“Call me Ishmael.”【英米文学この一句】

“Call me Ishmael.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

Call me Ishmael.

—Herman Melville, Moby-Dick (1851), Chapter 1, “Loomings”

刊行当時はサッパリ理解されず、「メルヴィルは発狂したんじゃないか」とまで言われた怪作『白鯨』の第1 章冒頭。1920 年代に至り、アメリカ独自のものを過去に見出そう、という流れのなかで『白鯨』もようやくその斬新さを認められ、この書き出しも、いまやアメリカ小説のなかでもっとも有名な書き出しとなっている。

むろん「俺をイシュメールと呼んでくれ」の意だが、Call me ... という言い方は、自分の名を名乗るときの言い方でもあるので、「俺、イシュメール」と訳す手もある。

で、そんな単純な書き出しがなんでそこまで有名になるんだい、と思われる方も多いにちがいない。漱石の「吾輩は猫である。」の方が書き出しとしてよっぽど芸があるじゃないか、英訳不可能な滑稽味がここにはあるじゃないか、と(実際、英訳は単に“I am a cat.”となっていて、たしかに面白さは激減しますよね)。

とはいえ、このイシュメールという人物、俺のことをイシュメールと呼んでくれ、と語りはじめているにもかかわらず、そして語り手として(まあ途中から物語に溶け込んでほとんど透明になってしまうとはいえ)それなりに物語に貢献しているにもかかわらず、どうやら誰からもイシュメールと呼んでもらえないみたいなのだ─ただ一度だけ、捕鯨船に雇われるとき船のオーナーから「ええと、お前の名前イシュメールだっけな?」と言われるのみ。

人は他人とのつながりを通して、自分は自分だという実感を得る。イシュメールはどうやらそれもままならないらしい(そもそも旧約聖書でイシマエルといえば「世捨て人」「追放者」との寓意がある)。そう考えるとこの男、一気に、「私は誰なのか」「私はほんとうに私なのか」「ほんとうにいま・ここにいるのか」という存在論的不安に取り憑つ かれたアメリカ的ヒーローの代表に見えてくる。やっぱり“Call me Ishmael.”であって、だいたい意味は同じでも“My name is Ishmael.” や“I am Ishmael.” でないことにはちゃんと意味がある。

カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』(Cat’sCradle, 1963)も“Call me Jonah.” から始まるが、内容的にイシュメールの末裔はむしろ、ジョン・バースの『旅路の果て』(The End of the Road, 1958;revised 1967)の主人公ジェイコブ・ホーナーである。その書き出しは─ “In a sense, I am Jacob Horner.”(ある意味で、僕はジェイコブ・ホーナーだ)。「私はほんとうに私なのか」という不安がいっそう鮮明になっている。ただ、鮮明であるぶん、何度か眺めているうちにややあざとく思えてきて、むしろ“Call me Ishmael.” というごく普通な表現の中にそういう不安をナニゲに隠している方が、いわば「飽きが来ない」。やっぱり超有名書き出しだけのことはあるのだ。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

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  • 作者:柴田 元幸
  • 出版社/メーカー: アルク
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 単行本
 
【音声DL有】新装版 柴田元幸ハイブ・リット

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: アルク
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本
 

文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2019年5月号に掲載された記事を再編集したものです。