沖縄で英語を身に付けた2人のおじさんの話【華恵の世界に出会うノート】

沖縄で英語を身に付けた2人のおじさんの話【華恵の世界に出会うノート】

小学生の頃からモデルやエッセイストとして活躍し、テレビやラジオでも大活躍の華恵さんに、人との出会いで心が温かくなった、ふんわり楽しい、すてきな出来事を感じたままに伝えていただく連載です。5回目は、英語を話す沖縄のおじさんとの出会いです。

子どもの頃の共通語が英語だった、沖縄のおじさん

去年の暮れに宮古島を訪れた。

撮影チームと地元出身のドライバーさんと、食堂のようなお店で昼食をとっていたとき、私は、取材中に気になっていたことを言ってみた。

「島の人同士で話すとき、こっちの言葉って、驚くほどわからないんですね・・・」

「あぁ、そうだろうね。今の子どもの言葉も、あまりわからなくなってきているけどね」ドライバーさんは笑う。

「運転手さんが子どもの頃は、みんな島の言葉で話していたのですか?共通語っていうか、東京の私が話すこういう言葉は、子どもの頃、全然使わなかったんですか?」

「あのね、島によっても、村によっても言葉は違うの。子どもの頃は、違う地域の人と話すときの共通語は、英語さ。まだ、返還前だったから」

英語・・・返還前、そんなに英語が浸透していたの?いまいちピンとこない。この島の人たちが、英語で話すなんて。さとうきび畑に囲まれた食堂で、私は、それがどうしても想像つかない。

夕方。海の近くに車を停め、海岸の撮影ポイントを見に行った。海から突風が顔に吹きつける。目をしぱしぱさせながら歩いていると運転手さんが言った。

「これはきついね。風が完全に、あれ、アゲインストさ」

向かい風、という言葉が咄嗟に出てこず、「アゲインスト」という英語がするりと出た感じ。これが、返還前の英語の面影・・・ということか。

テレビの中の歴史ドラマの光景が、目の前に立ち現れたようで、ドキドキした。こっそり運転手さんの顔を盗み見たが、運転手さんは、英語を使ったことが特別なことでもないようで、顔を叩きつける風を手でよけながら歩くだけだった。

沖縄からフィリピンへやってきた、家族思いなおじさん

そういえばもう一人、出会ったことがある。あの人も、返還前から、英語を知っていたのだろうか。

大学を卒業する年の春休み、フィリピンの離島でロケをしていた。そのときにお世話になったコーディネーターのおじさんは、お酒が大好きで、しゃがれた声が印象的だった。肌は日に焼けているのか、体調がすぐれないのか、少し赤黒い。仕事はいつも、ちょっとだけ抜けている。

車で待っていてもらえますか、と言っても、タバコを吸いながらどこか行ってしまう。30分後にあの坂の上で待ち合わせ、と言っても、坂の上の誰かと仲良くなり、気付いたらその人の家でお茶していたりする。まったくもう!と思うけど、おじさんはどこかチャーミングで、険悪な空気にはならない。「困った楽しいおっちゃん」というのが、私とスタッフの共通認識だった。

おじさんはフィリピン語と英語ができた。フィリピン語の方が英語よりも流暢に聞こえた。聞くと、フィリピン語はちゃんと学んだが、英語は、昔から知っていたから、それを使っているだけだ、と言っていた。

撮影の最終日。朝食時、スタッフと、パスポートの確認をし合っていると、おじさんは「僕はマニラまでだからね」と言った。私は初めておじさんの暮らしが気になり、今の暮らしや生い立ちを少し聞いてみた。

おじさんは沖縄出身で、出稼ぎのために沖縄からフィリピンへ来たが、フィリピンが気に入って今ではマニラに住んでいる。沖縄にはお母さんがいるが、マニラにはフィリピン人の奥さんと娘さんがいるので、これからもマニラで暮らしていくと言う。娘の話になると、おじさんは私を見て、「お前さんくらいの年だよ」と目を細めた。よほど可愛いのだろう、目尻がぐっと下がってうれしそうに話す。おじさんのお母さんのことを聞くと、「そうだな、沖縄にも時々は帰らなきゃいけないね」とおじさんは笑った。

生い立ちを聞くうちに、私にとって彼は「困った楽しいおっちゃん」から、「沖縄からフィリピンへやってきた、家族思いなおじさん」になった。

午前中の最後の撮影も終わり、滞在していた離島から、大きな島へ渡った。そこから、フィリピン本島のマニラまで飛行機で渡り、マニラから成田行きの飛行機に乗り換える、という帰路だ。マニラ行きの飛行機のチェックインや荷物預け、全て終わった。

島の空港内に食べるところはない。「空港」というより、遊園地の入り口のような受付カウンターと、その奥に飛行機の滑走路があるだけだ。私たちは、まだお昼を食べていなかった。コーディネーターのおじさんは、「空港周りに食べるところがありますから」と言うが、周りを見渡しても、南国の亜熱帯雨林が囲んでいるだけ。一体どこに・・・?と思ったら、受付カウンターから回り込んだ一角に、屋台が4、5軒並んでいた。

おじさんは鍋を覗き込みながら、「食べたいものを選んで言ってくださーい」と言う。私やスタッフはおじさんに習って、鍋を覗いて歩く。私は、ある鍋の前で止まり、「これはなんですか?」と聞いた。テカリのある茶色が、野菜を覆っている。

「それはね、豚肉とピーマンのチョコレート煮です」

おじさんの言葉に、まじで?とスタッフ一同、湧き上がる。チョコレート煮・・・興味本位で頼んでも、残してしまうかもしれない。でも、ここで食べておくのも貴重な経験になる。

迷っていると、背後で、バタンッと強い衝撃音が聞こえた。振り返ると、おじさんが、倒れていた。え、何が起きてるの?そこからは、音のないスローモーションのような、変な記憶になっている。

カメラマンが駆け寄ると、おじさんの意識が戻った。おじさんは、大丈夫、大丈夫だから、と言いながら、食事スペースの椅子に座ったが、また意識が遠のき、体がぐにゃりと傾く。すぐに痙攣が始まった。屋台のフィリピン人たちは口々に叫びながら、氷を持ってきたり、救急車を呼んでくれたりした。カメラマンとディレクターは救急車に乗った。

「はなえちゃんは空港の荷物を出して。英語、頼んだ」

と言われ、私は音声さんと一緒に空港カウンターへ行った。音声さんは、機材の管理もしている。私は空港の人に、何が起こったかを説明し、すぐに荷物を出したい旨を英語で伝え、音声さんが機材のチェックをする。

おじさんの体調が気になって仕方がない。というか、気持ちが状況に追いつかない。けど今、私は英語担当だ。やるべきことを、やるしかない。音声さんと、荷物を近くのホテルに預け、やっと病院へ向かった。さっきおじさんが運ばれるとき、病院名を聞いていなかったが、救急車を持っている病院は島に一つしかない、とホテルの人に教えてもらった。

病院に着くと、おじさんは、亡くなっていた。カメラマンは救急車に乗っているとき、看護師に「手をもむと意識が回復する」と言われ、半信半疑だったがとにかくずっと手をもんでいたらしい。その最中、病院に着く前に、逝ってしまった、と言う。

それから私は、医者と話すことになった。ここでも、英語を話す役割だ。まず、所持品の薬やおじさんの症状から、持病で心臓発作が起きてしまったので亡くなったという診断だと、端的に医者から説明された。

そして、どういう状況で何が起こったのか、念のため改めて私が医者に説明し、私やスタッフたちがおじさんと仕事をしに離島に来ていたこと、おじさんの勤めているコーディネーター会社の連絡先などを伝えていく。もちろん全て私の判断で話すのではなく、私が先生に聞かれることを日本語に訳し、ディレクターやカメラマンが答えることを英語にして先生に伝えていく。

おじさんの住んでいる場所について聞かれたとき、「フィリピンのマニラに妻と娘がいると、今朝聞いたばかりだ」と私は答えた。まさか、今朝聞いた話を、ここで伝えることになるとは・・・。

しばらくして医者は、おじさんの会社と家族と連絡を取るために、事務室へ行った。

英語、一段落。ふぅ、と息をつくと、私は廊下の奥にあるものに気付いた。

「おじさんですか?」

カメラマンにおそるおそる聞く。そうだよ、とカメラマンがうなずいた。おじさんはストレッチャーに乗せられ、白い布を被せられたまま、廊下に安置されていた。ハエが、上を飛び始めていた。もう少し、どこかおじさんがゆっくり休めるようなところはないのか。いくら亡くなっているとはいえ、いや、だからこそ。私が考えていることを、カメラマンは感じ取ったのだろうか。

「決して大きくはない病院だから。仕方ないよね」

そうですね……と私はポツリと答えた。

島一の病院、と言われたが、日本で想像するような大学病院とはあまりに程遠い建物。入り口に扉もないし、虫も野良猫も入ってくる。ジジジジ、と外の熱帯林の中で鳴く虫たちの声がやたらうるさく聞こえた。

その後、医者が戻ってきた。会社とは連絡がついたが、家族とはなかなか連絡がつかないと言う。だからあなたたちに聞きたいのだが、と尋ねられた内容に、私はめまいがした。おじさんの体を、このままにしてマニラまで届けるか、今、冷却保存するか、焼くか。遺体をどう葬るか。ほしい棺のタイプはもう決まっているのか。時間が経つほど、体の腐敗も進むので、今決められるなら決めたい、と医者は言うのだ。

この頃、私はそういった英単語を知っていた。大学の卒業論文で、葬式音楽について書いたばかりだったので、棺桶(coffin)、埋葬(burial)、土葬(interment)、火葬(cremation)などの単語は、英語の論文や本を読んで、触れていた。卒論の準備をしているときは、興味深いと思って触れていた言葉たちなのが、余計に皮肉だった。現場で聞く時が、まさかやってくるなんて。

私はカメラマンやディレクターに丁寧に医者の言葉を通訳し、「そういったことは一切僕らで決められない、ご家族に決めていただくことだ」という答えを医者にまた英語で戻していく。早く決めてあげたい、と私は思ってしまうが、確かにディレクターとカメラマンの言う通りだ。ぐっと気持ちを抑えた。

私たちはしばらく廊下でおじさんのストレッチャーの近くで、ひたすら立ち尽くしていた。病院に来ている人たちが、私たちの前を度々通った。私たちの隣のストレッチャーには目もくれない。亡くなった方がいると、誰も思わないのか、あるいはわかっているのか・・・。

病院から家族に連絡がついたのは、夕方近くだった。彼らは、明日の朝一の便でこの島にくるらしい。この島とマニラを行き来する飛行機は、一日2、3便しか飛んでいない。他の交通手段はない。

もう、私とスタッフの役目は終わった。

これ以上病院にいても、何もできないから、とカメラマンに促され、私たちは病院を後にすることにした。私は白い布をかぶったままのストレッチャーの方を見る。心の中で、おじさんにお別れを言いたかったけど、白い布の膨らみには、もうおじさんの魂はないような気もして、何も言葉が思い浮かばなかった。

夜、私たちは空港から一番近い島のホテルに泊まった。そこは妙に観光地色の強いところで、浮き輪を持った子供達がロビーを走り回ったりしていた。私たちは昼食もとっていなかったので、ホテルのレストランへ行った。店内の席はいっぱいで、プールサイド脇に通された。そこは、赤や緑などいろんな色でライトアップされた、やたらロマンチックな席だった。

メニュー表を見ても、食欲はないし、注文する気力も湧いてこない。帰りたい、と思った。でも、どこに帰りたいのかもわからない。病院に行っても仕方ないし、昨日には戻れないし・・・。 

「いいから食べるんだよ」

「こういう時こそ、少しくらい無理してでもお腹に何か入れたほうがいいんだよ」

とスタッフたちに言われる。運ばれてきたハンバーガーとフライドポテトは、一生懸命お腹に押し込んだが、それでも半分近く残してしまった。

人生で一番、必死に英語を使った日だ。でも、達成感なんて、一切感じない。おじさん、最期に元気に話したのは、豚肉のチョコレート煮の説明だったんだな……。おじさんの体は、マニラに帰った後、沖縄にも帰るのかな。私はぼうっと、そんなことを思う。プールで遊ぶ水着姿のアジア人観光客たちが、やたら賑やかだ。夜空を見あげると、南国の星がチラチラと瞬いていた。

あれから丸7年が経った。

今でも春先になると、毎年、必ず思い出す。

華恵さん出演情報

◆TBS『世界ふしぎ発見!』のミステリーハンターとして出演。

◆「simple style ~オヒルノオト~」JFN<毎週月・火曜日担当  11:30~12:55

◆「渋谷のかきもの」 毎週月曜日 14:10~15:00  (毎月最終週はお休み)
  周波数:87.6MHz アプリ試聴可能 <渋谷のラジオ

◆「華恵の本と私の物語」 第3土曜日掲載 <毎日小学生新聞

華恵

文:華恵(はなえ)

エッセイスト/女優/ラジオパーソナリティー。TBS『世界ふしぎ発見!』にミステリーハンターとして出演など、大ブレイク中。アメリカで生まれ、6歳から日本に住む。10歳からファッション誌でモデルとして活動。小学6年生でエッセイ『小学生日記』(プレヴィジョン)を出版。中学生、高校生で多数のエッセイを執筆し、活躍の場を広げ続ける多才なアーティスト。

華恵オフィシャルサイト|ORIHIME
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写真:山本高裕
編集:増尾美恵子