職業の人よりもすてきだと思って、「おじさんみたいな人になりたい、舞台に立つ人になりたい」と思うようになったんです。

憧れといえば、途中、アナウンサーに憧れたこともありました。うちは高齢出産だったので、私が小学、中学のころにはいとこはみんな大学生とか大人だったんですけど、私がいとこのお姉さんに、ぼそっと「私、将来、アナウンサーとかいいなと思ってるんだ」って小6ながらに言ったら、「絶対無理だよー」と。「えー、私の夢をそんなすぐに砕く?」と。もう一瞬でした。それは特に印象に残っています。

私はやっぱり友達が少なくて、静かで暗くて、声が小さくて届かない感じでした。だから、高校のときに、大きい声を出せるようになりたくて剣道部に入ったんです。剣道部って「ヤー」って声を出すじゃないですか。「コテ、メーン」みたいに。

本当は舞台の人になりたかったんですけど、引っ込み思案でできなくて。高校のときも本当は演劇部とかに入りたかったんですけど、勇気が出ませんでした。部活紹介で部員たちが激しいダンスを披露しているのを見て、「ああ、私はあの人たちとは絶対に仲良くなれない、演劇部には絶対入れない」と思ったんです。それで、まずは大きな声を出せるようになろうということで、剣道部に入りました。

そんなふうに前向きであったりはするんですけど、人とつるむことはあまりなくて、いつも一人で考えている感じでした。中学のときも、AグループとBグループがあって、こっちに入んなよと言われて、両方がお互いの悪口を言い合っているのが嫌で、どっちにも入らなかったら、私がいじめられた、みたいなところがありました。

話は戻りますが、剣道のおかげで、めでたく声が出るようになりました。「コテ、メーン、ドウ、ヤー」って。応援するときも「いいとこー」って言うんです。でも、剣道のときは声が出るんですけど、通常のときはやっぱり出なくて。その差が激しくなって、余計、あいつなんなんだと。

最後のチャンスと思い、演劇研究会に入った大学時代

大学に入ったときに、時間がある学生時代、好きなことができる最後のチャンスと思い、演劇研究会に入りました。それも研究会が入っている棟の周りをすごいウロウロして。

ドアの前で、ノックしようかな、どうしようかなと長いこと悩んで、緊張して、いざトントンってノックして開けようとしたら鍵がかかっていたという。「カギかかっとるんかーい!」と。今日こそ門をたたかなきゃってすごい悩んだのに、「いないんかーい!」となって帰ったのを覚えています(笑)。

私が入った演劇研究会は「劇団みつばち」という名前で、自分たちで脚本を書いて演出していました。自分たちで舞台も作って、照明も自分たちでやって、会議室でいつも公演をしていました。私は演じたかったので、最初からキャストをやらせてもらいました。

最初にやったのは新入生歓迎の舞台で、「ニュース」というタイトルの劇でした。いろんなニュースを取り上げて、それが全部コントになっているという舞台。20分くらいの中に、それぞれ3、4分くらいのコントが入っている。そこで初めてやった役がアナウンサーでした。レポーターかな。そこでアナウンサーになりたいという、自分の昔の願いがかないました(笑)。

ストーリーはシュールでした。今、天狗(てんぐ)が発見された現場に来ています、目撃者の方にインタビューしてみたいと思います、って言ったら天狗が出てきてしまい、それでずっと話を聞くっていう話。天狗はすごい鼻が長かったよ、って天狗本人が話すのをレポーターの私がずっと聞くっていう話。シュールすぎて今でもよく覚えている初舞台です。

初めて脚本を書いて演出したのは、「マッハ!老人トロピカル~もう一杯!もうダメだ~」というタイトルの舞台でした。廃れそうになっている商店街を復活させようという話です。おそば屋さんの徳さんの店が潰れそうだ。でも、そこをなんとかしたら商店街がもう一度盛り上がるだろう、というところから始まって、出てくる人はお花屋さんの花ちゃんとか、お肉屋さんやお魚屋さんとか。

登場人物の徳さんはニンジャ・タートルズ(※2)のように目の部分が開いているマスクを着けていたり、花ちゃんは花の形をしていたり、ちょっと『コジコジ』(※3)っぽい世界のストーリーでした。商店街の復活を試みるも、近くの大型スーパーにやられそうになったり、派閥抗争があったりして。で、最終的におそば屋の徳さんのそばに、やばい粉を混ぜて、みんなラリっちゃうんです。で、「もう一杯!もうダメだ!」って。

ダサいけど楽しそうに思った「お笑いジェンヌ」

笑いを選んだ理由というか、始めるきっかけになったのは、大学3年のときに学園祭に来たさまぁ~ず(※4)さんを見たことです。大学の講堂でのライブだったんですけど、その講堂が100周年を迎えるような大学のボロボロの建物だったんです。

さまぁ~ずさんが登場したときに、大竹さんが「なんだよ、ここ、公民館みたいな壁だなあ」って一言言ったら、みんな「あ、分かる!」ってなったんでしょうね、ドカーンと受けたんです。講堂が壊れるんじゃないかっていうくらい。お笑いってすごいと思いました。こんな一言で人をハッピーにできるんだ、なんてすてきなんだろうって。

そのすごさに圧倒されたライブイベントで、机に1枚1枚「ホリプロ お笑いジェンヌ」の募集要項が置いてあって、すぐに「これだ!」と思いました。「お笑いジェンヌ?なんか、ダサいけど楽しそう」みたいな。当時、女の子だけのお笑いの団体を作ろうとしていたのが、ホリプロだけだったんです。何か新しいことができるかもしれない。楽しいことがあるかもしれないと思って、すぐ履歴書を送りました。

演劇をやってきて、お笑いはやったことがなかったんですけど。でも、連絡はすぐにはなかったんですよ。そのころは小劇団に入って活動していたんですけど、大学を卒業するときになってホリプロから連絡があって、「まだやるは気ありますか?」って。かなり長い間、寝かされていましたね、私の履歴書。落ちたと思って、忘れていたくらいです。ケータイ変えてなくてよかったな、と。

当時、私の入っていた劇団が男性だけの劇団にするということで、女性が全員クビになったときだったんです。これからどうしようと落ち込んでいて、もう卒業もしちゃうのに、まじでやべぇと思っていたときだったので、やる気あります!オーディション行きます!と即答でした。

オーディションには、劇団を一緒にクビになったケッシーという、しゃがれた声で、シンガーソングライターの長渕(剛)が好きで、先生を殴って高校を退学になった子、私がすごく面白いと思っていた女の子で、ほんと「ケッシー、イケてるぜ」と思っていた子とコンビを組んで、行こうと思いました。

でも、そのオーディションの3日前にケッシーが「尼になる」って言い出して――彼女の実家がお寺なんです。で、まじかよって。尼になるってどういうことよって思いましたが、「でも、私はもう家を継ぐんだ、尼になるんだ」って言うので、私一人でオーディションを受けに行きました。

みんながハッピーになる、が私の目標

今も思っていることですけど、テレビなどで私を見て、元気に、ハッピーになっていただけたらいいと思ってお仕事を続けています。私が頑張ってバンジー飛びましたとか、こんないじめられていたエピソードがありますとか、そういうのを見聞きして元気になりました、というような声を頂くと本当にうれしいです。うちの娘は学校に行けなかったんですけど、行けるようになったんですよ、とか。そういう話を聞くと、この仕事をしていて本当によかったと思えるので、これからも頂いたお仕事に全力で取り組んでいきたいですね。

おこがましいことかもしれませんが、私なんかを見て元気になったというような言葉が一番うれしいので、これからも私を見て笑ってくれたらうれしいです。

後編に続く

取材・写真・構成:山本高裕(GOTCHA!編集部)

(※1)第二次世界大戦でのビルマ(今のミャンマー)を舞台とした、日本兵の物語。竹山雄による児童向け作品

(※2)1980年代に放送されたアメリカの人気アニメ『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』

(※3)1997年に放送された、さくらももこさん原作のテレビアニメ

(※4)三村マサカズさんと大竹一樹さんの2人からなるお笑いコンビ

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